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何が起こっても変じゃない、そんな時代さ、覚悟はできてる

なぜ預言者が必死で言葉を尽くす必要があるのかと言えば、それは聖書など、世界の宗教、神秘的なもの、神学においては戒めとなる残されてきた教え、悔い改めねばその運命が待っているとするもの、それを実現させてはいけないと言い続けるため、そのために言葉を尽くして人々に主張する。

好かれるためにやる行いでもなければ、誰かに崇拝され拝まれリスペクトされるためにやる行いでもない。自身の我欲を満たすためでも、お金儲けに使うためでもない。預言者とは常に貧困でありお金のために動くことはない。その自分への戒めも修行の1つでもあり、そう導かれた者は自身が望まなくても、自然にそんな運命の流れとなる。

預言とは知恵の披露ではない、自分は凄いんだぞとする承認欲求も必要ない。言葉使いだって乱暴でもいい、人に好かれる必要もないので、どんな表現でも使って言葉を尽くす必要がある。

解る人なら、どんな言葉でも伝わるもの。その表現など些細なことで、重要なのは何を話しているか。誰が話しているか、ではなく何の話をしているか。


なぜ人々は争いを終わらせ、平和になるよう願うのにその真逆の行為をして世の中を混沌とさせるのか、なぜ幸せになりたいのに他者を貶めるような行為をするのか。それは自分の不幸を誰かのせいにするから、だから争いが終わることもなく、この世界に公平な幸福を得られる世界を実現することができない。


自分はこれだけあれば充分とする謙虚さを持てず、誰よりも多く持ちたがる。1人分は1人分だけでいい、1人が2人分持つなら、それは1人が何も持てない結果を意味する。

社会における、有り余る富とは誰かの幸せを奪い取る行為でもある。有り余る富の中から食材を多く買い、余ったり腐らせたりして平然と捨て去るぐらいなら、最初から何も手にしていない人へ譲る必要があった。

誰もが「これは自分のもの、自分が手に入れたもの」、とするなら社会など成り立つわけがない。有り余るなら誰かに譲る、それが出来ないから格差が生まれ、争いが生まれ、混沌と無秩序が正当化されるようになる。必要なものを必要な時に必要なだけいただく。


地球は人類の1つの集落であり、それは国と国が分断し自分の我欲の事しか考えられない人達の作る土地や縄張りのためにある惑星ではない。人間とは1つの分類であり、姿の違いは少しばかりあれどまったく同じ人間であり、古来から人類は各地をさ迷い転々として他人種と融合して来た。それは現代科学が発展しDNAの証明で明らかになっている。


グローバル化はバビロン、バベルの塔ではなく人類の楽園への道筋。それに反するのは聖書に書かれた不道徳と思わしき表現を、プロテスタント、福音派の人々が身勝手な自己解釈をした結果。本当は真逆であり、バビロン、バベルの塔とは権威主義に溺れ個人崇拝し人間を拝み崇め、聖書の戒めや陰謀論を自作自演し新世界を強引に構築しようとする愚行である。

ソドムとゴモラとは身勝手な支配欲によって聖書に書かれた黙示録を自作自演する左右の獣であり、その者達こそバビロン、バベルの塔を建造して神に挑もうとする無謀な者達。

聖書とは偶像である、それを絶対として拝む事自体も偶像崇拝となる。だから最後の審判においても、裁かれる魂は全ての聖職者も含まれている。

重要なのは人としてどうあるべきか、許しの心を持てるか、不道徳なる心を捨て去れるか、我欲だけで人を苦しめる行為をすることなく正義を貫けるか。愛を、神の心を信じ続けることができるかどうか。


赤だけでは成り立たない、青があるからバランスが保てる。しかし赤と赤だけで世界規模で不道徳なる行いをするなら、それは神への反発、人間の堕落となる。赤と青は男と女でもあり、アダムとイヴでもある。陰と陽でもあり、プラスとマイナス、右の翼と左の翼でもある。


いくらそれが偏った歪んだ目から見て正しい行いに見えても、その結果残酷な現実に打ちのめされる人々は影に潜んでいる。我々の見えない場所で目も当てられないような残忍で冷酷、非道な仕打ちが行われる。


自分の支配欲と承認欲求のために誰かを犠牲とするなら、それは大きな罪となり最後の審判における判断基準となる罪が、その自身の背中に覆い被さる。


自分は、見えない所で残酷な現実に打ちのめされてる人達を尻目に、とても裕福な暮らしなどできるような気持ちなど持てない。


ほら見たことか、なんて言いたくもないし、言うつもりもない。ほら見たことか、を言わない結果が望ましい。


しかしどんなに言っても人々が聞かないなら、それが人々が選んだ選択肢。誰かを傷つけた場合、それは自分が傷つくのと同じ。誰かを苦しめたらそれも自分に返ってくる。誰かを悲しませるなら、いつか自分も同じ目にあうことになる。



すべてにおいて許し(多様性)、がないなら、誰も許されない世の中となり、日々脅えて暮らすことになる。自らの体に鎖を繋ぎ不自由にする、自ら自由を捨て去る、自らの権利と自由意志を投げ捨てる、自ら民主主義を攻撃し、自ら不自由とされる獣の檻に進み、その門を潜り抜ける。

新時代の幕開けは、獣の刻印を受けること。


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