本物の愛のために生まれ、真実の愛のために美しく散って咲き誇る
何で人は恥を持つのか、それが自分を縛りつける鎖になってる。何もできない、何も言えない、自由に何もできなくて何も言えない。
シンプルに平和を願えば偽善と言われて、正直な想いを素直に言えば馬鹿と罵られ、許しを持つことを望めば屁理屈で言いくるめられる、そんなの間違ってる。
何もいらないのに、お金なんかじゃないのに、生きる事と引き換えにしてあらゆる自由を奪われる。皆と同じにしてなければ変人のような目で見られ、空気を読まないと言われ、頭が悪い者のような扱いを受け、白い目で見られ、見下され蔑まれ、言葉の暴力でこてんぱんに叩きのめされる。
何もなくても心はある、何も持ってなくても愛はある。社会と呼ぶ監獄の中で必死に愛を守り生きて、もがき苦しむ。
正義と言えば、その正義は悪と言われ、優しさと言えば偽善と言われ、愛と言えばカルト扱い。勇気と言えば、根性もないくせにと言われ、道徳心と言えば自分のことを棚に上げてると揶揄をされる。何も言えない、何も言わさない、そんな人間の抑え込みに従わされ思う通りの言葉を使えなくなる。
恥ずかしい、とする感情が自由な表現の邪魔をする。エンターテイメントを見れば、その誰もが求める美しいもの、眩しいものを曇らせ疑わせる。羞恥心は、人を不自由にする。
共感性羞恥心が他者の言動や行動を恥ずべきものだと認識する。しかし、それを言ってる本人は本気の心で、真剣に熱い心で言ってる言葉、それに真剣に答えずに「キモい」「馬鹿」「変態」「不気味」「偽善者」「きちがい」そんな酷い言葉を平然と言い放つ。
自分は、インターネット上でよく見る「wwwww」この表現を好まない。これを見ると心底馬鹿にされているような気持ちになる。それはまるで悪魔の使う表現そのもので、汚い心に呑まれてる、悪魔にとりつかれてる、論破とマウントに執着する本当につまらない人達。
この「wwwww」を使われると、緑色の不快なヘドをかけられたかのような気分になる。人を揶揄したり馬鹿にしたり見下したり、そんなのユーモアでもなければ笑いにすらならない、他者への侮辱行為。
心の底に巣食ってる蛇が操る羞恥心が、そういった表現をさせている。自分の言う差別主義者とは、人の心を無視して無理矢理同調させようとする、思想主義を感染させ仲間に属させようとする個人崇拝のファシズム化した人達、ファッション右翼と左翼とでも表現しようか。
知識など、知恵などそんなに重要じゃないし、詳しい政治や陰謀論の知識をどれだけ持っていようが愛の言葉には敵わない。
誰もが本当の愛を解ってない。それはどれ程に美しいものか、どれだけ優しくなるパワーの源か、本当の愛を知らないから気がつけないし身に付かない。自分のための怒りや悲しみなんか無くて、常に世の中の人々を憂いて嘆き憤る心。子供の頃からずっと、そんな感情を抱えてきた。物心ついた時には既にそんな気持ちを持っていた。
地球が好きだと思っていた。6歳の頃から、この地球の大地に寝そべって全てを感じたいと、この星を、地球と呼ぶ惑星を心の底から愛した、地球を抱きしめた。涙を流して、ここに生まれた喜びと奇跡を身体中、頭心体全体で感じようとしていた。
こんな素晴らしい場所に生きてるのに、どうして大人はそれに気がつけないのか、小さな物事にこだわり、争い対立し続ける。そんなちっぽけな世界の上には果てしない夜と昼、空の向こうにある不思議な世界が無限に広がってるのに、自分は何でちっぽけな社会の中で1人嘆き憂いて、憤り続けてるのか。
特別な人間になんかにならなくてもいい、お金持ちになんかなりたくない。そんなものより、この世界の人々に、もっと愛を、そう思い続けてきた。
良い家なんか住まなくてもいい、良い車なんかいらない。立派な家なんかより立派な愛がカッコいい、美しい。エアロ付けたり、ブンブン音を鳴らす派手な車なんかより、愛の音が聞きたい、愛の美しさをこの身に纏いたい。何も無くても、それを馬鹿にされても、揶揄され、見下され、四方八方から悪魔の囁きを聞かされても捨てたくないもの、それが愛だった。
今まで自分が異性を誰も好きにはなれなかったのは、色欲しかないから。自分にとってもそうだし、相手にとってもそう、そして恋愛をファッションにしたがる、相手をアクセサリーや便利なATMにしたがる。色欲だけの関係など自分の身を汚すだけ、ATMになる恋愛など邪な心、そんなもの恋でも愛でもない。
たった1人、子供の頃、たった1人だけ好きになった。その人はとても優しく純粋で、ただ側にいるだけで幸せだった、他には何もいらない、たた一緒にいるだけでいい、その他のものなんか何も見えないし、それ以上の物事なんか何もない。まだ10歳にもならない子供が、そんな感情を持っていた。
どうしてこの世界はこんなにも、残酷なんだろう。なぜ人は純粋な心をズタズタに切り裂いて、投げ捨てようとするのかな。
どうして平然と石を投げるのかな、何で血を流してるのに喜んで笑ってるのかな。人の心の痛みと苦しみを解ろうとせずに、身勝手なレッテルを貼ろうとする。自分が気に入らない何かだから、徹底して対立して攻撃したがる。そんなこと、何の意味もない。
仲の良い誰かが、これが普通、当たり前だと、こうでなきゃおかしいって説得してきたら、何で素直にそれに従うのかな。何でそんな政治論や陰謀論を信じてしまうのかな。どうして誰かのスピリチュアルやニューエイジ思想を絶対だと思い込むのかな。
何で偉人や有名人のステータスの力に頼りたがるのかな。そんな人達だって、過去から未来にかけては我々と何も変わらない人間なのにね。人間の考えることなんか、必ずしも絶対ではないし、完全なる正解など誰にも解らない、解らないから哲学し苦悩し科学する。
でも、真実など解るわけないんだ、まだまだ赤ん坊のように駄々をこねて泣き叫ぶ人類ごときに。その赤子にすがっても、真は見えてこないし心、魂の成長にもならない。
我々ができること、それは本当の恋と愛を見極めること、偽物じゃない本物を。生命の基本的なものはそこにある、繁栄はオスとメス、プラスとマイナス、男と女にあり、それがこの世の始まりであり最も尊くて大切な全生命のメイン。
健全なる精神は健全なる肉体に宿る。精神を磨けば肉体も健全なるものとなる。心は身体を守り、身体は心を守る。行動は心が決め判断し、脳がそれを肉体へ伝達し身体が消費する。だから健全なる心を脳で身体へ伝えて、健全なる身体を守り続ける。
身体はファッションじゃない、どうでもいい魂の器でもない。心を守り、脳を守り、身体も守ること、それが美しき三位一体の流れ、愛のトライアングル。
自分の大切な魂の片割れ、十戒の石板は、その辺に落ちてる石なんかじゃない。それらしい偽物の石板では完済しない。完成しないものは生涯偽物であり、どんなに子孫繁栄しようが、裕福になろうが、最後まで満たされることはない、永遠に1人孤独に最後まで誤魔化し生きるだけになる。
今まで生きてきて初めてとなる不思議な何かがあったなら、外部から聞かされる共感性羞恥心と、内部から聞こえる偏執病パラノイア、悪魔の囁きに負け、それを見失い捨ててしまうなら、それ以上になる何かなど生涯見つけられることはない。それは砂山から一粒の塩の結晶を探し出すぐらいに難しいこと。
もしもそれを見つけられたなら、究極の奇跡であり、神と天使が導いた尊い光となる。
だから、悪魔の囁きとなる羞恥心ごときに縛られる心など持つ必要はない。素直に思うことを言えば良いし、全力で表現したらいい。
誰にも邪魔なんかできない、数万人を敵にしても怯む心など無くなる。何にも怖くはない、恥ずかしいことなんか何1つない。
躊躇もいらないし、普通や当たり前もいらない。その奇跡を羞恥心だけで捨ててしまう必要なんかない。心に確信があるなら、それは真実であり間違いない本物の奇跡。
神を信じるなら必ず奇跡は起こる。言葉に叩かれ、蔑んだ目による矢を放たれ、馬鹿にされ揶揄され内と外からの羞恥心によって心をズタズタに引き裂かれても、屈強な心は何者にも屈しない、支配できない本物のキングダムハーツとなる。