「老害」の役割〈2〉/「一人っ子」にまつわるエゴ話
こんばんは。まいです。
前回の記事はコチラ。
今回も私の体験が例になっています。
「一人っ子」についてのエゴも混ざりますので、
子育て中の方にも響くかもしれません。
ぜひ、ご覧くださいね。
まず「老害」とは
誰かのエゴに触れてしまっただけだと気付く
息子が小さい頃、とある温泉に行きました。
私も息子も温泉が大好きで、のんびり露天風呂に浸かっていました。
【小さな息子と行った温泉で…】
露天風呂は空いていて息子と二人でまったりとお湯を楽しんでいました。
そこへ、人の良さそうなおばあちゃんが話しかけてきて、
お子さんは何歳?など聞いてきます。
温泉で気分が良かったので、楽しく会話をしていました。
兄弟は?と聞かれ、一人っ子と伝えると、それまで和やかだった
おばあちゃんの表情は豹変します。
「兄弟は作った方がいい。一人っ子はかわいそう。
私は一人っ子。戦争で親をなくして、兄弟もいなかったからひとりで親戚の家に預けられて辛い思いをした。そこの家の子供たちとは仲良くなれず、嫁いだ今でも彼らとは疎遠。夫が亡くなってからは、近所の方としかやりとりがない。一人っ子はかわいそうだ。」と、苦労話が始まってしまったのです。
「一人っ子」に結びつくエゴ
当時、エゴ探しをしていなかった私は、
「一人っ子は我儘」や「一人っ子は寂しがりやでかまってちゃんでウザい」などのSNSを見ては心配していたので(それらもすべてエゴ)、
「かわいそう」という言葉が「兄弟を作ってあげないなんて、ひどい親だ」と自分に攻撃されているように感じ、とても不快に感じていました。
温泉から上がった後も、自宅に帰ってもずっとモヤモヤしていました。
すると「ひどい親か…そうかもしれない」と、
自分で自分を否定し始めました。
寝る時までひきずり、ずっと心にモヤモヤを抱えて苦しんでいました。
私の中で、言葉ではなく、そのおばあちゃんに不快の矛先がむいて、
今後、会うこともないおばあちゃんを嫌いになりはじめました。
「その家族に子供が一人の理由も考えないで、兄弟をつくれという人は関わるべきではない人間だ」「無視で良し」「兄弟マウントしてくるやつもクズ」「老害だ」というSNSを見つけては安心していたのを覚えています。
それらはエゴとの一体化を強めます。
SNSで否定で解決を促す言葉を使っている仲間を探して、安心してしまうと、SNSの内容もほぼほぼエゴの塊なので、そのエゴとの一体化を強固することになってしまいます。
時間が経って忘れたとしても、ちょっとした切っ掛けで、同じようなことが起これば、同じように不快になります。
不快はいずれ不安になり、耐えられなくなり、周りが見えなくなります。
そうやってエゴを抱え、一体化したまま大人になり、
年を重ねていくと「老害」だと、受けとられる行動を起こしてしまう
恐れがあります。
目の前に起きている事と、自分の中の当たり前(エゴ)が違うと不快になるからです。
「ねぇ、見つけてよ」とエゴが顔を出してくる
そして、時は過ぎ、現在。
いろんな場面で「エゴ探し」をしていると、
見つけてくれるんだと気づいたエゴ達は、
「わたしも見てよ」とエゴの方からやってきたりする。
ある時、小さなきっかけで、頭の中がうるさくなり始めて、これはなんだと頭の中に耳を澄ますと、その温泉の時のエゴでした。
当時の私を思い返すと、たくさんのエゴが折り重なり、
その件に関りがないような内容のエゴまでも引っ張り出して
パンパンになっていました。
息子に関わるエゴ、自分のカラダに関わるエゴ、立場上のエゴ…
「不安だったんだね。
ひとりでどうにかしなければならないと思っていたんだね。
わぁ、すごい抱え込んでいたね。」と
一つ一つに声をかけていく。
取り出したエゴを並べていると、少しずつ奥の自分が見えてきて、
視界がクリアになり、周りが見えるようになります。
「わたしは、どう在りたい?どうしたい?」
いつものように、聞くと答えはすぐ出てきます。
__心地よくいたい。軽くいたい。__
(私の場合です。)
すると、
「あの、おばあちゃん」はどうしたかったのだろう、
「あの、おばあちゃんのエゴに気づかせてあげることはできるのだろうか。。」と、
言葉が沸いてきました。
おばあちゃんの発言から察するに、
彼女は自分の置かれた状況を、かわいそうで、どうすることもできない、
親のせいで、時代のせいで、兄弟さえいればこんなに辛くなかっただろう……と、当時選んだエゴと一体化して苦しんでいたのでしょう。
目の前に現れた親子の子供が「一人っ子」であると聞いて、自分自身(エゴ)と照らし合せ、エゴに障って、エゴが反応して不快を感じていたわけです。
その不快感があふれ出して、目の前の親子に自分の苦労話をすることになったのです。
目の前の親子がどんな状況であれ、話さずにいられなくなったのです。
おばあちゃんの奥の自分は、エゴという演出家のおかげで、
キャッキャと面白がっているとは思います。
抑揚がつき、物語としては最高だからです。
ただ、エゴと一体化しているおばあちゃんの意識は重い感情を感じ、
辛かったでしょう。
エゴを探して、自分から取り出す作業は、おばあちゃんもやって出来ないことではないと思います。
しかし、一体化が進めば進むほど、見つけようとすると苦しくなることもあります。
どんな状況でもその場で一番選びやすいものを選んだのは自分ということを、飲み込むのがしんどいのです。
「自分が選んだ」と直視するのが苦しいから、おばあちゃんになるまで抱えてきたのです。
何かや誰かのせいにして。
あのおばあちゃんには、もう会えません。だから、
「エゴ探し」をおばあちゃんにオススメすることは
できないこともわかっています。
私は奥の自分に戻った後、これから使うエゴを選び直しました。
そのエゴが温泉の出来事について、
と、新しい意味をつけました。
これが「エゴとお遊び」開始の合図です。
「なにもなくなる」
自分自身のエゴに触れていたんだなと気づくだけで、
私は「自分の事も、そのおばあちゃんの事も嫌いにならずに済んだ」のです。
安堵感がやってきて、
そのあとは、本当になにもなくなります。
「なにもなくなる」この軽さ。
エゴ探しで奥の自分に戻る、その繰り返しが「軽やかさ」を生み出していくのです。
そして、新しく選び直したエゴに今に集中できる意味をつけてもらうこともできます。
前提として、出来事を老害と捉えようがなかろうが、
奥の自分にとって「最高に面白い演出だ!」と思っています。
人生の物語としては完璧でオッケーです。
自分の人生の目的地が「安堵感や軽やかさ」だとして、
最短距離でそこに向かいたいのであれば、
出来事のとらえ方を選ぶのが肝心です。
その、捉え方の方法の一つに「エゴ探し」「エゴとお遊び」があると思って頂きたいです。
エゴ探しは「遅かったら間に合わない」のか
いえ、アラフォーの私でも楽しく探せているので、
いつからだって始められます。
人生は奥の自分がエゴを使って感情を感じ、遊んでいるのです。
抑揚のある物語は面白くて最高です。
「奥の自分にとって、エゴとの一体化は悪いことではない」のです。
だから、エゴ探しはいつ始めたっていいし、
逆に言うと、いつ辞めたっていいのです。
子供たちにとっては、
エゴの理解を深めておくと、不快感の出所(エゴ)に気づきやすくなり、
イライラなどから落ち着きを取り戻すのに役立つと思います。
息子と一緒に実験中です。
宿題をやる、やらないについてから始めています(笑)
軽やかに人生を楽しみたい方は、
「エゴ探し」「エゴとお遊び」を、
お好きな時に始めてみてくださいね。
↓こちらの記事もオススメです^^
最後まで読んでくださり、ありがとうございました^^
それではまた♪