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小林秀雄もすべてを言った③ー『感想』のなかにみる小林秀雄の戦後ー

小林秀雄の『感想』に対して、『小林秀雄の世代』と題する小林秀雄の『感想』に対する論考を大岡昇平は発表したのだが、小林秀雄の『感想』に対して、このように真摯に論評を加えたのは大岡昇平だけだったのかもしれないと、私には思われる。

さらに言えば、小林秀雄が『感想』で提出した問題は、大岡昇平のみにしか伝わらなかったのかもしれない、とも思われるのである。

確かに、小林秀雄について語る人は多いのだが、小林秀雄が持つ原理的思考に対する関心が、大岡昇平ほどあるひともいないため、小林秀雄が『感想』で提出したような問題は、大岡昇平にしか伝わらなかったのかもしれない。

また、小林秀雄のベルクソン論である『感想』を読むとき、『感想』は一種の大岡昇平批判ではないかと、私には、思われるときがある。

そのとき、『感想』というベルクソン論が遺書に関する分析から始まっている理由も、また、大岡昇平を意識した「批評家小林秀雄」の遺書として書かれたようにも、思われるのである。

小林秀雄にとって、大岡昇平は、フランス語の生徒であり、文学的な弟子であり、そして青春のある時期をともに過ごした、やや年少の友人であったのであろう。

しかし、同じ小林秀雄の門下生の中村光夫が、フランス給費留学生として渡仏し、パリ大学に入学したのに対し、大岡昇平は、そのわずか2カ月後、神戸にある帝国酸素株式会社に翻訳係として入社し、東京を離れた。

大岡昇平は、このことについて、

「前年日支事変が起こり、文筆で生活する自信を失ったためである」
と自筆年譜に記しているが、『わが文学に於ける意識と無意識』のなかでは、

「一度でも世界大戦史を読んだ者にとって、あの時アメリカと戦うことは亡国を意味することは明白でした。
無知な軍人共が勝手な道を選ぶのは止むを得ないとしても、私の尊敬する人達まで、それに同調しているのを見て、私は人間に絶望したといえます。
私はフランス語の知識によって、或る日仏合弁会社の翻訳係に国内亡命する道を選びました」
と述べている。

「私の尊敬する人達」のなかには、やはり小林秀雄も含まれているだろう。

そして、大岡昇平が、昭和13年に東京を離れたという事実は、小林秀雄にとっても見逃すことのできない重大事件であり、それは、小林秀雄の最も優れた理解者のひとりである大岡昇平が、もっとも強力な批判者に転じたことを意味していたのではないだろうか。

戦後、フィリピンの俘虜収容所から復員してきた大岡昇平を小林秀雄は、喜んで迎え、大岡昇平に「従軍記」の執筆を勧め、大岡昇平は、小林秀雄のすすめに従って『俘虜記』の第1章にあたる「捉まるまで」を書いたようである。

しかしやはり、戦争は、小林秀雄と大岡昇平ふたりの関係性のみならず、ふたりを変えたことは疑いようがないだろう。

小林秀雄の戦後の第一声というべきは、1946年2月「近代文学」第2号に掲載された「近代文学」同人達との座談会「コメディ・リテレールー小林秀雄を囲んで」であるのだが、そのなかで小林秀雄は、

「僕は政治的には無知な一国民として事変に処した。
黙って処した。
それについて今は何の後悔もしていない。(中略)
僕は無知だから反省なぞしない、利口な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」
と言っている。

小林秀雄は、「反省」により生まれ変わったり、過去が容易に乗り越えられたと信じるかのような戦後の風潮に抗しているのであろう。

小林秀雄は、同じ1946年の「新日本文学」では「戦争責任者」のひとりに指名されている。

また、1946年は、小林秀雄の母精子が66歳で亡くなった年でもある。

小林秀雄のベルクソン論である『感想』の第1回目は、母の死の記述から始まっている。

「終戦の翌々年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。
それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかったように思う。
日支事変の頃、従軍記者としての私の心はかなり動揺していたが、戦争が進むにつれて、私の心は、頑固に戦争から眼を転じて了った。
私は『西行』や『実朝』を書いていた。
戦後、初めて発表した『モオツァルト』も、戦時中、南京で書き出したものである。
それを本にした時、『母上の霊に捧ぐ』と書いたのも、極く自然な真面目な気持ちからであった。
私は、自分の悲しみだけを大事にしていたから、戦後のジャーナリズムの中心問題には、何の関心も持たなかった」

戦中から戦後に至る小林秀雄の精神のあり方が述べられているようであるが、小林秀雄は、実際には終戦の翌年である母の死をあえて「終戦の翌々年」と記し、訂正しようとはしなかったたようである。

小林秀雄のなかでは、戦争は1945年8月よりも1年前に終わっていたのかもしれない。

1944年4月には雑誌統合で「文学界」が廃刊となり、小林秀雄は6月に中国から帰国した後は骨董の世界に沈潜し沈黙を保ち、その後戦況は、米軍のサイパン島上陸から始まり、マリアナ沖海戦、東条内閣総辞職、グアム島、テニヤン島上陸、神風特攻隊出撃、レイテ島決戦と続き、11月の東京初空襲に至るのである。

小林の
「戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかったように思う」
という部分は勿論、小林秀雄固有のレトリックであり、小林秀雄は、戦争という大事件によって精神を動かされ、傷つき、精神的に相当こたえたはずである。

小林は、戦争という大事件よりも、母の死の方が心にこたえたというのは、母の死が心にこたえるような次元から、物事を考えるべきだと言っているのであろう。

戦争というような大事件になると、母の死に直面するときと同じような位置から対するとは、限らず、私たちは、母の死のようなことがらについては、純粋にそのままその死を哀しむであろうが、戦争ということがらになると、とたんにその悲劇を悲しむというよりは、それを分析し、反省し、解釈してしまう。

小林秀雄があえて戦争より母の死の方が精神にこたえたというのは、一種の認識の問題を言っているのであって、戦争と母の死を単純に比較しているわけではなくて、母の死に直面したときのような、直感的で、単純かつ素朴な認識法と、戦争という社会的大事件に直面したときのような、いわゆる分析的で、反省的な認識法とを対比しているのである。

小林は、このことを次のように

「以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基づいていて、曲筆はないのである。
妙な気持になったのは後の事だ。
妙な気持は、事後の徒な反省によって生じたのであって、事実の直接な経験から発したのではない。
では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈なぞしていないと答えるより仕方がない」
と要約しているが、ここに小林秀雄が対置するふたつの認識法が書かれている。

それは、事後の徒な反省によって生じる反省的認識と、事実の直接的な経験から発した経験的認識であり、小林秀雄は前者を斥け、後者を重視しているようである。

小林秀雄は、このふたつの認識について、とりわけ、その直接的な経験に基づく経験的認識について、母の死後の「妙な経験」を通じて説明しており、その「妙な経験」を、「或る童話的体験」と呼んでいる。

「或る童話的経験」について簡単にまとめてしまうと、

小林秀雄は、母の死から数日後のある日、仏にあげる蝋燭を切らしたのに気付き、それを買いに出かけた。

そのときは、もう夕暮れで、小林が、門を出たところで、今まで見たこともないような大きな蛍が光っているのを見つけた。

小林は、そのとき、母が蛍になっていると思い、そう考えると、もう、その考えから逃れられなくなった。

しばらく歩いていくと、曲がり角で蛍は見えなくなるのだが、その後、一度も吠えかかってきたことのない犬に激しく吠えかけられ、踏切近くまで来たとき、子供が「火の玉が飛んでいったんだ」と大声で踏切番と話しており、踏切番は笑って手を振っていた。

小林秀雄は、それを見て、

「何だそうだったのか」と思い、なんの驚きも感じなかった。

という話である。

小林秀雄は、この妙な経験を、すこしも奇妙だとか、感傷的だとか思いはせず、この事実を後から反省し、分析し、解釈した結果、妙な気持になったのであろう。

言い換えれば、このような事実を、その渦中においてではなくて、それからしばらくした後で、合理的に理解しようとしたときに、奇妙だと思ったのであろう。

さらに言い換えれば、経験という一回性の固有のものを、他の何ものかに置き換えるとき、この経験は、一般化され、その本来の固有性は失われてるのであろう。

それが、説明であり、解釈であり、そして理論による説明なのではないだろうか。

しかし、その経験の渦中に在っては、反省的な心の動きは少しもなく、他人からは奇妙に見えていたとしても、その当事者にとっては、すべてがアタリマエのことであったのだろう。

無論、私たちは、誰しもこのような経験を持っているのだが、ただ、それを語ることができず、またそれを他人にもわかるように説明することが、出来ないだけであろう。

しかし、私たちは、それを語ろうとするし、また説明しようとするので、そこに矛盾が起こってしまうのであろう。

小林秀雄は、『感想』の第1回目で死んだ母が蛍になった話を書いたのだが、その2カ月後に、水道橋のプラットフォームから転落したとき、「母親が助けてくれたことがはっきりした」と書いている。

小林秀雄は、それは、後から反省し、考えた上で、「母親が助けてくれた」と思ったのではないと言うのである。

小林がこの例で言いたかった事は、反省的思考と経験とは必ずしも一致しないということではないだろうか。

言い換えれば、私たちは、現実という直接的経験を、理論によって正確に説明することも、表現することも、出来ないということではないだろうか。

現実の世界では、たしかに、アシルは亀の子に追いつき、追い越してゆくのに、それを論理的に説明し、表現しようとすると、アシルは亀の子に追いつくことができない、という結論に達するほかはないようである。

小林秀雄は、

「この時も、私は、いろいろと反省してみたが、反省は、決して経験の核心には近付かぬ事を確かめただけであった」
と言っている。

このような考え方は、ベルクソンの、いわゆる「分析と直観」という考え方に基づいているのだろう。

ベルクソンは、認識をふたつに分ける。

ひとつは、「科学」的思考において用いられる分析的認識であり、もうひとつは、「哲学」的思考において用いられる直感的認識である。

ベルクソンは、分析的認識は、真の実在としての持続を認識することはできず、分析的認識は、対象を既知の要素に還元する操作である、と考えているようである。

つまり、分析することは、ある物を、その物ではない別の物に置換することであるため、分析をいくら繰り返しても、その物の実在に触れることはできない。

その物の実在は、他の何ものにも置き換えられないものだからである。

だから、分析的認識は、あくまでも相対的認識にとどまるのだろう。

これに対して、直感的認識は、その対象を外側から分析するのではなくて、その対象そのものの持続のなかに一体化することであり、記号や言語によらないで、直接的に知ることが直観であろう。

言い換えれば、ベルクソンのいう直観とは、対象を、持続の相においてとらえるということであり、持続する実在を時間のなかでとらえるということであろう。

そして、『形而上学入門』のなかで、ベルクソンは、言っている、

「直観から分析に移ることはできるが、分析にから直観に移ることはできない」
と。

さて、小林秀雄のベルクソン論である『感想』の第1回目は、ベルクソンの遺書の紹介で終わっており、そこで紹介されているベルクソンの遺書は、

「世人に読んで貰いたいと思った凡てのものは、今日までに既に出版したことを声明する。
将来、私の書類その他のうちに発見される、あらゆる原稿、断片、の公表をここにはっきりと禁止しておく。
私の凡ての講義、授業、講演にして、聴講者のノート、あるいは私自身のノートの存するかぎり、その公表を禁ずる。
私の書簡の公表も禁止する。
J・ラシュリエの場合には、彼の書簡の公表が禁止されていたにも係わらず、学士院図書館の閲覧者の間では、自由な閲覧が許されていた。
私の禁止がそういう風に解される事にも反対する」

というものであるが、小林秀雄はこの遺書を書き写したあとに、ベルクソンは、

「自分の沈黙について、とやかく言ったり、自分の死後、遺稿集の出るのを期待したりする愛読者や、自分の断簡零墨まで漁りたがる考証家に、君達は何もわかっていない、と言って置きたかったのである」
と付け加えているが、私には、このことばは、小林秀雄自身のことばのように思われる。

「自身の死後、遺稿集の出るのを期待したりする愛読者」や、「自分の断簡零墨まで漁りたがる考証家」に「君達は何もわかっていない」と言いたかったのは小林秀雄自身ではないだろうか。

そして、小林秀雄のベルクソン論である『感想』は、「君達は何もわかっていない」ということをベルクソン哲学の助けを借りて、私たちに言い残そうとした作品であったということができよう。

だからこそ、小林秀雄は、『感想』の冒頭から、反省的、分析的な認識によっては、直接的な経験の実相に迫ることは出来ない、と、何回も繰り返したのではないだろうか。

それは、小林秀雄の批評を、単に伝記的な事実や、あるいは外国文学からの影響という観点から分析しようとするような、後世の読者や研究者たちへの警告であったかもしれない。

小林秀雄は、批評という経験は、小林秀雄個人の単純な経験であって、それは他の何ものにも置き換えられないものであることを、言いたかったもしれない。

ここまで、読んで下さりありがとうございます。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。




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