20年ぶりにお母さんと会った話(1日目)
みなさん、お久しぶりです!
投稿が滞っていました(というか「生い立ち」シリーズの途中、、、ごめんなさい。)が、久しぶりに書きます!
理由はタイトルにもあるように20年ぶりにお母さんと再会したので、詳しく書こうかと思いました!
初めての方(なぜお母さんとバイバイになったのかの経緯が知らない方)はよかったら下記のページもご覧ください。
ではご覧くださーい!
今日は12月3日。
帰国直後に本当は書きたかったけど、直後に仕事などがあったため、夜のカフェで書くことにする。
母親と再会する前の話
母親との再会が正式に決まったのは9月ごろで、再会日は奇しくも私の誕生日である11月21日となった。
無理やりその日に合わせたわけではなく、仕事の事情や途中から合流する彼女と日程調整したら、偶然11月21日になった。
とは言っても全く実感が沸かなかった。
自分がイメージする母親との再会は「オバケ」や「サンタクロース」に会うような感覚だった。
理由は単純である。
20年会っていないからだ。
確かにお母さんはいる。
頭では分かっていた。
でも中学あがる頃には実物のお母さんはもう覚えていなかった。
どんな話し方をしていたのか?
どんな仕草、口癖があるのか?
どんな容姿か?
何一つ覚えていない。
母親とはラインやメッセンジャーでやり取りしていたものの、よく分からない中年女性とただただ簡単な英語でやりとりしている感覚だけが
あって、やはりそこには母親の「実感」がなかった。
そんなこともあって意外にも出国直前まで心境の変化などはあまり感じなかった。
11月18日、東京に帰る。いつものように地元事業者などへの挨拶回りや知り合いが開催したワークショップに参加したなどで、相変わらず忙しく過ごし、あっという間に11月20日の夜になった。
実家に帰ると父が起きており、「お母さんによろしくと伝えて」と言われた。
「言われなくても分かってるわ」と思ったが、今考えるとあの言葉にどんな意味や想いが乗せられていたのか、ときどき考える。
母親と再会する11月21日
11月21日の朝、成田に向けて出発した。
最寄駅から空港までは特急に乗れば1時間ほどで、あっという間に着く。
しばらく日本食が食べられないことを覚悟し、空港内にある松屋で朝ご飯定食を食べた。
搭乗ゲートに着くとすでに飛行機が横についており、「あの飛行機に5時間乗ればマニラに着くのか」と考えると、楽しみでもあり、さすがに少し緊張した。
飛行機に搭乗すると機内はフィリピン人ばかりで、知らない人同士でよく喋るし、些細なことでよく笑っていた。
「そういえばこんな感じだったな」と肌感で少しずつ思い出した。
定刻通り離陸すると暇な機内で渡辺京二の「逝きし世の面影」を読むことにした。
「逝きし世の面影」は幕末江戸に来日した外国人が日本社会や日本人について鮮明に日記に記録したものをまとめた本であり、そこからみる江戸日本は幼少期に経験したフィリピン生活の記憶に似ていた。
横を見るとフィリピン人のおばちゃんが困っていた。
すかさず助けるとお礼としてチョコをもらい、少し会話をした。
気軽にチョコをくれたり、話しかけるフィリピンの国民性が羨ましく感じた。
しばらくすると再び本を読み、時には目を瞑り、時には窓の外を眺めた。
眺めるときにお母さんを頑張って思い出そうとするがやはり「実感」がない。
「きっと空港に着いても感動の再会にはならないかな」
そんなことを思ったりした。
出発してから4時間。
窓の外を眺めるとフィリピンの陸が見えてきた。
下を覗けば白波を立てながら航行する大型船も確認することができる。
10分後、機長から直陸態勢に入るアナウンスが機内に流れた。
緩くなったシートベルトを再び閉めて、本も閉じ、流れる景色のみを見つめた。
高度が下がるにつれて、ジオラマのように小さい建物だけが並んでいる風景から車の移動や工場の煙などの動きがはっきり分かる景色へと変わっていった。
さらに高度を落とす。
着陸まで高度100m、90m、80m、、、
ここまではよかった。
だが着陸直前、すなわち地上から約50mの高さになったとき、とある景色が目に入った。
無造作に並んでいるボロボロの家。
家と家の間にある狭い裏路地。
人が洗濯している様子。
大通りのジプニー(フィリピンのバス)から人が降りる様子。
上空では分からなかったフィリピンの生活の営みがはっきりと目に入ったとき、視界が曇った。
おもわず涙が流れた。
人前で泣きたくない自分は我慢した。全力で。
だけど全く止まらない。
止まってくれない。
苦肉の策として目を閉じてみるが、脳裏には20年前にフィリピンで一緒に過ごした母親との生活が、淡々と鮮明に思い出されていた。
飛行機の着陸直前の独特な揺れや機械音が「母親との20年ぶりの再会」というリアルな実感を私に持たせたことで、涙をより誘った。
仕方ないので目の前にあったサングラスを急いでかけ、誤魔化すことを試みた。
不思議な感覚だった。
頑張っても頑張っても思い出せなかったフィリピンでの生活や母親との記憶が、着陸直前にして突然目の前に登場した。
(見た人にはわかるが、Netflixオリジナルドラマ「First Love-初恋-」のヒロイン八重が事故によって記憶損失した初恋の相手を再び思い出したかのような感覚にそっくりだった。
人間の記憶というものは不思議なものだと書きながら今思う。)
直後に体に衝撃が走り、目を閉じながらも、無事着陸したことがわかった。
飛行機の扉が開くと涙を引っ込め、急いで入国審査場へ向かった。
「早くお母さんに会いたい」
どこか消極的だった気持ちはいつの間にか消え去り、そんな想いが強く芽生えた。
入国審査場で多少のつまずき(フィリピンに入国する際はe-travelの記入・オンライン提出が必要であったが、事前に何もしていなかったのでその場で急いで記入・提出をした。)があったものの、無事に出られた。
目の前の景色には誰かを迎えに来たフィリピン人ばかりがおり、何となく記憶の隅っこにあった母親の顔を思い出しながら、探すのに必死だった。
20年ぶりのお母さんとの再会
1分くらいうろついた。
すると、とあるフィリピン女性が突然目の前に登場した。
白髪は生えており、背丈は小さいものの、肌は綺麗だった。
お母さんだった。
不思議な気持ちで一瞬、母と見つめ合った。
その直後、母は私に駆け寄り顔をくしゃくしゃにしながら私の胸のなかで泣いた。
胸のなかで母の涙を感じた。
一方で私は飛行機の中での大号泣や入国審査場でつまずいたこともあって涙は引いていた。
ただ20年ぶりの再会に喜びと幸せを感じていた。
「この人が僕のお母さんか」
ふとお母さんの横に目を移すと1人の女性が立っていた。
妹のAndy(アンディー、父は異なる)だった。
Andyとは一昨年くらいからインスタで繋がっており、私のアカウントを見つけて連絡してくれたのが私とAndyの始まりだった。
彼女と熱く握手を交わし、早速空港の外に出た。
ところが、、、
しばらくすると母とアンディーから質問攻めされた。英語で。
正直何言っているのかあまり分からなかった。
必死につたない英語や日本語で答える(母は日本語を覚えている)と2人は困惑した表情をした。
しばらく気まずい空気が流れる。
20年ぶりの再会。
感傷に浸りたいのに英語で解答することに必死で全くできない。
めちゃくちゃ焦る。
実は以前から母親とメッセージのやりとりするときに英語通訳機能を使って、メッセージを返していた。
ところが母親からすれば「さすがうちの息子!ひかるは英語を話せる!」と思っていたし、Andyからすれば「私より英語話せんじゃね?!」と思っていたらしい。
だけど空港で再会したひかるは全く英語が話せない。
2人は困惑した。
その後私が宿泊するゲストハウスに一緒に向かいチェックインし、その後ショッピングモールなどを堪能するとあっという間に夜になった。
明日の集合時間を確認すると2人と別れをつげると、早速ゲストハウスのシャワー室に向かった。
下をみると虫が4匹ほどいた。
トイレも一緒にあり、水回りが汚かった。
悶絶しながらもシャワーを浴び、速やかに出た。
セブンで買ってきたフィリピンのビールとチキンを持ってオープンスペースに向かった。
母との残り2日間やっていけるだろうか、、、
そんな不安を抱えて、汗をかき、外の喧騒を聞きながら、ビールを口にした。
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