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第10回・日本製のバイクと人間
初めての海外はベトナムだった。
あの地での経験は、私に多くの変化をもたらした。
まず、『仕事』への考え方は変わった。
『今を生きること』への、根本的な熱量の違いも感じたし、『日本人としての自分』という点でも、どこか違和感を感じ、帰国後は、今この国で過ごす日常への見方も変わったと思う。
人間はこんなにもエネルギッシュにもなれ、時にはこんなにも気楽でいても良いのだと気付かされた。
想像していた限界値のその上を知り、最低基準のハードルは遥かに下がった。
まるで発声できる音域が広がったような、清々しく晴れやかな思いだ。
物の捉え方や感じ方も180度変わった。
例えばベトナムといえば、交通手段としてバイクが多用されているが、通りを走るその台数はとてつもない数だ。
安くないはずなのに、そのほとんどは日本製。
日本への信頼と愛着なのだろうか。
ある資料によれば、ベトナム国内では、4500万台以上のバイクが稼働しているらしい。
人口が約1億人くらいだから、ほぼ半分の方がバイクに乗っている計算だ。
ならば、あの光景も納得である。
そこにはもちろんのこと、車も走っている。
どの通りでも、また何時でも常にエンジン音はするし、それと同じくらいクラクションも鳴る。
よくこんなにもバイクと車でごった返した中を、お互いが事故も起こさずに走れるなと、感心してしまった。
しかも1台のバイクに1人とは限らない。私が見た中では最高で5人、まるであれは曲芸のようだった。
自分に聞こえるだけでも、1秒に10回はクラクションが鳴る。
それが毎秒。
最初こそ衝撃的だったが、不思議とすぐに五月蝿いとは感じなくなった。
心地の悪い音ではないという感覚が、そこにはあったのだ。
走行するバイクのほとんどは日本製。
なので、その音は、日本で聞くそれと何も変わらないはず。
なのに何故こんなにも印象が違うのだろうと、通りを観察しながら考えた。長距離のバスの移動の中でも考えた。
そして気付いたのは、『使い方』だった。
日本ではクラクションを使う時、相手に対して『どいて欲しい』『注意する』場合に多く使われると思う。
そこには『イライラ』の感情が乗ることが多いと思うが、ベトナムは全くニュアンスが違った。
「どけ」ではなく「ここにいるよ」の優しい合図なのだ。
なので、そこに込められる感情は、同じ音でも全然違う物で、心地の悪さを感じなかったのだと思う。
事故を起こさないようにと、同じ結果を求め、同じ物を使っているのに、感情やアプローチの仕方でこんなにも変わるのかと、心の音域の違いを感じ、私は恥ずかしさのあまり日本人としての居場所に違和感を感じた。
それは「ここにいるよ」とクラクションを鳴らせる思いではなかった。