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2月22日 家が決まる

「お前、もうしばらくそっちに住んでもらわんとなあ、すまんな」
川本次長がたいへん申し訳なさそうに、そう電話をかけてきた。広島で、家を探すことになった。もちろん家賃は会社が出してくれるし、マンスリーマンションで会社が指定してくれる物件の中でだったら、どこに住んでも良いと。團さんも篠宮も、鹿児島から広島に引っ越して、現場と下宿の往復を続けてもう二年近くになるらしい。

そういえば、転職前の会社は、親元から離れて一人暮らしをしながら通っていた。炭鉱町のがらがらとした雰囲気が残る街で、倹しい生活を心掛け、質素に生きる、そんな自分が好きだった。だが、そんな浮世離れした生活が現代に歓迎されるはずもなく、好んでやるのは一部の似非インテリか、共産主義に中途半端にかぶれた貧乏学生か、生まれた時からそういう家に住んでいる変わり者だけだ。結果、私は近くに同僚が住んでいても心を開くことができず、自分の状況に疑問を感じたり、極端な節約をしてみたりしているうちにしんどくなって、仕事も一人暮らしも辞めてしまった。

しかし、今回は事情が違う。團さんと篠宮がいれば、きっと生活は、少なくとも心はつらくないはずだ。篠宮は他人のことをよくみているし、篠宮自身のことをあけすけになんでも話す。團さんは、まだ少しだけかわいそう。どちらにも、仕事仲間以上に踏み込んだ関係があると感じていた。
彼らに少しだけ、寄り掛かるようにして、そして寄りかかってもらえるように心がけて、この一ヶ月は過ごしてきた。
「そんな簡単に家見つかるかなあ。」
篠宮も團さんも、仕事の傍らでかなりの神経をさいて、物件探しをしてくれているらしい。不動産屋に電話をかけに出て行った時には、そこまでしてくれるのかと驚かされた。
大事故を起こしても、しばらくして他人の家の心配をできる余裕が戻ってきたのか、それとも大事故の心労で誰かに優しくしないと保てないのかは定かではない。ひょっとすると、今日の仕事に飽きただけかもしれない。團さんは他人を守るように、篠宮は他人を支えるように、それぞれ今日も親切に振る舞っている。仕事に飽きただけだとしたら、これが彼らの素なんだろう。

本日は二月二十六日、年度末が一ヶ月後に差し迫っており、日本中で人が大移動をし始める時期と言える。物件サイトを見ても、タッチの差で、募集を停止しました、の表示が出てしまう。

アイエイチヒーターじゃなくて、できればガスコンロがいいな、ロフトもいらない。バストイレは別で、流し台とコンロの間にはスペースが欲しい。わがままを検索窓にぶつけているのは、私だけらしい。二人はあそこは駐車場から出にくい、ここは現場までの道が朝混む、と非常に実用的な話をしていた。

「篠宮、これお前のボールペンじゃないか。よく似てるけど俺のじゃない。」
「あ、あーそうかもですね。ちょっと貸してください。」
二人の関心ごとはボールペンに移った、二人とも持っているそのボールペンは買ったものではないらしい。
「團さんこれ、俺が住んでたとこの前にあるコンビニで。」
「そうやろ、俺もそこで貰ったけんね。」
どうやらこの近所に、九百円以上買い物をすると、三色ボールペンを無料でもらえるコンビニがあるということだ。しかも、コンビニのおまけで貰うボールペンにしては使用性がかなり優れているらしい。篠宮ときたら、そのボールペンのインクが終わりに近いことを惜しがっていたくらいだ。
「俺、ボールペンだけじゃなくてトイレットペーパーと乾電池ももらったことありますよ。」
「いいよな、あそこのコンビニ、袋も無料だけんさ。」
團さんの一言で思い出す、あの狭くてごちゃごちゃした汚いコンビニ。昭和の個人商店になったドンキホーテのような。まさか、そこの話じゃないだろうか。
「姉さんも行ってみたらいいですよ、場所教えます。」
「今時、袋無料なんですね、すごいなあ。私もボールペン欲しいかも。」
篠宮、すまない、多分そこのコンビニを知っている。腹の中で勝手に、店主と思われるおじさんの生活や心情を想像しているくらいには、そこのコンビニに深い関心を持った瞬間があったから。

お前ら、完全に不動産のこと忘れてただろ、といった具合で遮るように私の電話がなった。やはり不動産屋だ、三月から即入居できる部屋は、この辺りだとひとつしかないらしい。ガスコンロではないが、ロフトもなく、バストイレ別、流し台とコンロの間には調理ができそうなスペースがあった。床の色は白く、かつて一人暮らしを諦めた炭鉱町の暗い茶色の床と対照的な点に、強い安心感を覚えた。もう決めてしまえ。

「あ、家決まりました。ここから五キロのところにあるハイツみずほです。」
團さんも篠宮も黙ってしまった、事故物件だったのだろうか、著しく立地が悪いのだろうか。
「何号室なの?」
團さんがやっと口を開いた。

「二〇七です。」
「姉さん、それ俺が先月まで住んでた部屋で、しかも」
「俺の隣の部屋だ。家の目の前に袋無料のコンビニあるよ、よかったね。」

これから生活は、團さんの隣。

数日前に、電話をする團さんの上に広がっていた紺色の寒空は、かぶれを起こしたような春先の空気を含み、薄い桃色と黄色のグラデーションになっていた。空気に撫でられただけでふっと、安心して幸せな気持ちであの世に入ってしまいそうな、不安定で不気味な色だった。

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