昔で言うなら究極に自由を愛する、カブキ者、うつけもの、のような感じだろうか。自分のアナーキーはその感じから来ている
怒りと憎しみ、妬みと僻み、多くの人の心を病ませる原因となるのが羞恥心。社会においてはその羞恥心への刺激は常に行われる。皆と同じになれとする同調圧力に、自身に従えとする支配欲、承認欲求を満たすためのあらゆるマウントなど、その中でお互いのプライドと羞恥心のせめぎ合いが常に行われる。
他者は思いの外誰も見ていない、よほどの人でなければすれ違う人をじっと見るような人はいない。しかし誰もが同じく、誰かに見られてるとする強迫観念、羞恥心が発生し、それによってあらゆるトラブルを誘発する。
実際は誰も見ていないのに、何か見られてるような気がする。それほど注目される人間ではなくても、常にそれを気にして生きている。なぜそんな感情になるのか、なぜ他の人と比べて普通ではないと不安になるのか、普通にしていることに何の価値があるのか。
その常に誰かを意識し、見られているような感情になるから、誰かが楽しそうにケラケラ笑ってる姿を見て「もしかして自分の事を馬鹿にしてヒソヒソ話し笑ってるんじゃないか」、そんなパラノイアが発生する。
しかし実際は、その楽しそうにしてる本人達は内輪の話、冗談などでケラケラ笑っていただけで、他者など目にも入っていない。
実際、わざとらしくその場で転んでみるといい、誰も見向きもしない「大丈夫ですか?」と声をかけるのは特別優しい心を持ってる人だけ。それ以外は周囲の人間以外をまったく見ていないし、興味も持っていない。
つまり、自分を見てくれるのは優しい人だけであり、そうではない人はまったくの無関心なので誰かを気にするだけ無駄と言うもの。
自身を見ている人は、自分自身がパラノイアの悪魔の囁きに苛まれている人か、人に気を使う優しい心を持つ人、そのどちらかだけになる。
だから、自分はたまに、わざと困った顔で口をすぼめたり、あからさまに変な顔をして歩いてみるが、やはり街行く人は誰も見ていないのが解る。それが楽しくて自分は時たま1人変な行動をしたりする。
そう…、思いの外自分のことなど誰も見ていたりなんかしない。誰も自分を見て笑ったり馬鹿にしたりなんかしていないし、誰も悪口や陰口など言っていない。それが聞こえるのは悪魔の囁き、パラノイアが自身の心と脳にへばりついているから。
そのパラノイアが常に羞恥心を刺激し、何かも解らない恥ずかしさや怒りと憎しみが沸き起こってくる原因になっている。
しょせんは誰もが、他人から見たらその他大勢の他人でしかない、そうとしか見ていない。誰もが自分を主人公として生きているので脇役と認識するその他の人達になどまったく興味など持ってはいない。むしろ他に誰がいるのかなんて気にもとめない。
気にしているのは世間体と、普通や常識とするファッションだけで、他者を見る場合それが他の人と一致しているかどうかの確認作業しか行うことはない。誰もが普通や当たり前とする同調圧力のモデル、見本とされる。
それに気がつけたら、その人は普通や当たり前、常識とする鎖、その不自由から完全に解放される。心の自由、表現の自由や話し方の自由、服装の自由まで、ありとあらゆるものが独自のものとなり自由自在となる。
何者にも従う必要もなく、何者も拝む必要もない。何者も信じる必要もなければ、何者の支配下になる必要もない。従わなければ怒る人間は、勝手に怒らせとけばいい、いつまでもそんな不自由な者に縛られている人達などかまってる暇もないほどの自由が得られる。
知恵のマウントも取られない、何せ自由なんだから発想も考え方も何もかもが自由となる。誰かが言う「こうでなければならない」とする固定概念の支配をぶち壊す事ができる。知恵のマウントとして何かを言われたら「なぜそうでなければならない?なぜそうだと決めつける」、と言えば良いだけであり「もしかして自分が間違ってる、自分は何も知らない」、そう思わされる必要もない。
自分の話は洗脳でもないし、承認欲求の披露でもない。誰かを支配する目的で何かを話しているわけではなく、人の心を不自由な支配の鎖から解き放つために言葉を綴る。
自分を拝めなんて言ったこともないし、絶対に拝ませない。もしも誰かが自分を拝むなら数万文字で説教をする。それが嫌なら、なん人たりとも我を拝んではならぬ。とラオウのような口調で言う。
俺は始まりから終わりまで1人を好む、群れると愚か者になるのを知っている。昔で言うなら究極に自由を愛する、カブキ者、うつけもの、のような感じだろうか。自分のアナーキーはその感じから来ている。
アナーキーを定義するなら、言葉通りの無秩序だが、自分はこれを自然法の中にある神が与えてくれた究極の赦し、神による赦しの秩序と解釈してアナーキーと言う。
だからその赦しであるアナーキーを阻害するような者を人を支配したがる邪魔者と判断する。政治論者に陰謀論者、スピリチュアリストにニューエイジ思想、固定概念激しい宗教家、そういった人達の決めつけや「絶対にこうである、こうでなきゃいけない」、とする人を不自由にする勧誘活動は徹底して否定する。仲間とは受け入れてもらうものではなく、受け入れるもの。
これに従え、従わなければ仲間じゃないとするのは支配であり、そんなもの仲間でも友達でも親友でも何でもない。その根底に何らかの思想主義によるマウントや知恵自慢、同調圧力があるなら、それは支配である。
俺は陰謀論に関しても、神学、神秘的な話に関しても難しい話を語るが、それに従えとは言わないし、それを守れとは言わない。神を信じろと言うのは愛を信じろと言っている意味でもあり、それは愛による究極なる自由なる無秩序、神による秩序を信じろと言う意味でもある。人間が作ったデジタルのサイコロよりも、神の元に作られた自然なる流れによってジャッジされるアナログのサイコロを信じよと、そういう意味でもある。
鏡は光であり、光合成による生命の誕生は太陽の暖かさが長い年月をかけて育んできたもの。その進化は勾玉となり、知を覚った流れは消費する剣の欲望へと渡され、その力は誕生のためのパワーを振り下ろすビッグバンクライシスとなりビッグバンとなる。始まりであり終わりとなり、最後の誕生を繰り返す。
眩きものは眩きままに、崩れ行くものは崩れ行くままに。
また自分の悪い癖が出た、理解するのもそう簡単ではない表現を使ってしまう。
とにかく愛とは間違いなくこの世の全ての誕生を司る神の心そのものであり、その愛に聞くから全てを知ることができるし、覚ることができる。愛とは全てを知る神の心、アカシックレコードそのもの。だから全ての生命、我々人類は既に全てを知っていると確信したし、知っているからこその感覚、言葉よりも前にある本能がある。
ウツボカズラやラフレシアのような植物があんな動き、生体をしているのも、既に全てを知っているから。猫や犬が誰に教わることもなく自然に砂をかく仕草をするのも、全ての生命の生態系が維持されているのも、何もかも我々生命は宇宙の真実、神のことを既に知っているからに他ならない。
それを思い出すために目を閉じる、瞑想する、座禅をする、過酷な修行の中で思い出そうとする。
自分は神の周波数を聞いた、だから覚る事ができたし、思い出すことができた。何より、その神の声は、とてつもない嘆きと憤り、孤独の中にある哀しみに溢れていた。
それを知ったから、自分は神を心の底から信じたし、今まで何かも解らなかったこの複雑な想いの答えを知ることができた。
それは世の中への不満や、自分が不幸であるとするものでもない、思想主義により発生する従わない者達に対する怒りでも憎しみでもない。何かも解らない、この複雑な想いからくる憤りや嘆き、それが神の声だったと知ることができた。
自分は神を信じる、いつまでもずっと。絶対に神を裏切ることはない、この心は神と共にある、この身も心も魂も全てにおいて、永遠に我は神のためにあり。