小林秀雄と吉本隆明と柄谷行人にとってのマルクスとは
小林秀雄的批評の系譜には吉本隆明と柄谷行人がいるが、ふたりとも小林秀雄の影響を受けたことを告白し、小林秀雄からの圧倒的な影響の下にその批評活動をはじめながらも、極めて厳しく小林秀雄を批判し、否定しようとしているようである。
しかし、私には、ふたりが小林秀雄を批判し、否定すればするほど、ふたりがさらに小林秀雄的になっていくように思われる。
例えば、柄谷行人がマルクスを論じ、数学や物理学、あるいは論理学の問題を追及していけばいくほど、その批評の方向がさらに小林秀雄の方へ傾いていっているように見える。
吉本隆明も、その言語論をはじめ、国家論や身心論が小林秀雄とはまったく違った場所でなされてはいないように見える。
それらはいずれも小林秀雄的パラダイムのなかに在るといってよいだろう。
無論、ふたりとも、小林秀雄が踏みこもうとしなかった領域に踏みこむことによって、小林秀雄を超えようとしているだろう。
しかし、ふたりの試みが小林秀雄的批評に対して、根本的な変換をもたらしたとは思えず、むしろ、小林秀雄的批評を乗り越えることがいかに困難であるかを示しているようにも、私には、思われるのである。
ただ、私が、吉本隆明と柄谷行人を取り上げたのは、そのことをいうためだけではなく、吉本隆明や柄谷行人もマルクスの読み方をも小林秀雄に負っているということをいわんとしているためでもある。
吉本隆明と柄谷行人のマルクス論は、小林秀雄のマルクス論から始まっているという点で、マルクス主義者やマルクス研究家のそれと決定的に異なっているのだろう。
しかし、なぜ、吉本隆明も柄谷行人もマルクスを問題にするのだろうか。
そして、ふたりのマルクス論は、なぜマルクス主義者やマルクス研究家のそれとは違っているのだろうか。
まず、小林秀雄の初期の批評を見てみると、マルクスの影が極めて色濃く映し出されているようなのだが、その背景には小林秀雄のデビュー当時の文壇の状況と社会の状況もあるだろう。
小林秀雄は、昭和4年に、雑誌「改造」の懸賞文芸批評の二席入選作『様々なる意匠』で文壇デビューしている。
ちなみに、その時の第一席入選作は宮本顕治の芥川龍之介論である『敗北の美学』であることからも、小林秀雄の周囲の文壇の状況、あるいは、社会状況が推察できるのではないだろうか。
小林秀雄の『様々なる意匠』の中心的なテーマは、当時隆盛を極めていたマルクス主義、あるいはプロレタリア文学への批判であり、小林秀雄が『様々なる意匠』に続けて、「文藝春秋」に連載した『アシルと亀の子』で問題にしていたのも、多くはマルクス主義であり、プロレタリア文学であった。
小林は、それを批判し、否定しようとしたのであるが、小林が絶えずマルクス主義の動向に鋭敏に反応し続けねばならず、マルクス主義との批判、対決を通じて「文芸批評」 を確立していったようである。
小林秀雄の批判は原理論的であるが、小林秀雄の批評が原理論的でなければならなかったのは、マルクス主義という原理的、体系的、実践的な思想と対決するために、小林秀雄自身も、原理的で実践的な思考を展開せざるを得なかったのではないだろうか。
そして、小林秀雄は、単なる「芸術派」ではなく、マルクス主義という思想と対決するために「芸術派」の仮面を必要としただけではないだろうか。
小林秀雄により、「文芸批評」が確立され、「文芸評論家」という新しい文学集団が誕生したのは、マルクス主義という、かつて経験したことのない原理的、体系的、実践的な思想体系に対するひとつの対抗手段としてであったのだろう。
吉本隆明や柄谷行人が、小林秀雄のマルクス論に見出したものは、イデオロギーや政治戦略に振り回されていない、いわゆる原理的思想としてのマルクスであったのかもしれない。
私たちから見ると、吉本隆明も柄谷行人も、単なる「文芸評論家」というより、「思想家」と呼ぶべき位置にいるが、それは、小林秀雄がマルクス主義との対決を通して確立した存在形式であり、吉本隆明も柄谷行人もその存在の仕方において、小林秀雄の影響下にあるのだろう。
マルクス主義の果たした役割について、小林秀雄は『文学界の混乱』のなかで、
「私達は、今日に至るまで、批評の領域にすら全く科学の手を感じないで来た、と言っても過言ではない。
こういう状態にあった時、突然極端に科学的な批評方法が導入された。
言うまででもなくマルクシズムの思想に乗じてである」
と述べた上で、
「これを受け取った文壇にとっては、まさしく唐突な事件であった。
てんで用意というものがなかったのだ。
当然その反響は、その実質より大きかった。
そして、この誇張された反響によって、この方法を導入した人達も、これを受け取った人達も等しく、この方法に類似した方法さえ、わが国の批評史の伝統中にはなかったという事を忘れてしまった。
これは批評家等が誰も指摘しないわが国独特な事情である」
と述べている。
ここで小林秀雄が言わんとすることは、マルクス主義という原理的思想の導入によってはじめて、日本の批評家たちのあいだにも、原理的な思考への自覚が生まれたということであろう。
マルクス主義批評に対抗できるような自由主義的な批評がはじめからあったわけではなく、それはマルクス主義批評という科学的な批評方法に対抗するために作り上げられた対抗文化に過ぎないだろう。
そのような意味では、小林秀雄の批評もまた、マルクス主義批評に対抗するために新しく作り上げられた対抗文化のひとつに過ぎないのかもしれない。
小林秀雄は確かに、ボードレールやヴァレリーから多くを学んでいるが、それは極めて局所的なものであり、本質的なものではなく、象徴主義の理論によって、その批評理論を作り上げたかもしれないが、それは、小林秀雄が文芸評論家になったという事実とは直接の関係は無いように、私には、思われる。
「批評家」小林秀雄の誕生という問題は、もっと存在論的な問題であろう。
江藤淳が、『小林秀雄』のなかで提起した「人はなぜ批評家になるのか」という問題が重要なのであり、いわば、「批評家」小林秀雄の誕生という問題は、小林にとって「生き方」の問題としてであったと言えるだろう。
江藤淳は、『小林秀雄』の冒頭で、
「人は詩人や小説家になることができる。
だが、いったい、批評家になるということはなにを意味するのであろうか。
あるいは、人は何を代償として批評家になるのであろうか(中略)。
小林秀雄以前に批評家がいなかったわけではない。
しかし、彼以前に自覚的な批評家はいなかった。
ここで『自覚的』というのは、批評という行為が彼自身の存在の問題として意識されている、というほどの意味である」
と書いている。
丸山真男は、『日本の思想』のなかで、
「日本では『自由主義者』の自己意識はマルクス主義によってはじめてつくられたという問題はひとり文学だけではなく、日本の学問史や思想史一般の理解にとって決定的に重要な事柄である」
と言っている。
無論、これはマルクス主義の影響というような次元の問題ではなく、マルクス主義という思想体系が、どのような思想体系であったかという問題にかかわっているのであり、単に理論的な影響というような問題ではないように思われる。
小林秀雄においてそうであったように、マルクス主義は、その理論的なレベルでの影響というものは、意外に少なく、むしろそれに対する反発が多いだろう。
しかし、マルクス主義の影響は、その理論や行動のレベルにおいてではなくて、もっと別の次元において決定的に作用しているのであろう。
マルクス主義の影響が単なる次元を超えて、文学者たちの存在それ自体を揺さぶるような、丸山真男のいう
「文学の世界をおそった『台風』」
となり得た理由はふたつあるように、私は、思う。
ひとつは、小林秀雄が指摘するように、マルクス主義が「科学的な理論」として理解されたからであり、もうひとつは、伊藤整らが指摘したように「実践的な倫理」として解釈されたからであろう。
理論的には「科学」を称し、生活次元の実践倫理としては「革命」を主張することによって、極めて過激な原理的思想として登場してきたものがマルクス主義であったのだろう。
マルクス主義という思想体系は、理論的次元で受け止めようとするには、あまりにも現実的な実践を伴っており、また、現実的な実践としてのみ受け止めようとするには、あまりにも理論的な体系を備えていたのである。
M・フーコーは、吉本隆明との対談『世界認識の方法』のなかで、
「マルクス主義はかつてのキリスト教にかわって、国家を基礎づける哲学となった」
と言っている。
つまり、マルクス主義は、賛成しようと、反対しようと、避けては通ることのできない重要問題となり、「批評家」小林秀雄の誕生もマルクス主義という思想との接触によってはじめて可能になったと言うことができるのではないだろうか。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
次回も、小林秀雄とマルクスあたりから、考えてみたいと思います😊
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。
(追伸)
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