文学のなかの芸術、芸術のなかの文学⑱ー大岡昇平『わが文学に於ける意識と無意識』、『小林秀雄の世代』にみるものー(小林秀雄以降の世界のなかで⑤)
「創造」をゼロから新しいものを生み出すというより、既知のものを未知化することだとするならば、「創造」に富んだ絵画だろう。
一定の間隔で並ぶ山高帽の無表情なひとたちが規則正しく浮遊している。
無表情なひとたちはよく見るとひとりひとり違うのだが、遠くから見ると、雨の雫が落下しているようにも見え、「浮遊」と「落下」という矛盾した要素を同時に表現し、またその「浮遊」と「落下」は作者であるマグリットの憂鬱とした感情を表現しているようにも見える。
また、背景は青空が澄み渡っており、雲さえないのだが、切れ目なく連なる揃いも揃って赤い屋根の集合住宅群が描かれており、どこか矛盾した感情をひとつの絵にうまく表現しているのではないだろうか。
『ゴルゴンダ』は、1953年にルネ・マグリットによって描かれた81cm × 100cmのそれなりに大きな絵である。
「ゴルコンダ」とは1687年にムガル帝国によって滅ぼされたインドの都市の名前で、かつて富で知られた幻の都のような都市であったそうであり、友人の詩人が『ゴルゴンダ』というタイトルを付けたようである。
『ゴルゴンダ』のなかで、山高帽のひとたちは、「普通の目立たない平均的な人間」を表しているように見え、マグリット自身がこの山高帽のひとに投影されているようである。
マグリットによれば、「目立ちたいと思わないから」という理由で、山高帽を描いているという。
そのような絵を描いた画家であるマグリットは、
「こうして私は、公に認められたり、あるいはそう望んでいたりする芸術や芸術家には完全な不信感を抱くようになりました」
と言った上で、
「私にはつねに立ち返るひとつの指標があり、それによって別の場所に立っていられるのです。
それが、子供の頃に知った、あの芸術の魔術だったのです」
と語っている。
誰しも多かれ少なかれ原体験とでも呼ぶべきものがあるだろうが、マグリットの場合、そのひとつが、墓地で画家に出会ったことなのだろう。
ベルギーのシャトレという小さな町で、あまり幸福とはいえないような少年時代を送っていたマグリットは、ある日、遊んでいた墓地の地下納骨堂から、重い扉を開けて地上に出てくると、ブリュッセルから来た画家が、イーゼルを立てて絵を描いており、美しく描き出された画面を見たマグリットは、
「画家というものには、何か超人的な力が与えられているかのように感じた」ようである。
ひとは、人生のなかに転換する契機を持っているようである。
このシリーズでは、前にもマグリットの作品から想起して、大岡昇平を取り上げているが、もういちど、大岡昇平を取り上げてみたい。
先ほど、マグリットの、
「こうして私は、公に認められたり、あるいはそう望んでいたりする芸術や芸術家には完全な不信感を抱くようになりました」ということばを紹介したが、このことばを読むとき、私は、大岡昇平の『わが文学に於ける意識と無意識』のなかの、
「一度でも世界大戦史を読んだ者にとって、あの時アメリカと戦うことは亡国を意味することは明白でした。
無知な軍人共が勝手な道を選ぶのは止むを得ないとしても、私の尊敬する人達まで、それに同調しているのを見て、私は人間に絶望したといえます。
私はフランス語の知識によって、或る日仏合弁会社の翻訳係に国内亡命する道を選びました」
と述べていることを想起してしまう。
さらに、マグリットの
「私にはつねに立ち返るひとつの指標があり、それによって別の場所に立っていられるのです。
」ということばは、大岡昇平に重なるように思われ、
「つねに立ち返るひとつの指標」とは、大岡昇平にとっては神戸でのサラリーマン生活をはじめたとき得た視座であり、それは、戦争、出征、俘虜、復員という歴史的な経験と偶々重なることにより大岡昇平を「別の場所」に立たせたのではないかと、私には思われるのである。
つまり、大岡昇平の『俘虜記』や『野火』その他で書かれている、過酷な戦争体験は、「批評家大岡昇平」が「作家大岡昇平」に転換する契機であることは否定しようがないのだが、やはり、大岡昇平の内部である価値転換が起こったのはその前の、大岡昇平が東京を離れ、神戸でのサラリーマン生活をはじめたときであり、それが、戦争、出征、俘虜、復員という歴史的な体験と偶然重なったように思われるのである。
さて、マグリットが画家に出会って以来変わったように、大岡昇平の場合は、小林秀雄との出会って以来
、友人から、
「人が違ったようになった」
と言われるほどに変化したのだが、それは、大岡昇平が批評家小林秀雄の誕生劇の渦に呑み込まれていったということでもあり、それ以後、大岡昇平は、小林秀雄的なパラダイムの中で生きねばならず、やがて、小林秀雄や河上徹太郎らの後を追うように、文壇にデビューするのだが、大岡昇平が、書いた評論のなかでめぼしい物はあまりなく、ほぼ相前後して、小林秀雄の影響下に批評を書き始めた中村光夫と比較しても、大きな違いがあったようである。
中村光夫は、すでにその頃、のちに『フロオベルとモオパッサン』として1冊の本にまとめられることとなる一連の書評や、やがて彼の代表作ともなる二葉亭四迷に関する評論を続々と発表しており、大岡昇平が同じような年の、しかも同じ小林秀雄の門下生である中村光夫の華々しい活躍が気にならなかったはずはないように私は、思う。
大岡昇平は、中村光夫について、
「二十三歳で『モオパッサン』を書いて以来、中村の経歴は伸び伸びと育った植物を思わせる。
底にモオパッサンとフロオベルの苦渋を秘めながら、それを立証しようとする彼の筆には、いささかの渋滞の跡がみられない」
とのちに書いているが、逆にこの当時の大岡昇平の筆には、「渋滞の跡」が顕著であったようである。
中村光夫と大岡昇平の違いは、大岡昇平の内部にあった「原理的思考」へのこだわりなのかもしれない。
この「原理的思考」へのこだわりは、中村光夫には、まったくといってよいほど無く、そのことが、場合によっては、中村光夫が、小林秀雄以上に大胆かつ明快な批評家であり得た理由なのかもしれない。
中村光夫にとっては、小林秀雄が理論物理学やベルクソン哲学に示した関心の深さは、決して理解し得ないものであり、中村光夫においては、「理論」と「現実」ずれ、言い換えれば、「アシルと亀の子」のパラドックスという問題が、問題として浮上することはなく、中村光夫は、原理的な問題を回避することによって、いわば評論という危機を無視することによって、大胆な批評家たりえたのかもしれない。
江藤淳が中村光夫を評して、
「大胆に間違う人であった」
というのは、非常に正確な中村光夫評であろう。
これに対して、大岡昇平は、小林秀雄の忠実な読者であったゆえに「大胆に間違うこと」が出来ず、理論と現実のずれに直面した大岡昇平は、沈黙を選んだようである。
1938年、9月中村光夫は、フランス給費留学生として渡仏し、パリ大学に入学したのに対し、大岡昇平は、そのわずか2カ月後、神戸にある帝国酸素株式会社に翻訳係として入社し、東京を離れた。
大岡昇平は、このことについて、
「前年日支事変が起こり、文筆で生活する自信を失ったためである」
と自筆年譜に記している。
しかし、先にも上げた『わが文学に於ける意識と無意識』のなかでは、
「一度でも世界大戦史を読んだ者にとって、あの時アメリカと戦うことは亡国を意味することは明白でした。
無知な軍人共が勝手な道を選ぶのは止むを得ないとしても、私の尊敬する人達まで、それに同調しているのを見て、私は人間に絶望したといえます。
私はフランス語の知識によって、或る日仏合弁会社の翻訳係に国内亡命する道を選びました」
と述べており、
「私の尊敬する人達」のなかには、小林秀雄も含まれているだろう。
大岡昇平が、1938年に東京を離れたという事実は、小林秀雄にとっても見逃すことのできない重大事件であり、小林秀雄の最も優れた理解者のひとりである大岡昇平が、もっとも強力な批判者に転じたことを意味していたのではないだろうか。
小林秀雄が、ベルクソン論である「感想」のなかにおいて、ベルクソンのことばで、
「君達には何もわかっていない」と言うとき、その傍らには、亀の子のように、黙々と資料の収集に歩き回る大岡昇平の姿が見えてくるような気がすることがある。
「わかる」とか「わからない」というような批評的言説に絶望した大岡昇平という作家の作業は、小林秀雄を神格化すると同時に、脱神話化しているように見え、それは、小林秀雄とベルクソン論のテーマと複雑に絡み合っているようにも見える。
戦後、フィリピンの俘虜収容所から復員してきた大岡昇平を小林秀雄は、喜んで迎え、大岡昇平に「従軍記」の執筆を勧め、大岡昇平は、小林秀雄のすすめに従って『俘虜記』の第1章にあたる「捉まるまで」を書いたようである。
小林秀雄にとって、大岡昇平は、フランス語の生徒であり、文学的な弟子であり、そして青春のある時期をともに過ごした、やや年少の友人であったのであろう。
しかし、小林秀雄的なパラダイムの中で生きねばならなかった、大岡昇平が、「既知のものを未知化するような創造」をすることができ、「つねに立ち返るひとつの指標」を得、それによって立っていられる別の場所を得たのは、小林秀雄的なパラダイムのなかから抜け出ていた神戸でのサラリーマン生活とそこに重なった、戦争、出征、俘虜、復員の経験があったからではないだろうか。
また、大岡昇平が小林秀雄のなかの哲学的・原理論的な志向性に目を向けることが可能であった理由は、大岡昇平のなかに、小林秀雄とは無関係に、既に小林秀雄と出会う前から、哲学的、原理論的な、大岡昇平独自の志向が芽生えていたからであるかもしれない。
大岡昇平の哲学的、原理論的な志向性は、大岡が『小林秀雄の世代』のなかで書いているように、小林秀雄と同年の生まれで、7歳上の従兄である大岡洋吉の影響下に始まっているようである。
大岡昇平は、『小林秀雄の世代』のなかで、
「僕の文学的青春は、昭和三年の二月、小林秀雄に会った時から」始まると言っているが、大岡昇平に、詩作を「手に取るように」教えてくれた大岡洋吉と、鈴木三重吉主宰の童話雑誌『赤い鳥』に童謡を投稿することから大岡昇平ははじめているし、
「漱石、龍之介、春夫、直哉、そして、カントやゲーテを洋吉さんのあとをついて歩いて」教わり、読んだ大岡少年は、小林秀雄と出会う前に、すでにこの従兄大岡洋吉の手助けにより、ある程度の文学的、思想的な主体性を確立していたのだろう。
確かに、大岡昇平にとって小林秀雄の影響は、圧倒的であったが、大岡昇平の文学的な骨格を形成したのものは、小林秀雄と出会う以前のものであったのかもしれない。
このようなところに、大岡昇平が、小林秀雄と多くの問題を共有しながらも、微妙な対立を示した原因があるのだろう。
大岡昇平は、大岡洋吉から小林秀雄への転換について、
「洋吉さんの教養は広かったが、音楽はなかった」
と述べており、素朴実在論的な大岡洋吉の下を離れ、認識批判を武器にあらゆる形而上学(文学)の批判を目指していた小林秀雄の下へ走ったようである。
しかし、大岡昇平は、この転換についても、本当に突きつめて考えたわけではなかったようであり、この転換に本当に直面したのは、やはりサラリーマン生活であり、さらにはフィリピンの戦場においてであったようである。
目の前の現実を、無表情な写実的様式で作品を描いたルネ・マグリットと、資料の収集と提示に重きを置いた大岡昇平は、どちらも現実や生活に対する深い信頼から「創造」し続けた芸術家だと私には、思われる。
そして、ふたりとも、「ゼロから新しいものを生み出す創造」というよりも、「既知のものを未知化するような創造」を私たちに見せてくれているようにも、思われるのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。