2019年公開の「ジョーカー」は、そんなに単純な物語ではなかったはずだ。
最近、陰惨な事件が起きたばかりだ。
私の生まれ故郷でもあるため、初めてニュースを見たときは、目を見張った。
事件の初見の印象は、京王電鉄内で起きた刺傷事件。
さらに火を用いたテロルのようなものであり、10月31日ということもあり、危険ドラッグなどの常用者による犯行かと思っていた。
しかし、翌日、友人からきたラインで、驚いたのは、犯人がジョーカーの格好をしていた、という情報であった。
私は、ほんの少しだけ興味を引かれ、ネットニュース上で「ジョーカー事件」の詳細を見てみた。
テレビで放映されていた少年の姿はたしかに、映画の「バッドマン」のジョーカーを模したものであったが、あまりにも滑稽で、またタバコを吸う姿が様になっていないことから、おそらく小心者の犯行であることは目に見えていた。
そこで、はじめに感じた違和感は、「なぜ、ジョーカーだったのだろう?」と、いう単純な疑問であった。
そして、彼は「バッドマン」で取り上げられたダークヒーローとしてのジョーカーしか、知らなかったようで、そこにもまた、個人的な不満というか、不完全燃焼のような印象を抱いた。
2019年に初めて公開された映画「ジョーカー」は、バッドマンの悪役が、どのように生まれたかを、描いていたが、決して正義と悪の対比としてのキャラクターではなかった。
実際、「ジョーカー」の中に出てくる彼は、ジョーカーではなく、「ピエロ」であった。
貧困社会のなかで、気が狂った母親の世話をしながら、コメディアンを目指していた彼は、自らも仕事中に受けた怪我によって、脳に障害をもつ。
笑い続けてしまう、脳の障害のため、通常生活を送ることは困難となり、日に日に財政難となっていった福祉施設からも生活援助金を受けることができなくなる。
職場で、不当な扱いを受けたばかりに、首にされ、稼ぐ先も、未来も失った男は、次第に精神を病んでいった。
彼の階段上で踊る姿は有名で、よくユーチューブでも取り上げられているが、そのダンスの悲しさは、貧困と理不尽の生んだ悲しい怪物の姿であった。
彼は、地下鉄の列車内で老人に暴力をふるっていた青年三人を見ながら、笑う発作が出てしまい、笑い続けてしまう。
深夜の列車では、殴られる老人と青年三人と、彼しか乗っていなかった。
彼は、青年三人にからまれ、殴り倒された瞬間、何かの糸が切れたように、発砲した。それも、何発も打ち抜き、三人の青年を殺した。
殺人に理由はなかった。彼の言葉を借りるなら、「馬鹿を撃っただけだ」ということだ。
この物語の経緯から想起されるものは、フランツ・カフカの「異邦人」や、「ハンナ・アーレント」のなかで取り上げられた「凡庸な悪、アイヒマン裁判」だろうか。
カフカのなかで描かれている主人公は、母親が無くなった翌日も平気で生活を送り、海沿いの太陽の光がまぶしい、という理由から、洞窟内にいた数人の黒人を撃ち殺した。
また、アイヒマン裁判では、「役人のように、彼らは自らの行動の先を何も考えていない。役人が文書を処理するように、目の前の仕事を処理していただけだ。つまり、思考停止者により、人は大量に殺された。そして、それは、悪魔的な魅力を持つ殺人犯や、主義主張をもつショアーとは違う。誰もが行うことができ、誰もがそのシステム内に陥る。」というアレントの、「凡庸悪への批判」とも、重なってくるものがある。
ここにきて、本当に不気味な殺人とは、理由のないもの、ということが言える。
当然だろう。人間の行動とは、まず感情や、思考から、肉体への命令が起こり、初めて行動へと移る。つまり、瞬間のなかで、私たちは非常に論理的な経緯をたどって現実を歩いている。
しかし、「ジョーカー」や、「異邦人」などの主人公の行動には理由などない。「アイヒマン」には、思考能力がない。
だからこそ、何でもできるし、躊躇もしない。事前事後に、何も感じないのだから、無味乾燥した印象と、その無意味さから、普通の人間にはどこか薄気味悪い印象を与える。
このような物語から、私たちに訴えかけてくるものは、既成の概念に対する問いかけのようなものもあり、また、理由というものへの問いかけのようでもある。
必ずしも行動に理由はいるか?
そのように問われたとき、実際、私たちの日常生活動作の中には、ほぼ理由など無いもののほうが多そうだ。
さて、話を戻すが、京王電鉄における刺傷事件は、理由があった。
しかし、その理由も少々疑わしいものである。
「死刑になりたい」という理由で犯罪を犯す者は、少し前から、ぽつり、ぽつり、と出てきてはいるが、本当だろうか?と、私はいつも疑念を抱いていた。
死刑になれる犯罪は、公にも知られているように、「強盗殺人」である。
多くの人間が勘違いしがちだが、「殺人」よりも「強盗殺人」のほうが、罪は重く、「無期懲役」か、「死刑」以外考えられないほど、選択肢の決まりきっている罰が、そこには待っている。
あまり、公でこのようなことを書くと誤解を生みそうだが、私は「犯罪をやれ」と言っているのではないことを、先に明記しておく。
死刑になりたいのなら、「強盗殺人」を行えば、簡単に死ねるだろう。
しかし、なぜか死刑の成りたがりは、一様に強盗殺人を犯すことはない。
そして、逮捕され、理由を聞かれると、「死刑になりたい」という。
これは一体、どういう連鎖なのだろうか。
ここに至り、私がよく思うのは、日本における尊厳死と安楽死の問題であった。
どちらも条件が多く、ほとんどがそれに該当することがないため、植物状態になろうとも、生かされ続けることが多いのは周知の事実である。
端的に、「死刑云々」を理由に死にたがり、殺したがる人間を阻止できるとしたら、死刑以外の法的な死を受け入れてゆくか、生み出してゆくしかないのではないか。
スペインでは、尊厳死も安楽死も許されている。
そのため、わざわざ、スペインにまで行き、尊厳死を選択する者も多くいるのだ。
生とは、誰のためのものか。
死とは、誰のためのものか。
様々な意見が飛び交うことも承知の上で、言うが、これだけ社会が多様化している以上、生死を自由に選択できる社会へと変わってゆくことも、もしかしたら、必要な時代へと向かいつつあるのかもしれない。
そうでないかぎり、関係のない者をまきこむ事故や、事件ばかりが多発するばかりである。
「命は大切に」を守ることができない人間がいることが一定数いることを受け入れ、もはや、死にたがりには、勝手に死んでいただいたほうが、殺傷事件の発生率は下がるのではないだろうか。
つまり、私たちは、命は重い。と、言っておきながら、命を大切にする本当の方法を知らないのだろう。
それは、理論理屈ではなく、感覚的なものからきているのだとしたら、もはや個人の倫理観というあやふやなものに、現代の重さを担わせるには、ちと荷が重過ぎるのかもしれない。
人が生死を選択するのには、個人的な訳がある。
個人主義がこれだけ増加し、多様化した社会のなかで、生死のみが、いつまでも集団性から抜け出せない。
私たちは、命を大切にしすぎたばかりに、命を軽くしはじめている。
それに早く気がつかない限り、現代社会のなかで、このような理不尽な刺傷事件は後を絶たないだろう。
――「ジョーカー事件」に対する一考察。