正岡子規と漢詩 糸瓜忌に寄せて
今日は正岡子規の命日です。獺祭忌または糸瓜忌と呼ばれ、秋の季語にもなっています。
獺祭といえば、日本酒を思い出しますが…。
獺が自分のとった魚を並べる様が、人が物を供えて先祖を祭るのに似ていることから、獺祭という言葉ができたそうです。
また、そこから転じて、詩文を作る時に多くの参考書をまわりに広げておくことも、獺祭と呼ばれるようになったそうです。
子規は「獺祭書屋主人」という号を使っていたので、命日が獺祭忌と呼ばれているのですね。
糸瓜忌の方は、子規が最後に詠んだ絶筆三句にちなみます。
糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひの糸瓜の水も取らざりき
当時は糸瓜水を薬として使っていたのだとか。
先日読んだ『鳴雪自叙伝』によると、子規の闘病生活は壮絶なものだったみたいです。三十四歳、満身創痍の状態で、それでも意識は最期まではっきりしていたので、このような自分を客観視する俳句が詠めたのですね。
noteには俳句を作られる方が大勢いらっしゃるので、素人の身で俳句を語るのはここまでにして、正岡子規の漢詩について少し書いてみます。
内藤鳴雪は俳句では子規の弟子ですが、漢詩を子規に教えたそうです。子規より二十歳年上の鳴雪は、幕末期に教育を終えています。蘭学や英語を学ぶこともなく、漢文・漢詩が教養の基礎になっている世代です。
子規や夏目漱石の世代も漢文を学んではいますが、江戸時代に教育を受けた人たちとは、教養の深みが違ったのかもしれません。
国会図書館には、子規が筆写した菅茶山の漢詩集『黄葉夕陽村舎詩』が残っています。
菅茶山は、頼山陽と並ぶ江戸時代最大の漢詩人です。森鷗外の史伝小説『伊澤蘭軒』にも登場し、人情味あふれる性格で、主人公をしのぐほどの活躍をしています。また、先日読んだ田辺聖子さんの『文車日記』には、『黄葉夕陽村舎詩』について「彼の詩は、語句がよくこなれて、やさしい人柄と、しずかな詩人の目がかんじられます」と書いてありました。昭和生まれの聖子さんも愛読する漢詩集だったんですね。
『黄葉夕陽村舎詩』は茶山の代表的な詩集であり、作者の存命中に出版されてベストセラーになっています。鷗外の小説によると、海賊版が出回るほどの人気だったようです。
そんな詩集ですから、もちろん、子規の時代にも出版されていたわけですが、子規は菅茶山の漢詩を自分で筆写することで、彼の漢詩を学び、それを俳句作りにも活かしたのではないかと想像します。
馬鹿野郎糞野郎
一棒打尽金剛王
再過五台山下路
野草花開風自涼
これが子規の最後の漢詩です。高橋睦郎さんの『漢詩百首』に出ている訳は、
『水滸伝』のあるシーンを下敷きにした詩でもあるようですが、冒頭の叫びや「野の草花がことごとく咲いて、風が涼しい限りじゃないか」という描写は、病床での子規の心象風景そのものだったのではないでしょうか。