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小林秀雄もすべてを言った⑨ー『様々なる意匠』からー小林秀雄とマルクス①ー

江藤淳は、『小林秀雄』の冒頭で、

「人は詩人や小説家になることができる。
だが、いったい、批評家になるということはなにを意味するのであろうか。
あるいは、人は何を代償として批評家になるのであろうか(中略)。
小林秀雄以前に批評家がいなかったわけではない。
しかし、彼以前に自覚的な批評家はいなかった。
ここで『自覚的』というのは、批評という行為が彼自身の存在の問題として意識されている、というほどの意味である」
と書いている。

もともと志賀直哉に私淑し、小説家を目指し、「小説を創ることが希い」であったはずの小林秀雄は1929年、「文芸批評家小林秀雄」として『様々なる意匠』で文壇デビューしたようである。

文芸批評家として出発した小林秀雄は、『様々なる意匠』の冒頭近くで、

「文学の世界に詩人が住み、小説家が棲んでいる様に、文芸批評家家というものが棲んでいる。
詩人にとっては詩を創ることが希いであり、小説家にとっては小説を創る事が希いである。
では、文芸批評家にとっては文芸批評を書く事が希いであるか?
恐らくこの事実は多くの逆説を孕んでいる」
と文芸批評家であるとは一体何かという問いかけを発している。

小林秀雄によって「文芸批評」が確立され、「文芸評論家」という新しい文学者集団が誕生したが、それはマルクス主義という、かつて経験したことのないような原理的、体系的、実践的な思想体系に対するひとつの対抗手段としてであったのだろう。

そして、小林秀雄の独自のマルクス解釈は、「物」的な物理学から、「場」的な物理学への転換を知っていたからの解釈であろう。

(小林秀雄は、1935年の夏にも中村光夫や大岡昇平らと霧ヶ峰を訪れ、彼らに「物理学の革命」、つまり「物」的な物理学から、「場」的な物理学への転換について熱心に語り続け、「物理学」に熱中しているが、このことからもうかがうことのできるような)この原理的論的であり、抽象的ですらある小林の批評は、「物」的な物理学から、「場」的な物理学への転換を踏まえているからこそ、マルクス主義というかつて経験したことのないような原理的、体系的、実践的な思想体系に対するひとつの対抗手段となり得たのだと私には思われる。

マルクスの唯物史観における「物」が、いわゆる物質としての「物」ではないという小林秀雄のマルクス理解は、1929年という時代背景を考えるならば極めてするどい唯物論的理解であったのではないだろうか。

小林秀雄は、『様々なる意匠』のなかで、

「脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける『物』とは、飄々たる精神でないことは勿論だが、又固定した物質でもない」と書いているが、マルクスの唯物史観における「物」とは物質としての物であると思い込んでいる人も少なくなかったようである。

例えば、唯物論に対して「唯幻論」を唱えた心理学者の岸田秀は、唯物論の「物」を近代物理学的な意味での物質と理解した上で、
そのような意味の唯物論に反対する立場として「唯幻論」を主張したのだ、
と『フェティシズムについて』という柄谷行人との対話で言っているようである。

もし、マルクス的唯物論が、小林秀雄的に理解されたような意味での唯物論であったならは、「唯幻論」ということばを用いずとも、唯物論ということばで十分であったはずなのだが、岸田秀は、「唯物論」の物は、いわゆる近代物理学的な意味での「物」であることを疑わなかったようである。

無論、これは岸田秀だけの誤解ではなく、ほとんどの人がそう考えていたようである。

小林秀雄が、そのような誤解をまぬがれ得た理由は、やはり
「物」的な物理学から「場」的な物理学への転換を知っていたからであり、小林秀雄の独自のマルクス解釈はそこから始まっているといっても過言ではないだろう。

小林秀雄、吉本隆明、柄谷行人といった文芸評論家たちによって理解されたマルクスは、いわゆるマルクス主義者やマルクス研究家たちによって理解されたマルクスとは違い、小林秀雄という文芸評論家の手によるマルクス理解から始まるのだろう。

つまり、吉本隆明も柄谷行人も、小林秀雄的に理解されたマルクスを前提にしてそのマルクス論を展開したのである。

柄谷行人はこのことについて『マルクスその可能性の中心』のあとがきのなかで、

「明らかに、小林秀雄は、マルクスのいう商品が、物でも観念でもなく、いわば言葉であること、しかもそれらの『魔力』をとってしまえば、物や観念すなわち『影』しかみあたらないことを語っている。
この省察は今日においても光っている」
と書いている。

このようなマルクス理解が小林秀雄「のみ」に可能であり、この小林秀雄のマルクス解釈を受け継いだのが吉本隆明であり、柄谷行人であるのはなせだろうか。

大正末期から昭和初期にかけて襲ってきた「マルクス主義」 という台風の影響無くして、小林秀雄のマルクス解釈の優位性を語ることは出来ないだろう。

皮肉なことだが、小林秀雄は、マルクス主義と対決する過程で、マルクスを理論家として読むのではなくて、思想家として詠むことにより、マルクス主義の思想的核心に触れることが出来たようである。

小林秀雄は、マルクス主義と全面的に対決せざるを得ない奇妙なめぐりあわせにより、もっとも深い部分でマルクスの影響を受けていたと言ってよいのかもしれない。

無論、その影響とは、小林秀雄の批評文のなかに明示的に読み取れることができるような影響ではなく、決して言語化出来ないような次元での影響であり、文芸評論家小林秀雄を「思想家」たらしめたような次元での影響であっただろう。

単なる哲学家でも、政治学者でも、経済学者でもなく、ひとりの思想家であったマルクスが、ひとりの文芸批評家であった小林秀雄を「思想家」に鍛え上げたのではないだろうか。

吉本隆明や柄谷行人が、いかに小林秀雄を批判しようと、彼らの思考そのものが、小林秀雄とマルクスの接触によって作り出された小林秀雄的なパラダイムのなかでなされており、彼らの思考もまた、マスクスと小林秀雄の影に覆われているように、私には、思われる。

吉本隆明は、小林秀雄のマルクス解釈について『小林秀雄-その方法』のなかで、

「初期の小林秀雄は、本多秋五も指摘しているように、マルクスもエンゲルスもレーニンもよく詠んでいて、極めて適切に引用していることがわかる。
たとえば『マルクスの悟達』や『文芸評論家の科学性に関する論争』などの批評文は、現在読んでみても、ただ否応なく小林秀雄的な色彩でエンゲルスやレーニンの言葉がよまれているということを除いては、けっしておかしなものではない」

と、ある種のためらいを持ちながらも、小林秀雄のマルクス解釈の正当性を認めているようである。

つまり、吉本隆明は、小林秀雄のマルクス解釈が
「いやおうなく小林秀雄的色彩で」染められていると言っているところに、小林秀雄批判の根拠があるとしているようであるが、私には、小林秀雄のマルクス解釈の正当性の根拠は、むしろそこにたあり、それを取り除いたならば、小林秀雄のマルクス解釈は初めからあり得なかったのだろう。

小林秀雄の小林秀雄たるゆえんは、「小林秀雄的色彩」のなかにあるのであり、私たちは、小林秀雄的色彩とはなにか、を問題にしなければならないのではないだろうか。

吉本隆明は、小林秀雄の方法それ自体に欠陥が在ったというが、私はそう思わないし、むしろ、なぜ小林秀雄の認識が今もなお有効であり続けているのかが、問題であり、私たちが問うべきなのは、その問題ではないだろうか、と思われる。

さらに言ってしまえば、吉本隆明の小林秀雄批判には、なぜ小林秀雄のマルクス解釈が正確であったのかという問題追及が欠けているようにも、思われる。

小林秀雄のマルクス解釈が正確であり得た理由と、吉本隆明や柄谷行人に影響を与えるような独自のマルクス解釈を達成できた理由は、小林秀雄が批評家であったからであろう。

小林秀雄は、マルクスが直面したであろう思想的な危機を共有できるような思想的極限を生きた批評家であったのではないだろうか。

小林秀雄は、マルクスのテキストのなかに、自分自身の問題を発見し、それを解釈したに過ぎず、小林秀雄にとって、マルクスもまた優れた批評家のひとりだったのかもしれない。

そうであるならば、マルクスを読むことは、小林秀雄は、ただ、「批評家」であるという自分の感受性に忠実であるだけで為し得たことなのかもしれない。

「批評家」小林秀雄の誕生という問題は、冒頭でふれたように、江藤淳が、『小林秀雄』のなかで提起した「人はなぜ批評家になるのか」という問題が重要なのであり、いわば、「批評家」小林秀雄の誕生という問題は、小林にとって「生き方」の問題としてであったと言えるだろう。

また、丸山真男は、『日本の思想』のなかで、
「日本では『自由主義者』の自己意識はマルクス主義によってはじめてつくられたという問題はひとり文学だけではなく、日本の学問史や思想史一般の理解にとって決定的に重要な事柄である」
と言っている。

無論、これはマルクス主義の影響というような次元の問題ではなく、マルクス主義という思想体系が、どのような思想体系であったかという問題にかかわっているのであり、単に理論的な影響というような問題ではないように思われる。

小林秀雄においてそうであったように、マルクス主義は、その理論的なレベルでの影響というものは、意外に少なく、むしろそれに対する反発が多いだろう。

しかし、マルクス主義の影響は、その理論や行動のレベルにおいてではなくて、もっと別の次元において決定的に作用しているのであろう。

マルクス主義の影響が単なる次元を超えて、文学者たちの存在それ自体を揺さぶるような、丸山真男のいう
「文学の世界をおそった『台風』」
となり得た理由はふたつあるように、私は、思う。

ひとつは、小林秀雄が指摘するように、マルクス主義が「科学的な理論」として理解されたからであり、もうひとつは、伊藤整らが指摘したように「実践的な倫理」として解釈されたからであろう。

理論的には「科学」を称し、生活次元の実践倫理としては「革命」を主張することによって、極めて過激な原理的思想として登場してきたものがマルクス主義であったのだろう。

マルクス主義という思想体系は、理論的次元で受け止めようとするには、あまりにも現実的な実践を伴っており、また、現実的な実践としてのみ受け止めようとするには、あまりにも理論的な体系を備えていたのである。

M・フーコーは、吉本隆明との対談『世界認識の方法』のなかで、
「マルクス主義はかつてのキリスト教にかわって、国家を基礎づける哲学となった」
と言っている。

つまり、マルクス主義は、賛成しようと、反対しようと、避けては通ることのできない重要問題となり、「批評家」小林秀雄の誕生もマルクス主義という思想との接触によってはじめて可能になったと言うことができるのではないだろうか。

ところで、文芸評論とは何であり、文芸評論家とは何者であろうか、ということについて、柄谷行人は『共同主観性をめぐって』の廣松渉との対談のなかで、

「ぼくの偏見では、西田幾多郎を例外にすると、日本の哲学はむしろ文芸批評家にあったのではないかと思うのです。
西欧ではけっしてそうではない。
哲学者の方がすぐれた批評家だったといってよいかもしれません。
たとえば、ニーチェは
『真理によって破滅しないために、われわれは芸術をもっている』といっている。
ぼくは自分の仕事を、その対象がどんなものだとしても、文芸批評の延長として考えています。
実際また、マルクスについて考えることにおいても、ぼくは批評家から学んできたのです」
と述べている。

柄谷行人が言わんとすることは、日本の文芸批評は、原理的にものを考える、いわゆる哲学的な作業である、ということだろう。

しかし、私たちは、西洋哲学史上の有名な人物の名前を頻繁に引用したり、また、そのような哲学者の思想にしきりに言及したりするような、所謂「哲学好き」の文芸評論家を思い浮かべがちである。

しかし、原理的にものを考えることと、哲学者の名前を引用することとは全く別のことであろう。

小林秀雄に始まる近代日本の「文芸評論」という文学的ジャンルは、単に文芸のひとつのジャンルというカテゴリーには収まりきらない何ものかをもっているように、私には、思われる。

それは文芸という枠組みを大きくはみ出しており、文芸評論という用語で呼ぶことが奇妙に感じられるほど、小林秀雄以後の文芸評論は、所謂、文芸評論的な場所から遠ざかっているのかもしれない。

しかし、私たちは、小林秀雄以後の文芸評論を、文芸評論以外の用語で呼ぶことはできないし、むしろ、文芸評論が文芸評論的場所から遠ざかれば、遠ざかるほど、文芸評論のもっともよい部分が、そのはみ出した部分にこそ生きていることに気付かざるを得ないのではないだろうか。

たとえば、私たちが、小林秀雄や吉本隆明や江藤淳、あるいは秋山駿や柄谷行人といった文芸評論家のテキストに期待するものは、単なる文学論や作家論ではないだろう。

このことについて柄谷行人は、『アメリカについて』のなかの安岡章太郎との対談で、

「日本の批評には、原理的に物を問うという姿勢があまりないでしょう。
批評というのは、ぼくはいま文芸時評をやっていますけれど、こういうものをぼくは、べつに批評だと思わないのです。
批評という仕事は、何も小説なら小説というものには限定されないものだと思うのです。
だから、ぼくにとってはマルクスをやることもやっぱり文学批評なんです。
といっても文学的にマルクスを論じるという意味じゃない」
と述べている。

日本の批評に原理的にものを問うという姿勢がないと柄谷が言うのは、柄谷が、「文芸時評」的なものが文芸評論であるという前提に立っているからであるが、小林秀雄以後の文芸評論のもっともよい部分は、文芸評論それ自体が「文芸時評」的なものや、「文学研究」的なものを越えて、原理的にものを問うという姿勢を持つようになった点にあろう。

柄谷行人が言わんとすることは、必ずしもこのような文芸評論に対する考え方が一般化しておらず、さらにいえば、いまだに文芸評論とは「文芸時評」や「文学研究」の中にしかないと考えている文芸評論家たちがあまりに多いということなのであろう。

秋山駿は『批評は芸術か』というエッセイのなかで、

「批評とは何か。
私もかつてそのように尋ねたことがある。
指差して尋ねたが、答えを得ることは出来なかった。
まだ考えている。
だから、私は、自分が書いている文章を、批評文だとは考えないことにしている。
では何と考えるのか。
単なる一人の感想を述べたもの、と思っている」
と言っている。

秋山が、自分が書くものを「批評」ではなくて「感想」だというのは、「批評」ということばによって意味されるものをそのまま受け入れることができないからであろう。

そして、秋山が受け入れることの出来ない「批評」とは、文学や文学作品に関する議論のみから成り立つ、文字通り文芸の評論としての批評のことであろう。

秋山は別の場所で、自分は文学史に関する問題をあつかうことが苦手だと言っているが、実は彼は、批評というものの名において、文学史的問題にかかわり合うことが嫌いなのではないか、と思う。

秋山駿という文芸評論家もまた、文芸のみに専心するような評論や、批評を拒絶していると言ってよいのかもしれない。

このことについて、秋山駿は、処女作であり、また代表作でもある『内部の人間』の「あとがき」に、

「ここに収めたのは、私がこの三年間に書いた文章の三分の一、正確に言えば、昭和三十八年の夏から四十年の夏にかけて書いたものの約半分にあたる。
ここに収めていないそれらの文章において、私は文学の問題を考えた。
しかし、何故かそういう自分には滑稽を感じたので、見本だけ残して後は全部はずしてしまった。
文学のことだけを考える文学というものが、私には奇妙に感ぜられる」
と書いている

これは初版の「あとがき」のなかの文章にあたるが、秋山は、それから5年後の「新版あとがき」のなかにも、

「この新版からは、以前の本の内容から『小説に何を求めるか』と『小説』とは何かという文学に関するエッセイの二篇を除いた。
その方が、最初に抱いた自分の意図というものを明らかにするからである。
最初の本の場合、私は、何か文学に関するものを、といわれ、さしたる理由もないままに異質なものを混じてそこに置いた」
という興味深い文章が付け加えている。

秋山駿は、自分の処女作であり、代表作でもある重要な著書のなかから、奇妙にも文学論的な文章を頑強に排除しようとしているように見えるが、小林秀雄以後の文芸評論は、文字通りの文芸の評論ではなくなっているのであろう。

文芸評論、あるいは批評とは、思考一般を指したことばであり、その思考の対象や素材は文学に限定されるものではなくなったのだろう。

しかし、大江健三郎がそうであるように、作家たちは、なぜか、文芸評論家や批評家に対して、文芸作品の解説や分析や研究のみを期待しがちであり、その挙げ句に「批評家無用論」まで飛び出したりするのである。

無論、秋山がそうであるように、文芸評論家の方は、必ずしもそうは考えておらず、現に、小林秀雄以後、吉本隆明、江藤淳、秋山駿、柄谷行人といった文芸評論家たちは、文芸作品の解説や分析や研究のみに専心してきたわけではないし、むしろ彼らの最も重要な仕事は、それ以外にあっただろう。

私には、大江健三郎が考える評論家像は、小林秀雄以前の評論家には当てはまれど、小林秀雄以後の文芸評論家、批評家には当てはまらないように、思われるのである。

批評家小林秀雄の誕生は、「文芸」の評論としての批評からの離脱をもたらし、文芸評論は、小林秀雄の出現によって、文学論から世界論、ないしは存在論としての批評へと変容した。

そして、それと同時に文芸評論家も、文字通り「文芸」の評論家から「思想家」あるいは「哲学者」と呼んだ方が相応しいような存在へと変容した。

少なくともそのような場所を、小林秀雄は、一人で作り上げたようである。

それは、「学問」でもなければ、「ジャーナリズム」でもなく、文字通り、「文芸批評」というジャンルであろう。

小林秀雄は、『様々なる意匠』のなかで、
「人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。
彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものにはなれなかった。
これは驚くべき事実である」
と書いており、『様々なる意匠』を書いたころの小林秀雄は、小説家になりたいという希望を抱えつつ、自己の根底にある抜き難い批評的な姿勢、つまり自他を強く意識し「斫断」するような観念の動きがあることを受け容れようとしていたのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

次回も小林秀雄とマルクス、出来れば小林秀雄のなかでの理論物理学とマルクスの関連についても描いてみたいと思います。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

※見出し画像は、マグリットの『傑作あるいは地平線の神秘』からです。
1966年、この絵について、マグリットは『ライフ誌』のインタビューで、
「ひとが3人いれば3人それぞれが月に対して独自の概念を持っている。
しかし一方で、三日月はまぎれもなくひとつしか存在しない。
だからそれぞれ違う方向を向いている3人の上に同じ月を描いた。
ひとつなのか、3つなのか」と述べていたようです😌


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