深淵【掌編小説】
最後の日、私の瞳は涙で溺れた。
たくさんの涙が込み上げていたのに、外側へは流れなかった。涙は流れる向きを変え、目の奥の方へと吸い込まれていった。
やがて涙は私の内側に海を作り、私の瞳はその中で溺れた。
もしかして、瞬きをしたら防ぐことができたのかもしれない。けれども、瞳にあなたとの楽しい思い出が次から次へと映し出され、私はそれを1秒たりとも逃さず見ていたかった。
行き場を失った涙は、深いブルーの海を私の中に構築するのを最初の日から決めていたみたいに、何の戸惑いもなく私の内側へと広がっていった。
それは眼下に広がるコバルトブルーの海よりもずっと深く紫みを帯びたブルーだった。
私には抗うことはできなかった。意識ははっきりしているのに、体の方は感覚がなかったからだ。
瞳は静かに沈んでいき、しだいに深くなる美しいブルーのグラデーションは、私が最後に見たものとなった。
やがて光の届かない闇が私を包み、もう瞳が果たせる役割はなく、代わりに体の内側の感覚が鋭くなっていくのを感じた。
(涙の海は冷たいのか?)
血液が体中を巡るのが実感できた。1本1本、毛細血管まで、その路線図のようなものを頭に描くことさえできた。
また、心臓が脈打つ音もオーケストラのティンパニのような響きを持ち、その振動で私の体は震えた。
ひとしきりそれらが終わると、今度はデクレッシェンドの指示を受けたみたいに音は小さくなり、私は液体の揺らぎと優しい水の音に包まれていることに気づく。
(少しずつ移動している?)
私は握っていたあなたの手を振りほどいた。
あなたを巻き添えにしてしまう、あなたまで溺れてしまう、と思ったから。
でも、またすぐに握り返された。今度は両手で包み込むように。
「アイナ、僕だよ」
聞き慣れたあなたの声だった。
ああ、そうか……。
ここは、高台に立つ病院。
あなたの両頬には涙が伝っていた。
よかった。涙を飲み込んだら溺れてしまう……?
(あれは夢?)
あなたの顔が近づいてきて、私は息を呑んだ。
アイスブルーの瞳が片方だけ紫みを帯びた深いブルーに変わっていた。
(どうして?)
「ああ、気がついた? 安心して。手術は無事成功したから。これで僕たちの目はお揃いになったね」とあなたは嬉しそうに私を見つめた。
〈完〉
©️2021 ume15
お読みくださりありがとうございます。
#シロクマ文芸部 に参加いたします。よろしくお願いします。
みなさま良いお年を ♪
来年もよろしくお願いします。
過去に参加させていただいた作品もよろしければ。