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第5回・ピリピリの中のクルクルとプルプル
長年、私は右利きだと思って生きてきた。
これは利き手の話だ。
文字を書く時も、箸を持つ時も、歯を磨くのも右手でこなしてきた。
朝から晩まで右手がメインをはり、左手はいつも助演役。
左利きに憧れを抱いたこともあるくらい、自分はどっぷりの右利きだと、そう思って生きてきた。
しかし、ある時を境に、その刷り込みは怪しげなものになった。
私は以前、パン職人として働いていた経験がある。
小さいながらも地元では評判のお店で、毎日まだ日が昇る前から、工房で忙しなく動いた。
とにかくパンという物は、食べるとなると、あっという間に無くなってしまうくせに、作るとなると、工程は多く手間と時間が笑えるほどかかる。
そのため、いかに作業効率良く、どれだけひとつの工程を素早くクリア出来るかが重要となるのだが、あのピリピリとした空気は『職人特有のそれ』だけとは言い難いものだった。
今考えると、手間と時間よりも、あの地獄のような空気感の方が笑えてくる。
店主は「個々の連携が重要だ」と、大きな声でまくし立て、毎日のように朝も早よから怒鳴っていた。
個々の連携と聞くと、工房には大勢いるようにも感じるが、当時のスタッフは私だけだったので、たった一人に伝えるために、あれだけ大きな声を出しエネルギーを消費し、血圧を上げていたのかと思うと、ご苦労なことである。
ある工程で『丸め』という作業があるのだが、これはその名の通り、捏ねあがった生地を一定の重さに分割し、それを作業台の上でクルクルと手で回し綺麗に丸めていく工程だ。
技術と感覚の作業なので、これ以上の説明が難しい。基本この『丸め』は、両手にそれぞれ生地を持ち、同時にクルクルすることが多かった。
ある日、その作業を店主と横並びで行っていると「テメェは何なんだ!連携が大切だって言ってるだろうが!」と突然に店主が血圧を上げた。
「お前と並んで仕事をしてると噛み合わないんだよ!やりづらいんだよ!」と言うのだ。
こっちは真面目に寡黙にクルクルしてるつもりなのだが、それではダメなようで、店主は怒りのあまり唇をプルプルさせていた。
話を聞いてみると、自分でも気付いていなかった事実を知ることになる。
どうやら私の動きは、左利きの人の動きと同じらしいのだ。
だから右利きの高血圧店主と動作が噛み合わなかったのだ。
過去に大勢のスタッフと働き、長年の経験があるプルプルが言うのだから間違いない。
今まで助演役だと思っていた左手に、いきなりスポットライトが当てられた。
憧れの左利き。
私は正直嬉しくて、隣で怒りの発酵を続ける男の話など、どうでもよくなっていた。嬉しくてクルクルが余計に楽しくなったが、噛み合わない理由は、それ以外にあると感じていた。