奈良教育大学附属小学校で何が起きていたのか?【下】
前々回の記事では、奈良教育大学附属小学校を巡る問題について、以下のように分類をしてみた。
これらのうち、③〜⑤などについては前回の記事で直接、あるいは間接的に扱ったので、今回は残りの問題を
・奈良教育大学附属小学校の教育課程の問題
・「学習指導要領や教科書」と「学校や教師の裁量」の問題
・国立大学附属校の問題
の3つに分けて、個人的に考えたことや感じたことを書いてみたい。
奈良教育大学附属小学校の教育課程の問題
今回、一部のメディアでは、
・「君が代」
・「道徳」
・「毛筆」
の指導が「不適切」だったと大々的に取り上げられている。
それらの報道は、国歌、心の教育、日本の伝統文化を蔑ろにしているのではないか、という論調である。だが、今回はそうしたイデオロギー的なものとは無関係なのではないだろうか。
まず、「君が代」については、学習指導要領で「全学年」で指導すると示されているのに対して、同校では「6年のみ」となっていた。おそらく、6年生には卒業式の「国歌斉唱」に向けて指導が行われていたのだろうと推測する(いいかどうかは別として、公立学校でも見られることだと思う)。
もしも、昭和の時代の「日の丸・君が代」問題と同じように「君が代」の指導を拒否していたのだとしたら、卒業式で歌うこと自体もなかっただろうから、今回の件についてはイデオロギー的な問題とは切り離して、あくまでも「指導不足」の問題として扱うべきだろう。
・・・続いて、「道徳」的な指導として「全校集会」が行われ、それが「道徳科」の授業として扱われていたという点だ。これに関しては、公立学校に勤めていた者の感覚で言えば、同校の取組に疑問を感じざるを得ない。
(ここでは、「教科としての道徳」や「心の教育」の問題には触れないでおく。)
実態として、道徳科の授業の一部が、
・児童(生徒)指導のための時間
・校外行事の事前、事後の指導の時間
に充てられることは、公立学校でも散見される。
だが、さすがに「全て」が「全校集会」というのは聞いたことがない。「行き過ぎ」だと言われても仕方がないと思う。
仮に、無償配布されている道徳科の教科書を全く使っていなかったとすれば、「税金の無駄遣い」という批判も免れないだろう。
・・・3番目の「毛筆」が「筆ペン」で代替されていたという点については、「黒っぽいグレー」だと感じる。
たしかに、筆ペンのほうが実用的ではある。だが、毛筆を体験することの教育的な価値は否定できないし、児童がそうした経験をする機会を奪っているのではないかとも感じる。
ただし、毛筆をするには準備に時間がかかるうえ、片づけの際にも余った墨の始末、使い終わった筆の手入れなどで一苦労するものだ。筆ペンで代替することでそうした手間を省き、その分の時間を他の活動に充てるというのであれば、発想として理解できなくはない。
ちなみに公立の小学校では、3年生になるときに「習字セット」の購入を求めることが一般的である。当然、奈良教育大学附属小学校では、こうした購入も行われていなかったのだろう。
「学習指導要領・教科書」と「学校・教師の裁量」の問題
これについても、
・国が定めた学習指導要領を無視している
・文部科学省が検定した教科書を使用していないのは問題だ
と、まるで昭和の時代の「文部省」対「日教組」の対立を彷彿とさせるような報道内容が見られる。
しかし、同校が学習指導要領を「無視」しているのかといえば、けっしてそんなことはない。何しろ、報告書に記載された「不適切事項」を除けば、それ以外の同校の教育課程は学習指導要領に準拠していると判断されているのだから。
そもそも、報告書で「不適切」とされている内容については、ツッコミどころが満載である。
たとえば報告書の中には、
「体育大会(おそらく運動会のこと)に向けた評価が不適切」
という記述がある。
だが、運動会に向けて学年単位で表現運動や団体競技などの練習を行う場合、児童一人ひとりをきめ細かく見て、適切に評価することは至難の業である。少なくとも、私が現職の教員だったときには無理だった。
今回の報告書の内容には、
「本来、『おやつ』の金額として計上すべきバナナを、『果物』として扱ったのは不適切」
といった類のものも少なくないと思う。
・・・続いて「教科書を使用していないのは問題だ」という点についてだ。
教科書の扱いに関しては、
「基本的には、教科書の内容に沿って授業を進める」が、
「教科や単元によっては、学習指導要領や教科書の内容に添いつつ、子どもたちにとって身近な事象、地域に根差した題材、時事問題などを取り入れるなど、学校や教師の裁量による授業を行う」
というのが一般的だろう。
子どもたちの興味・関心を大切にしようとするならば、当然のことながら後者のほうが望ましい。教育課程の先進性や独自性が求められる附属校であれば、それはなおさらのことだ。場合によっては、全ての単元を「教科書を離れて」行うこともあるだろう。
特に、小学校の生活科や社会科の場合には、地域にある題材を活かして学校ごとに教育課程をつくることが一般的で、教科書を「資料集」「副読本」のように扱っているケースは公立校でも珍しくない。
ただし、特定の教科の「教科書を1回も開かなかった」ということになれば、前述した道徳科の場合と同様に、「税金の無駄遣い」という問題にはなるだろう。
国立大学附属校の問題
従来から、全国にある国立大学附属校に対しては一部から批判があった。その主な内容は、
・附属校が進学校化、エリート校化している
・研究内容や取組内容が、一般の公立学校にとって汎用的ではない
・公開授業や研究発表が目的化している
などである。
確かに、そこには改善すべき課題も多くあることだろう。
しかし、国立大学附属校が学校教育の活性化や人材育成などに大きく寄与してきたことは否定できない。また、附属校の教師たちの多くが、教育活動に対して真摯に取り組んでいることも事実である。
一方、近年の国立大学に関しては、
・全体的な予算の削減
・予算配分の重点化
・理工系学部の重視
などがあり、教員養成系の大学や学部については縮減の対象とされてきたという経緯がある。
また、その附属校についてもその「費用対効果」がたびたび議論となっていた。
「教員養成系の大学・学部の定員や予算を削り、それを理工系の学部に回す」
ということを考えている人たちは、けっして少なくないだろう。
しかし今回の一件は、あくまでも奈良教育大学附属小学校という特定の学校の問題である(今のところは)。
それを全国の附属校や教員養成系大学・学部の問題に拡大して論じようとする人たちがいるとしたら、さすがに飛躍が過ぎるのではないだろうか。
これまで3回にわたって奈良教育大学附属小学校を巡る問題を取り上げてきたが、ひとまず今回で終わりとしたい。
ただし、この問題に何らかの進展があれば続編を書く予定である。