学生時代の小論が出てきたよ?その2(夏目漱石小論―『門』『思い出すことなど』)
『門』から『思いだすことなど』へ、夏目漱石小論
一
夏目漱石、中期の作品とも言える『門』は、明治四十三年(一九一○年)三月一日から、六月十二日まで、東京朝日新聞紙上にて連載された長編小説である。漱石研究が進むに従って、『三四郎』『それから』に続く三部作目の最後の作品と、考えられている。
「門」と言う題名は、弟子の一人である小宮豊隆、森田草平らによってつけられたものだ。それゆえ、『門』の批評において、「後半に出てくる参禅は、作品をまとめるために無理やり挿入したもの」と言う指摘もされていた。
江藤淳は『漱石とその時代 第四部』のなかで、「門」の題名の意味には、社会や家族などの共同体からつまはじきにされた夫婦が、生死の境界を越えるか否かの葛藤を、あるいは「それから」以降の六年間の夫婦の停止を示しており、一心同体の夫婦はすでに死んでいる、ものとしている。それゆえ、一見すると穏やかで静かな日常生活を描いているようではあるが、それは表面的なものに過ぎず、裏側には隠蔽された「罪」としての過去、「死」がある。その過去としての「罪」、安井の出現によって、宗助が参禅へ向かったのは「死の希求の実現である」と、している。
江藤の言う「表面的な日常風景」とは、「門」においての魅力の一つでもある。冒頭の「近来」の「近」の字が出てこない宗助に対して、お米が空に指で文字を書いてみせるやりとりなどは、目前で行われているかのような細かさがある。弟の小六に、障子の半紙を貼らせるところなど、前半部における風景と人の関わり方の描出の美しさに、うっかり「過去の罪」としての安井など忘れてしまう。本篇がこっちかと思ってしまい、後半の「安井」の葛藤など希薄な印象を受ける。
後半、坂井家での安井についてのやりとりなど、たしかに『それから』にあったような、プロットの精密さに戻ってきたように見える。しかし、計算しつくされた部分ほど鈍く霞み、その計算を成立させるのに必要な描写のほうが、作品の在り方を生かしているようだ。それは、朝日に入社後すぐに執筆した『虞美人草』が不評だったのに対して、大阪朝日で執筆した短編『文鳥』などに、『吾輩は猫である』以来の漱石の筆の巧みさが現われている、と評されていることに似る。後半の二作は、どちらも深い「死」を内包している。しかし、表には出ていない。『吾輩は猫である』を書いた漱石の神経は相当ぶれていたし、だからこそ同時期に書かれた『倫敦塔』などの作品には、如実な「死」が描出されている。
また『文鳥』において、前半の鈴木三重吉とのやりとりは滑稽だが、一人机に向い筆を動かし続ける孤独の日々と相対するように、時折鑑賞されることによって、より美しさを増す文鳥の姿、粟の食べ方、紫の帯の女の想起など、表面的な軽妙さが、より深部への「死」を現している。だからこそ、閉鎖的であり、完成された美がある。死と言うものは、このような「なんでもない日常」のなかで、部分的に現れる。だからこそ、突発的に内をかき乱す不安は、見るに堪えないものであると同時に、美しいものにまで押し上げられる可能性を持っている。漱石は、直視できない「異常」「恐怖」「不安」と言うものを、「常態」のなかに生き返らせる(美しいと感じさせる)筆力に、長けた作家であった。
『門』において、隠蔽されていたのはたしかに「罪」であるが、罪ゆえにつねに意識されているのは、やはり自己の「死」である。最後の参禅における「門」を超えたくとも越えられぬ、と言う宗助の在り方には危機迫るものがある。誰だって一度は、死と生の境界を越えられず、帰ってきてしまう経験を持っているからとも言えるが、漱石の主題が「不測の事態の発生による、常態の変質」にあるからとも考えられる。
二
わたしたちは生まれている以上は、どこかある一定の土地に故郷を持っている。しかし、生まれた土地だから、ナショナリズムが生まれる、と言うことはない。文化、自己同一性の生成には、さまざまな条件が関わってくる。つまり、風土、気候、地質、さまざまな条件下のなかで、人が自然とどのように関わってゆくのか、その「間柄」において文化は生成されてゆく、と言う一面があるからだ。このような、自然と共同体との関係性から、その土地に暮らす人々の性質を論じたものに、和辻哲郎の『風土』がある。
『風土』の初稿は昭和四年(一九三十年)に書かれ、補筆し出版をしたのは昭和十年(一九三六年)である。もちろん、当時の左翼理論への対抗として執筆されたものではあるが、和辻自身その部分を洗い落し、「シナ」に関わる論考を追加して、純粋に風土について考察した、と昭和十八年(一九四四年)の序論において改めている。
地質や地形、気候を「自然」ではなく、「風土」と定義するのには、「自然」だけでは説明できない視点を、持っているからである。人と自然との「間柄」から生じる、「生活の必要」によって文化というものがある。ある土地に暮らす人々のなかで生まれる文化とは、ある気候の変化に対して、対抗するための道具として生まれ、その気候の変化に応じて芽吹く植物などを共有している者同士、京楽の対象にすることで、祭りや集まりが行われている。
右のような観点から、和辻は日本の特殊な気候や地質、地形を「モンスーン型」と定義した。熱帯の大洋から陸に向かって強く吹きつけてくる、夏の暑熱と湿気を多く含んだ風が、中心となっている土地のことだ。さらに、インド、シナ以外の日本特有の気候の在り方として、暖気と寒気の併存を示す。
だから、米とともに麦が耕作され、寒暖併存気候に特有の、しなやかで弾力性のある竹が生える。その竹で小屋、弓、笛、水筒なども作られ、当時の生活や京楽を支えていた。また、気候変動の著しい「四季」から、活発で鋭敏な性格を有していることを指摘している。ある対象から、ある対象へと移り変わってゆく意識の早さ、変動の早さゆえに、感情の表出の機微が細かく、突発的なものなのだ。そして、それらが日本人の性質をもっとも特徴づけている、としている。
つまり、局所的で突発的な「台風」の発生と、「寒暖の併存」にある。寒暖によって、移り変わりの激しい、短い期間内における忍従性がつくられ、台風によって激しい突発的な性格、感情が内包される。それが、日本人特有の自暴自棄、淡泊に命を捨てる傾向を強めており、反抗や抵抗の戦闘性が突発的に発生し、すぐにあきらめの忍従性へと変化してゆくのだ。
ここで、注目すべきはイデオロギーや、政治制度とはなんら関わりのない、地質や気候の特殊性、影響によって、ある土地に暮らす人々の性格の傾向を定義づけているところにある。もちろん、その性格とは「規定」しているのではなく、「傾向への物差し」であるから、細部においての差異は多少生じるだろう。
しかし、現に日本の武士は恥をかいたら切腹をしていたし、花の散りゆく儚さに自らの命を想起する歌を詠んでいる。もちろん、第二次大戦中の特攻隊などは政府のつくりだした、「天皇制度」が機能していたからだ、国民の素養が人を殺す訳ではない、と言う反論もあるだろう。だが、実質的に一八六八年に起こった明治維新から先に行われた政治(王政復古)は、鎌倉以前の中央集権化の焼き直しに過ぎない、と言う和辻の意見には説得力がある。つまり、ある制度が機能しやすい素養を、同じ土地に暮らしている人々も、持ちやすい傾向があることを見落としてはならないのである。それは、出自の問題であると同時に、暮らしている土地の性質に根ざしている。
「近代化」と言う政府の欺瞞へ反抗する一方で、森鷗外、永井荷風、夏目漱石などの文学はある。しかし、そうした言語を超越できた明治の知識人でさえも、国の奴隷であったことは否めない。ましてや、漱石などはロンドン留学において、言語の交換さえままならない、決定的な「文化差異」と言うものを目の当たりにしている。言語の交換だけで「国」を脱せるのなら、知識人は日本に帰らなければ良い。しかし、それができない(やらない)のは、言語でさえもその国の人間には敵わなかったからである。
外国人が、他国で暮らすためには、見合った能力がなければ、生活も困難となる。漱石や鷗外という言語において卓越していた人々が、生活の超越ができなかった(やらなかった)か、どうかは定かではないが、彼らは程なく帰郷している。経済的な問題が多分に含まれてはいるが、少なくとも漱石は、イギリスで英文学を教えることはできなかった。それは、「私の個人主義」のなかに一種病的な敵意、自己への幻滅を補償せんとするための自信の樹立、として表出されている。
漱石は、自分の学問の素養を支えていた明治の日本の在り方に、幻滅していた。だからこそ、『文学論』を書いた訳だが、この論文さえも「奇形児」と自ら評している。おそらく、中途で終わっているためか、理想通りの論文にならなかったためだろう。帰国してからなお、「知識人」として働き、神経衰弱を起こしたのは、留学中に構想していた「自己本位」の思想を、如実に表現した作品を残せなかったからかもしれない。
そのため、留学後、日本で暮らし、文学を復興させてゆく態度には、反抗と抵抗、忍従のあとの激しい感情の発露、あきらめの性格がある。「ホトトギス」で連載を始めても、「武士道」の焼き直しのように、紙面において戦っている。外国の水を知ってもなお、自国の水を欲している。あるいは、帰ってきている。
言語も、土地の信仰も、食も、幼いころからの「環境」の一部として、身体の記憶に染み込んでいるからである。それは、米をなつかしむのと同じように、簡単には捨てられないものだからだ。捨てられないからこそ「文化」であり、自己たり得ている。もちろん、生まれた土地だからではない、暮らした土地だからである。このような意味において、「風土」を超越することができない限り、いかに国際化してゆこうとしても、国民に国の選択があるとは、到底思えない。
だからこそ、漱石の作品のなかには、痛切な自己の「喪失」と「執着」があったのではないのだろうか。「存在」の問題は、社会構造や変遷がどのようなものであっても「重たい」と、言うことだ。その自己存在の重たさへの省察が、つきつめられている漱石の作品世界は、すでに「翻訳文学」の領域を超えている。
三
皮肉なことに、漱石はこの『門』を執筆してからすぐに持病の胃潰瘍を悪くし、修善寺で大量吐血による脳貧血を起こし、時間にして約三十分間の死を体験することとなった。漱石が、体験としての死を味わったのは、これが最初であり、大患以後の小説が痛切な重みを持つようになったことと、無関係とは言えないだろう。では、『門』と『思いだす事など』の間には、何があるのか。
明治四十三年の八月から十月初にかけて、静岡県伊東市にある修善寺にて、大患の安静を図った。八月初頭、胃潰瘍による大量出血、吐血による、脳貧血を起こし、三十分間の臨死体験をする。しばらく回復したのちに、当時の死の前後、あるいは「死」そのものについて思考し、記述している。
漱石は肉体が自由意志に従って動かないことから、心身の不具合、ずれのようなものを感じている。また病気のために、社会などの外の世界から、一線区切られた病床の世界に、安心感さえ覚えている。そのなかで一つの存在の生、個人の関わっている現実というものが、身体によっていくらか規定されていることがわかる。
臨死体験の後、漱石が最初に意識したのは肉体に残る苦痛と不具合だった。通常の健康体であれば意識されなかった部位や、動作などを意識せざるを得無くなったのは、痛みのためである。腕を持ち上げる、下ろす、と言う単純な動作でさえ、他人に手伝ってもらわなければならない。自己の肉体の不安定さ、頼りなさを「ゴム風船の酸欠」として考え、身体の不全について説明している。この部分に、自己の思い通りに動かなくなる、「他者としての身体」がある。
意識できるものとは、すでに「自然状態」とは違うものである。「胃が健康な人間は、胃がどこにあるのかを知らない」と、言うのは、痛みの持続のために、つねに胃そのものを意識していなければならない、と言う精神の苦痛からくる言葉である。そして、自己の身体だけで起こっている異質性、闘いと言うものは、他者には決して理解することはできない。それは、目に見える怪我とは、また違った異質性を有している。漱石が三歳時にやった疱瘡による、あばた面などは人の目に見える。見えるがゆえに苦痛をともなう場合もあるが、胃や骨など皮膚の下、見えない部分における異質性を意識し続けることは、また違った苦痛をともなう。
視覚における共有は、時に個人を慰めることもあるが、視認さえできない欠如、不具合は、共有できない苦しみを絶えず内包している。肉体が衰弱して、動けなくなり、右手も満足に動かせない自己の身体への心細さなど、そばで世話をしていた妻鏡子でさえも、共有することのできない感覚である。
ユダヤ人で、社会学者でもあるノルベルト・エリアスは、『死にゆく者の孤独』のなかで、施設に追いやられる老いた肉体や、目前に死の迫っている病人は、みな等しく孤独を有しており、さらに広げて言及するなら死に向かって生きている人間存在とは、みな等しく孤独である、としている。さらにエリアスは、死を忘れることによって、生が成立し、その忘却を脅かすものが目前にある場合、一種の不快感をともない、それによって病者や老人などの「死を内包している他者」を隠してしまおうとする、見ないようにする、としている。
なぜ若者は老人を見ても同情しないのか、他人ごとのように振舞えるのか、あるいは病者や老人を隠してしまうのか。自分もいずれ老いて、死にゆく、と言うことを忘れることで、生きていられるからである。信仰の有無は別にして、「死」をつねに意識している人間は、そう多くないだろう。貧困から路上に横たわっている子供か、戦場の兵士か、重病を有している者くらいではないだろうか。
人は自分が死ぬことを知っている。それは、宗教的なものから、あるいは医学的なものから、他者の死から、知っていることである。死を考える、と言うことは誰もが一度はやったことがあるはずだ。しかし、その思考は持続しない。やはり、他のことですぐ忘れてしまう。つまり、「死」の意識は一時的なものに過ぎない。しかし、重病者らにとっては、死を忘れてしまうことのほうが、一時的なものである。「いつ死ぬかわからないが、比較的死ぬ確率が高い」と、思っている者はなおさら、突如現れる死の接近に対して、敏感になる。緊迫状態を、自己の意思とは関係のないところでつねに強いられている。それが『門』の夫婦にある表面の穏健な生活に隠された、深い「死」の重厚でもある。
『門』執筆前から、すでに胃潰瘍を患っていた漱石が、身体の側から迫りくる異質性を知らなかったとは、思えない。ロンドン留学中に書いた『文学論』から、神経を極度に疲弊していたことから、精神における疲労、不安、死は知っていただろう。しかし、実質的に肉体が死を体験するのと、精神の緊迫による衰弱は違う。死が「臨死体験」(一度死んだが、生き延びた)や、「内包」(病気とは、長期的に死を意識することから、「死」の内在化とも考えられる)に移行したとき、生死観は大幅に変化してゆく。つまり、持続的な痛みこそ、意識されないものを意識させるものであるため、「胃が健康な人間は、胃がどこにあるのかを知らない」のであり、身体の一部にある種の「死」の継続的なものを持っている。だから漱石は、胃がどこにあるのかを、つねに知っていたのだ。
四
宗助やお米は罪を意識することにより、一種の病者とされ、社会から乖離した存在となる。それゆえ、つねに「死」を内包せざるを得なくなり、また自分たちから「罪人である」と自覚し、決定し、振舞ってゆくことによって、本当の罪人となってゆく。もちろん、実質的に社会や家族から「疎外」されたことによる「死」の内包はある。同様に、漱石は大患時に、社会や家族だけではない、自己の身体からも一度「疎外」されたのであり、その継続として身体の苦痛と、不具合がある。痛みをつねに了解することにより、自ら「病人」となり、安静のために世間から隠されるのである。前者は生から追われる者としての「死の希求」であり、後者は死を追う者としての生である。
この生死観の転倒が、大患前と後との作品においての、境界であると言えるのではないだろうか。しかし、境界を越えてもなお、漱石は自己の出自にこだわり続けた。漱石の作品世界を支えていたのは、「環境」の部分が大きいようでもある。留学前後の幻滅、心身衰弱による病床から脱出してからの幻滅、つねにある期待を胸にしながら、その期待を喪失している。喪失と執着をくりかえしながら、絶えず主軸としていた問題は、自己と家族との関係性であった。
だからこそ、過去の家族も、現在の家族も一様に、問題の中心に据えていった。生涯において「家族」と「存在」の問題に懊悩し続けたのが、「夏目漱石」そのものと言っても過言ではないのかもしれない。(七九七一字)
五
では、それほどまでに漱石を苦悩させた問題とは、いったい何だったのだろうか。一つずる検証してゆくとなるとキリがないが、いくつか上げるとしたら、ロンドン留学の経緯と、幼年期における実家、養父母との関係性、文明開化の時代を知識人として生きていたことに、起因する部分は大きいのかもしれない。そのことは、「思い出す事など」において、江藤が「感傷的だ」と評し、弟子たちが「本当の意味で人間的に寛大になった」という感慨を持たせた、漱石の言葉から見出すこともできる。
《……余はこれ等の人に、どうして来たと聞いた。彼等は皆新聞で余の病気を知って来たと云った。仰向けに寝た余は、天井を見詰めながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。住み悪いとのみ観じた世界に忽ち暖かな風が吹いた。
四十を越した男、自然に淘汰せられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、忙しい世が、これ程の手間と時間と親切を掛けてくれようとは夢にも待ち設けなかった余は、病に生き還ると共に、心に生き還った。》(「思い出す事など」十九・傍線引用者)
実際は、妻鏡子が方々へ危篤の電報を出した為に、多くの人が召集されたのだが、漱石はその事実を知らない。「さしたる過去も持たぬ男」と謙遜してはいるが、「さしたる過去」はきちんとあり、その過去の認識にともなって、「病後の感傷」に同情を寄せる弟子たちが、あったのではないか。
江戸牛込馬場下にある夏目家は、生後間もない漱石(金之助)を、四谷の古道具屋の籠の中に捨てるが、同情深い姉房によって連れ戻されている。この間、赤ん坊であった漱石の眺めていた景色とは、籠の上に吊るされていた豆電球の小さな明かりである。母の笑顔や、肌のぬくもりなどではない、冬の乾いた風と、身を包んでいた綿だけである。(「道草」「漱石とその時代 第一部」「漱石年表」などを参照)
一歳をむかえてすぐ、塩原家に養子として育てられることになるが、その家庭環境も長くは続かない。七歳の時に、養父の昌之助が愛人かつと通じたことがきっかけとなり、形ばかりの「家庭」も壊れ、養母の執拗な夫への憎悪や、嫉妬からくる歪んだ人間観に嫌悪感を抱くようになる。九歳になって、養父母が離婚したことによって、程無く実家に帰される。それでも、「夏目姓」を名乗ることができたのは、二十一歳になってからであった。
漱石は、どこにも所属できない浮遊感を、生後間もなくから、中等・高等学校で、中村是公や正岡子規と出会っても、ロンドンに留学してもなお、抱き続けていたのかもしれない。特に幼年期の家、親、名、という根源的なアイデンティティーが変動的だった状況や環境が、つねに漱石を追いつめていたのではないか。しかし、漱石の同一性が希薄だったことは、実家から追い出されたことや、養父母の関係が解体したことにのみ依るものではない。実質には、もっと根深い暗さがある。
「道草」という小説は、大正四年に朝日新聞紙上にて連載された、漱石の自伝的小説といわれている。その小説の主人公健三を、漱石の評伝においては、漱石本人として認識されている。ここでは健三の経験を、漱石としてとらえ、展開してゆくが、「道草」さえも小説作品であることには、留意しなければならない。もちろん、それは「思い出す事など」という作品も例外ではないのだが。
金銭目的で養子にされていた漱石にとって、塩原夫妻の「お前の本当の御父さんと御母さんは誰だい」(「道草」四十一)という問いは、江藤の指摘にもある通り、進んで答えたいものではない。彼らにとっては、父母であることの証明を、子供に求めた戯れであったとしても、実質的にどこにも所属意識を持てないでいた、幼い漱石にとって「自分が何者であるか」に近い、このような問いは、容易に答えられるものではなかったはずだ。
そのため、夏目、塩原両家から、親子としての愛を受けることは、ほとんど無かったのだろう。塩原夫妻にとっては、夏目家から養育費を取り立てるための道具に過ぎなかったのだ。しかし、だからこそ、漱石は自らで生活を立ててゆく必要を感じ、猛烈に勉強していったのではないのか。成績優秀者には、国から学費の援助などもあったからだ。高等学校、大学予備門の時代から、塾の講師などをして稼ぎ、下宿生活をし、実父母へ仕送りをしていたことからも、自立性への強い意識はうかがうことができる。(「漱石年表」)
また「学ばなければ、時代に置いて行かれる」という切迫もあり、勉強を続け、東京大学を主席で卒業、留学を果たし、国の代表として文化復興の推進のかじ取りを担うことになる。しかし、それはどれも「生活の必要」に追われての行為であり、「国の役に立つ」という部分に関しては、漱石自身消極的な態度であった。それは、後の学位授与の拒否など、政府高官に対する反抗的態度としても有名である。その姿勢は、作品中での文明批判、個人主義を中心にした人物間の関係性にも表出されている。「維新の志士のごとく文学をやりたい」と、あるように権力に対する抵抗を、豊富な知識において行っていたと言える。
しかし、福沢諭吉の「学問のすすめ」などの著作が、明治社会のなかで、いかに表面的な倫理に過ぎなかったか。漱石や鷗外など、後年の知識人たちによる考えと、実行の推移からも知れる。もちろん、政府の政策と、福沢の「個人主義」を信望する姿勢はまったく違うものだが、江藤の指摘するところの、小学生の教科書に使われている「必ず無用の人となることなかれ」は、福沢自身も例外ではなかった。
明治維新によって、階級制度が解体され、「追いつき追い越せ」の競争を強いられる社会に、変化していったように見える。しかし、その実は未だ階級制度と、貧富の差を有す競争社会との堺に在った。鷗外、漱石など、政府高官や、東京大学出身者などは、国の推薦で外国に留学することはできた。それ以外は富裕層のみ、例えば有島武郎や永井荷風などは、親の経済力によって、直接西洋の文化に触れることが可能だった。しかし、島崎藤村や、田山花袋、岩野砲明などの農民出の青年たちは、高学歴に登ることはおろか、経済状況からも直接洋行などは叶っていない。キリスト教などを通して、外国語を学ぶしかなく、彼らにとって「誰でも書ける文学」として、「自然主義」の運動が起こったのも、実質的な階級制度の破壊が、行われていなかったからかもしれない。
そのような意味において、「民主主義」や、「個人主義」を知らない国が、西洋と並べるだけの文化的教養を得るためには、イデオロギーを模倣してしまう方が早い、と福沢が考えるのは最もである。これが、後に漱石の批判するところの「外発的」な文明開化であり、それでは無意味だとして、「自己本位」に依拠した本当の意味での「内発的開化」が必要である、と説いた。
しかし、福沢などの模倣文化が先だって機能していたからこそ、自発的な文化の生成という考えが生まれてきたのであり、やはり「開化」という意味において「西洋の模倣」は、避けて通ることのできなかったものなのかもしれない。もちろん、そのような諦観の姿勢は、漱石ならず鷗外の中にもうかがうことはできる。
了(これ、終わってるのか?)
参考文献・資料
『門』夏目漱石著 新潮文庫
『文鳥・夢十夜』夏目漱石著 新潮文庫
『漱石文明論集』夏目漱石著 岩波文庫
『漱石日記』平岡敏夫編 岩波文庫
『夏目漱石 決定版』江藤淳著 新潮文庫
『漱石とその時代 第一部』江藤淳著 新潮選書
『漱石とその時代 第四部』江藤淳著 新潮選書
『風土』和辻哲郎著 岩波文庫
『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』西川長夫・他 新曜社
『死にゆく者の孤独』ノルベルト・エリアス著 法政大学出版