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学生時代の小論が出てきたよ?その3―夏目漱石小論(生死から見る意識、身体の観念と概念の交錯に対する一考察)


夏目漱石小論 「思いだす事など」から「こころ」へ


  「死」を有すると言うこと、心身の境界


 修善寺での大患の体験を、随筆のような形式で書かれた「思いだす事など」と、言う作品がある。のちに講演で語られた「文明論」の、最初の作品として、考えられている。そのなかでは、吐血による三十分間の「死」の体験と、肉体の回復にともない、熟考していった思想内容の基礎が、物静かに語られている。

右に寝がえりを打とうとした自分と、金盥の前で大量の血を吐いていた自分は、つながっているものだと信じていたが、実はその間に、三十分ほど心臓が止まっていたと聞かされ大いに驚いた。

引用  騒動のあった明くる朝~風船はただ縮まるだけである。
  これ程に切り詰められた~したがって安全であった。――十八
  血を吐いた余は~中略しながら、永久の敵とすべく心に誓った。――十九


 しばらく回復したのちに、当時の死の前後、あるいは「死」そのものについて思考し、記述している。
右の引用部において、漱石は肉体が自由意志に従って動かないことから、心身の不具合、ずれのようなものを感じている。また病気のために、社会などの外の世界から、一線区切られた病床の世界に、安心感さえ覚えている。その一度閉じこもってしまった視界が、肉体の回復にともなって、少しずつ広がってゆく感覚など、病気とその経緯を記述している箇所がいくつか見られる。この収縮と、拡張の意識から、一つの存在の生、個人の関わっている現実というものが、身体によっていくらか規定されていることがわかる。
当然と言えばそうだが、とかく私たちはそのような「存在」の限界、と言うものを忘れがちではないだろうか。病気や、他者の死と言うものに当面した時、しばしば人はその限界に触れることになる。「死」を思いだすのである。


 臨死体験の後、漱石が最初に意識したのは肉体に残る苦痛と不具合だった。通常の健康体であれば意識されなかった部位や、動作などを意識せざるを得無くなったのは、痛みのためである。しかし、この肉体の不備や、心身との不具合が、漱石にまた新たな驚きを与えている。


 腕を持ち上げる、下ろす、と言う単純な動作でさえ、他人に手伝ってもらわなければならない。自己の肉体の不安定さ、頼りなさを「ゴム風船の酸欠」として考え、身体の不全について説明している。この部分に、自己の思い通りに動かなくなる、「他者としての身体」がある。


 また、「胃の健康な人間は、胃がどこにあるのかを知らない」などの言葉からも、漱石が自己の身体を、身体として意識化していることは明確である。三歳のころにやった疱瘡のせいで、顔にあばたが残った話しは有名なものだが、そのような眼に見える差異ではない。


 自己の肉体の中だけで起こっている異質性、闘いと言うものは、他者には決して理解することはできない。肉体が衰弱して、動けなくなり、右手も満足に動かせない自己の身体への心細さなど、そばで世話をしていた妻鏡子でさえも、共有することのできない感覚である。


 ユダヤ人で、社会学者でもあるノルベルト・エリアスは、「死にゆく者の孤独」のなかで、施設に追いやられる老いた肉体や、目前に死の迫っている病人は、みな等しく孤独を有しており、さらに広げて言及するなら死に向かって生きている人間存在とは、みな等しく孤独である、としている。
さらにエリアスは死を忘れることによって、生が成立し、その忘却を脅かすものが目前にある場合、一種の不快感をともない、それによって病者や老人などの「死を内包している他者」を隠してしまおうとする、見ないようにする、としている。


 なぜ若者は老人を見ても同情しないのか、他人ごとのように振舞えるのか、あるいは病者や老人を隠してしまうのか。自分もいずれ老いて、死にゆく、と言うことを忘れることで、わたしたちは生きていられるからである。たしかに、信仰の有無は別にして、「死」をつねに意識している人間は、そう多くないだろう。貧困から路上に横たわっている子供か、戦場の兵士か、重病を有している者くらいではないだろうか。それは、なぜなのだろう。
人は自分が死ぬことを知っている。それは、宗教的なものから、あるいは医学的なものから、他者の死から、知っていることである。死を考える、と言うことは誰もが一度はやったことがあるはずだ。しかし、その思考は持続しない。やはり、他のことですぐ忘れてしまう。どれだけ、嫌なことがあって、絶望し、死を意識しても、うまいものを食ったり、寝たりしてしまえば、忘れてしまえる。つまり、「死」の意識は一時的なものに過ぎない。その人間にとって「死」は、現実ではない。だからこそ、忘れてしまっても差支えないのである。


 しかし、戦場の兵士は、路上の子供は、重病者は、死を忘れてしまうことのほうが、一時的なものである。死が確定している特攻隊でさえも、死は怖いものである。「いつ死ぬかわからないが、比較的死ぬ確率が高い」と思っている者はなおさら、突如現れる死の接近に対して、敏感になる。つねに神経を、張り詰めていなければならない。その状態を、自己の意思とは関係のないところで強いられている。


 「人はいずれ死ぬ」と、言うことが漠然としたものであれば、忘れていることもできるが、重病者らにとって「死」とは明日の天気を想うほどに、身近なものである。「死」を身近に意識している者と、そうじゃない者との心の在り方は、ずいぶん違っている。


 実質的に肉体が死を体験するのと、頭の中で死を想像すること、教わること、また求めることは違う。死が「臨死体験」(一度死んだが、生き延びた)や、「内包」(病気とは、長期的に死を意識することであることから、「死」の内在化とも考えられる)に移行したとき、生死観は大幅に変化してゆく。つまり、持続的な痛みこそ、意識されないものを意識させるものであるため、「胃が健康な人間は、胃がどこにあるのかを知らない」のであり、身体の一部にある種の「死」の継続的なものを持っている漱石は、胃がどこにあるのかをつねに、知っている、つまり意識しているのである。
ところで、神経衰弱からくる死への憧憬と言うものは、明治二十三年八月前後の、子規との往復書簡のなかにも見られる。

 漱石は「死にたい」ともらしていたが、本当に死が差し迫っていた子規にとって死は現実であり、具体的なものとして痛みが死を意識させていた。だからこそ、精神の問題で「死」を軽々しく(実際には軽いものではないが)口にする友人に対して、一種の怒り、憎悪さえも覚えている。死の理解において、相互に齟齬が生じている。肉体からくる「死」への意識と、精神の切迫からくる「死」への意識には、なんらかの差異があることがわかる。
では、どのような差異なのだろうか?相互に抱いていた孤独の根本の違いとは、何なのだろうか。
 子規が、死を意識しながら生を求めたのは、その行動範囲の限定性に依る。身体の自由が利かない、と言うことは自分の体が他者化、物化することに近い体験なのである。自分が物化することの最たるものが、死であったとしたら、各部に病を抱えて生きることは、死の内在化と考えられるのではないだろうか。
 同様に漱石も、修善寺の大患において、身体を意識せざるを得ないほどの、肉体の苦痛(胃潰瘍、大量吐血、脳貧血、寝たきりによる体力の低下、衰弱)を味わう。そして数十分間、本当に死を体験する。身体の側から、死を意識する、と言うのは苦痛であり、またある種の悟りめいた精神に至らせるだけの「感傷」がある。


 しかし、漱石の場合、この感傷的な心情を起こしたのは、死を体験したからではなく、生き延びたと言うことのよろこびと、忙しない世間から、一瞬間抜け出せることができたことによるよろこび、のほうが強いようだ。「思いだすことなど」の道徳的な内容を見れば知れることだが、ここで重要なのは、死の体験ではない。死と生のはざまにおける生の在り方であり、それの及ぼす後々への影響である。
体験をやる前と、やらない前とでは、自己認識の範囲においては明らかに何か違っている。何が違うのか?
痛みの持続による身体の意識化か?常に自己存在への不具合を抱きながらも、前と同じように振舞うことにか?他者の規定している自己との相違なのか?


 しかし、どのように自己内で変化を了解していても、その「体験」や「経験」が目に見えない以上、他者から見たわたしたちは同じ自己に過ぎず、「違い」を共有できない点において、隔たりを覚える。その体験と認識の違いに、やる前よりも深い差異が生まれている。差異を積み重ねてゆく先に、社会や、関係性、自己意識からの隔たりとしての、生物にとっての絶対的「疎外」である死があるのだとしたら、「死」を内在化したあるいは、「体験」した漱石の自己存在への葛藤はさらに大きくなったと、考えられる。
誕生から追ってゆくと長くなるのでやらないが、漱石は生まれた時から、所属意識を固定化することができず、つねに浮遊した自己を抱えて生きていた。

 ロンドン留学後も、作家として連載をはじめてからも、休む暇がなかった。勉強ができなければ、必要とされない。物のように扱われながらも、その扱いの中で自己を立脚しなければ、生き伸びることが困難だったからだ。

 それは、一つに生活のためであり、一つには環境のためでもある。そうかと言って、大患時にも心底からの安心感を得た訳ではなかっただろう。しかし、長期的に労働や、家庭を営む義務から離れると言うことは、ゆったりとした熟考の時間を得ることでもあった。それは、大患以降各地で行った講演の内容からも知れる。身体の自由が利かず、寝ていればさまざまなことを考えるし、自由が限られているせいか、小さなことにも感謝を覚えるようになる。過去思考してきた内容を、深めてゆくこともできる。


 そうした豊穣な時間のなかで、今まで意識したことのなかった過去の記憶を、反省を行っている。反省のなかで、思いだしたことは、幼年期のころにまで及んだはずだ。「硝子戸の中」は、この熟考期にたまたま触れた、思い出であり、「ひっそりとした宝物」であった。しかし、その宝物としての、個人的な記憶の集積のなかで、また一つの不安を見出している。だからこそ、「こころ」の先に、「道草」が書かれているのではないだろうか。


 もちろん、漱石がこれまでも学問において考察を怠ったことのない人であるのは、留学中でさえも「文学論」を書き、日本に帰ってきてからも東京大学で教鞭をとっていたことからわかる。しかし、休息することの難しい真面目で、余裕のない生活者であったことから、生活や労働の義務から離れる自分への「言い訳」としての「病」は、漱石にとって重要なものであった。同時に、「自己存在」を肉体の現実から見つめると言う、一つのきっかけとなった。



この項、了。

いつぞやの夏目漱石論の一説から引用。学生のたわ言です。(笑)

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