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文学のなかの芸術、芸術のなかの文学⑤―大岡昇平「野火」―
十字架が、まっすぐではなく弓(bow)のようなかたちになっており、十字架上のイエス・キリストを矢のように天へと放つがごとく描かれ、十字架上のキリストは疫病の腫瘍で覆われ、病の真の症状を描くことによって、患者にキリストが彼らの苦痛を理解し、共有していることを示すものとなっているが、このようなかたちで描かれることは、この作品が作られた頃のヨーロッパ美術の歴史のなかでは異例であろう。
私たちは、『イーゼンハイム祭壇画』を観るとき、パンデミックや戦争、そしてこの作品の数奇な運命をも思い出すだろう。
グリューネヴァルトの最大の作品で、1512年から1516年に描かれた『イーゼンハイム祭壇画』は、疫病の患者の世話や「聖アントニウス病」や「聖アントニウス火の病」などと呼ばれた麦角菌による麦角症という皮膚病の治療で知られていた修道院の依頼によって描かれたのだが、忘れ去られ、フランス革命の混乱を避けて1793年にコルマールに運ばれた際に、約350年ぶりに再発見された。
普仏戦争や第1次世界大戦の影響でドイツとフランスを行ったり来たりすることになるが、第1時世界大戦直後に、激しい感覚と感情を色合いを帯びたこの祭壇画は、影響力のあった表現主義芸術のジョージ・グロスやオットー・ディスクといった多くの画家たちにインスピレーションを与え、パウル・ヒンデミットの現代オペラ『画家マティス』の基盤ともなったようである。
しかし、1930年代後半には、ナチスが表現主義とヒンデミットの作品両方を「退廃的」であると烙印を押したことにより、祭壇画のドイツにおける公的評価は一時的に下がったこともあったようである。
この『イーゼンハイム祭壇画』は、さまざまな面で、なぜか大岡昇平という作家を私に想い起こさせる。
それは、『野火』のなかで大岡昇平が発見する「十字架」のためかもしれない。
また、それは、「わかる」とか「わからない」というような批判的言説に苦悩し、絶望した大岡昇平という作家の作業が、小林秀雄を脱神話すると同時に、脱神話化しているように見えるからかもしれない。
そして、その問題が、小林秀雄の『感想』のテーマと複雑に絡み合い、それゆえに大岡昇平の小林秀雄との数奇な運命を彷彿させるからかもしれない。
小林秀雄のベルクソン論である『感想』を読むとき、『感想』は、「批評家小林秀雄」の遺書のような作品であるように、私には思われることがある。
それは、『感想』という作品が、ベルクソンの遺書に関する分析から始まっているからだけではなく、『感想』は大岡昇平批判かもしれないと感じることがあるからである。
また、大岡昇平の小説『俘虜記』や『野火』は、徹底して考える小説であるが、その考える対象は、「小林秀雄的なもの」、つまり「批評」であったようにも見える。
大岡昇平は、戦場という極限状態のなかで、批評を具体的に検証し、その本質を解明し続けたのかもしれない。
大岡昇平は、『野火』のなかで、小さな村の会堂に「十字架」を発見したときのことについて、
「しかし私はその十字架から目を離すことが出来なかった。(中略)
十字架は、私に馴染みのないものではなかった。
私は生まれた時、日本の津々浦々は既にこの異国の宗教の象徴を持っていた。
私はまず好奇心からそれに近づき、次いでそのロマンチックな教義に心酔したが、その後私の積んだ教養はどんな宗教も否定するものであり、私の青年期は『方法』によって、その少年期の迷蒙を排除することに費やされた」
と書いている。
大岡昇平は、小林秀雄と出会う以前、キリスト教を信仰していた時期が在るが、大岡が、
「私の青年期は、『方法』によって、その少年期の迷蒙を排除することに費やされた」という部分は、大岡昇平のなかの小林秀雄的体験を指しているのだろう。
大岡昇平は、小林秀雄を知ることにより、大岡洋吉を捨て、キリスト教を捨てた。
それは、徹底した実体論の批判であり、宗教批判でもあったようである。
大岡洋吉とキリスト教は必ずしも共通しているわけではないが、大岡昇平の裡に在っては、「小林秀雄的なもの」に対立するものとして共通の価値を持っており、『野火』のなかの「十字架」は、「小林秀雄的なもの」に対立するものの象徴だといってよいだろう。
すでに批判し尽くし、捨ててしまったはずの「十字架」から目を離せなかったのは、大岡昇平が、小林秀雄的な批評の本質に、観念的にではなく、現実的、具体的な次元で直面したからではないだろうか。
そして、大岡昇平は、
「少年期の思想が果たして迷蒙であったかどうか、改めて反省して見た」のであり、もしそれが、すべて未熟な混乱の結果に過ぎなかったとすれば、今更、戦場のなかで、少年期の迷蒙に心を動かされることはないはすであっただろう。
しかし、遠くに見える「十字架」から目を離せない現実は、否定できないのである。
大岡昇平は、戦争という極限の体験によって「小林秀雄的なもの」、つまり「批評」に本当に直面し、その時、はじめて、小林秀雄と出会う以前の大岡昇平自身と対峙することになったのだろう。
小林秀雄と大岡昇平との微妙な差異は、ふたりのベルクソンに対する態度のなかにも、表れている。
小林秀雄が、ベルクソン哲学を全面的に受け入れ、それを思考の原点に据えているのに対して、大岡昇平は、ベルクソン哲学に多大の関心を示しながらも、それを全面的に受け入れているわけではなく、むしろ、最終的には、ベルクソン哲学と根本的に対立しているようである。
『野火』のなかで、大岡昇平は、ベルクソンの「贋の追想」に言及し、「私はかねてベルクソンの明快な哲学に反感を持っていた」と述べている。
大岡昇平が『野火』のなかで語るベルクソンによる「贋の追想」とは
「絶えず現在を記憶の中へ追い込みながら進む生命が、疲労、あるいは虚脱によって、不意に前進を止める時、記憶だけ自動的に意識により先に出るために起こる現象」であるようである。
大岡昇平は、このベルクソンの考え方に反対する。
もし、ベルクソンの記憶理論を受け入れるならば、大岡が、今、戦場で、敗残兵として、思考する内容は、すべて、疲労と虚脱による幻想ということになってしまうからである。
だからこそ、大岡昇平は、現在の感覚の内部に原因を探した。
つまり、今、そこに生きているという現実の肯定からこの問題を解釈したのである。
その結果、大岡昇平は、今、戦場で考えていることは、疲労と虚脱による異常な思考ではなく、
「未来に繰り返す希望のない常態におかれた」とき、今行っていることをもういちど行いたいという繰り返しの願望が生命のなかに生まれるからではないか、と考え、「今生きていることを肯定」したのであろう。
戦後、フィリピンの俘虜収容所から復員してきた大岡昇平を小林秀雄は、喜んで迎え、大岡昇平に「従軍記」の執筆をすすめ、大岡昇平は、小林秀雄のすすめから『俘虜記』の第1章にあたる「捉まるまで」を書き、大岡昇平は、「批評家大岡昇平」ではなく、「作家大岡昇平」として、再生したのである。
大岡昇平が、過去の苦難を昇華することにそっと手を貸した小林秀雄は、『人間の進歩について』のなかで、
「画家は、二元論的立場から始める。
写生という言葉が生まれたのはそういうところにある。
生を写す、生は向こうにあるという。
しかし、ほんとうの生はこっちにある。
向こうには物性がある。
物性があるけれども、物性と生が一緒になるところまで行く、そういう行動的な立場に画家はおります。
精神と物質の相互関係を行為によって確かめて行く。
現代の物理学者の実験、観測行為というものを重んずる立場と非常に近いのです。
ほとんど同じなのです」
といっているが、かつて、霧ヶ峰で小林秀雄から理論物理学の講義を受けていた大岡昇平も共感するのではないだろうか。
小林秀雄によると、向こうにある生とこちらにある生が一緒になるところまで画家は行くというが、鑑賞者である私たちは、どこまで行けるだろうか。
少なくとも、こちらにある生が向こうにある生について理解することができれば、私たちの世界は変わるものがあるのかもしれない。
『イーゼンハイム祭壇画』は、いま、修復を終え、2022年の半ばにふたたび、かつて約350年の時を経て、再発見されたフランスのコールマールにあるウンターリンデン美術館に展示されており、今日も静かにこの世界を眺めているだろう。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。