石垣山一夜城と小田原城総構 ♣山と歴史の道♣(0004)
太閤・豊臣秀吉が小田原征伐においてその本拠として、小田原城に対面するように築いた石垣山の山城、そして小田原城を鉄壁のように防御する総構の遺構を歩いてきました。
<趣意>
山林が国土の約7割を占める日本では、山も歴史との関係が深いものがあると思われます。そんな日本の歴史とも関係が深い山を、連なった歴史とともに辿っていきたいと思います。
<概要>
小田原城は戦国北条家の始祖ともいうべき北条早雲(伊勢宗瑞)が入城してから五代100年にわたりその本拠としてきた、戦国時代でも有数の巨大城郭です。
戦国時代末期、秀吉は日本統一の最後の障害ともいえる関東の北条家を攻め滅ぼすために総力戦を始めます。 そのときに秀吉が布陣し小田原征伐の本拠として築いたのが石垣山(当時は笠懸山と呼ばれていたようです)の山頂域に建つ石垣山城です。 別名「一夜城」とも呼ばれています。
小田原城は、戦国時代でも最強とも無敵とも謳われた武田信玄や上杉謙信による小田原城包囲戦にも耐え抜き、「総構」といわれる城郭全体を城壁(土塁など)や堀などで囲み防御する城塞構築(総延長は約9km)をもっていました。 これは戦国時代の日本の城郭でも最大級規模になります。
「石垣山一夜城」(いしがきやまいちやじょう)
場 所/ 神奈川県小田原市
アクセス/ 箱根登山鉄道「入生田」駅
JR東海道本線「早川」駅
「小田原城/総構」(おだわらじょうそうがまえ)
場 所/ 神奈川県小田原市
アクセス/ JR東海道本線「小田原」駅
<登山コース>
石垣山一夜城を登り、そこから出陣する豊臣軍の気持ちで小田原城総構の遺構を回ってみたいと思います。
箱根登山鉄道「入生田」駅から出発です。 駅を出て右手へ線路沿いに歩くと、右手へ高架下をくぐって国道1号線に出ます。
国道をまたがる歩道橋を使って向かい側の「生命の星・地球博物館」まで行き、さらに博物館を右手に道を進みます。 早川の流れを右手に見ながら歩き、その先の早川にかかる太閤橋を渡って道なりに真っ直ぐ進みます。
やがて道路の柵に架かった石垣山一夜城への案内板が出てきますので、その通りに進んでいきます。
基本的には単調なゆるい登り坂が長く続きます。 一部、車道から外れた道もあります。
しばらくすると(おおよそ30分)もすると車道脇の階段(上り)が出てきますので、それを上がっていくと車道からそれた簡易舗装の道となり、徐々に山中という雰囲気が出てきます。
この先もところどころに案内板が掲示されていますので、その指示に従い上がっていきます。 この道の一部は秀吉が一夜城を築いた際にも石を引上げるために使用したようです。 当時のものでしょうか。道端には古い石塔も残っています。
道はふたたび車道と合流し、そのまま直進して上がっていきます。 入生田駅から1時間ほどで石垣山一夜城跡に辿り着きました。
石垣山というだけあり、当時の石垣が要所要所に残されています。 石垣の積み方は「野面積み」という手法になるそうです。
城跡の入口は東曲輪にあたり、そこから一段を上がり二段目が二の丸、さらにもう一段あがると本丸となります。
遺構、とくに石垣がよく残っており、それぞれの曲輪もはっきりと識別できるほどきれいに整備されています。
城跡にはシャガの花の群落があり、このときは一面に花を咲かせていました。
本丸から北東方向に開けた展望台となっています。 小田原の海岸線と相模湾がきれいに見えました。
よく目をこらすと左手の木立の切れ目のところに小田原城の天守閣(模擬)が見えます。
秀吉は石垣山城を築くにあたり、小田原城に籠城する北条勢によく見えるように意図したでしょう。 しかも小田原城の目上に高くそびえて関東ではほとんど目にすることのない石垣作りですから、北条勢への威圧感は相当のインパクトがあったのではないでしょうか。
ふたたび元の城跡入口に戻ります。 ここには城跡と道路を挟んで向かい側に観光用のショップがあります。 有名なパティスリーである「ヨロイズカファーム」のお店であり、買い物だけでなくカフェも併設されています。 また移設された石垣の石材も設置されており、加工の跡がよく確認できます。
石垣山城をあとにして早川駅方面へ下りていきます。 この先はずっと下りの舗装道路です。 基本的に路側帯以外に歩道はないので車両の通行に要注意です。
しかし、相模湾を見下ろしながらの道なので気分がとてもいい。 30分も下ると、海蔵寺の入口に着きます。 石垣山城はここまでです。
ここから先は後半の小田原城総構の遺構を目指します。
早川駅の方へ向かうと東海道本線の線路がでてきますので、それに沿うように左側へ曲がり北東へ小田原駅へ向かって進みます(右側へ進むと早川駅)。
早川を渡り、しばらくすると国道1号線との交差点(早川口)に出ます。 交差点の右手に消防署があります。 交差点を越して左手にある線路の高架下をくぐると、いよいよ総構が現れてきます。
右手に寺院のある坂道をぐんぐんと上がっていきます。 右側の高台は土塁の遺構と思われます。 左手にこの高台の下をトンネルで抜ける東海道新幹線の線路が見下ろせます。
登り坂の途中で左手(西側)の見晴しのよい場所を見つけて石垣山の方を顔を向けてみます。 遠くの山影の手前に見える緑の森の丘陵が石垣山になります。 小田原城は写真撮影の立ち位置の背後になります。
石垣山城は天守閣も建てられたそうですから、その姿がよく分かったのではないでしょうか。
さらに高台を上がっていきます。
やがて本格的な遺構のひとつ「三の丸外郭」となります。 現在ではきれいに整備された公園の広場のようになっていますが、堀跡がはっきりと確認できます。 また見晴しもよく、南側に相模湾が西側も石垣山がよく分かります。
小田原城総構の遺構のいくつかにはARポイントが設けられています。 当時の復元イメージなどを視聴することができます。
三の丸外郭を出てさらに上がっていくと、次に「小峯御鐘ノ台大堀切」にやってきます。 総構の防御施設としての当時の姿がもっとも大規模に残っている場所のひとつではないでしょうか。
堀の中つまり底を歩いて進んでいくことができます。 写真で見ると傾斜も高さもゆるそうに見えますが、高さでいいますと高低差は4,5mほどありそうです。
実際に甲冑を着た武者たちがここを駆け上がるのはなかなか難しそうです。
いったん堀を出てさらに堀の外側に沿って総構をぐるりと回り込んでいきます。 このあたりで堀は右手(東側)へ曲がっていきます。
この先の道は畑の間の農道のようなちょっと農村のような雰囲気になります(堀の外側は普通の住宅街ですが)。 写真の左手が堀であり、右手が城の内部になります。
道を進むと、ところどころで堀を垣間見える場所があります。 「山ノ神堀切」を過ぎると、そこはだいたい総構の北東の端あたりになります。 ここにある駐車場から南側の展望が開けています。
小田原城の天守閣もはっきりとよく分かります。
ロケーションからすると、小田原城は南に相模湾に面し、その海岸線の平地に築かれ、北方の丘陵を後背にした天然の障壁となっています。
そのさらに外側をぐるりと半円状にすっぽりと取り囲むように土塁と堀を築いた全長約9kmの総構となっています。
総構北東の突出部である城下張出に行ってみました。 そこは小さな都市公園のようになっていますが立派な城郭遺構です。 ここはいわば見張り台のような場所であり、北側の展望を活かしていたと思われます。 眼下に建つ民家のサイズ感で高低差がよく分かるのではないでしょうか。
ここから一気に坂を下り、小田原駅の方へ向かいます。 途中でこの坂道を自転車で登り切ろうとするチャリダーの姿を見かけました(現代の兵ですねー)
小田原駅の西口に出てきました。 駅前のロータリーには北条早雲公の銅像が立っています。
今回はここがゴールです。
<行程表>
※所要時間は標準的タイムによる目安です(休憩含まず)
「入生田」駅→ 早川石丁場群(45分)→ 石垣山一夜城跡(15分)→ 海蔵寺(35分)→ 国道1号線との交差点(早川口)(20分)→ 三の丸外郭(15分)→ 小峯御鐘ノ台大堀切(5分)→ 稲荷森(10分)→ 山ノ神堀切(5分)→ 城下張出(10分)→ 小田原駅(10分)
歩行時間/ 約2時間50分
※見学時間は含みません。
<登山コースの補足>
石垣山への道に難所や危険個所はありません。 車道歩きの部分があるので通行車両に注意してください。 農作業用の車両も通りますが、石垣山一夜城跡地が公園となりショップに訪れる観光の車もけっこー走っています。
石垣山のトイレは城跡の公園内にあります。
小田原城総構遺構には途中に公園がいくつかあるのでそこにトイレがあります。
総構のトレッキングコースは遺構部分以外は住宅街の一般道路や畑の中の農道のような道になります。
高台に出れば見晴らしの良いスポットがいくつかあり、だいたい相模湾がきれいに見下ろすことができます。
総構遺構の住宅街の道はすこし分かりにくいので、スマホの地図アプリで現在地と観光マップを見比べると分かりやすいかもしれません。
<メインテーマ>
今回、石垣山と小田原城総構の両方を訪れて、どちらもそのスケールの壮大さに感銘を受けました。
石垣山城はいまも残されている石垣にみられるように、丘陵地の頂上域に短期間で築きあげた秀吉の経済・物資・人員の動員力のすごさをあらためて感じました。
どの本でかは忘れてしまいましたが、戦国城郭の東西差として畿内の石垣、関東の土塁がひとつに挙げられるそうです。 とかく石垣の技術力に注目されがちですが、堅固性や防御力の面ではそれほど大きな差があるわけではないようです。
記録によれば80日ほどで完成させたとのことです。 大きな石材ですと2m×1m×1mのサイズもあります。これらを数千?数万?を麓から引上げて積み重ね、あえて石垣の山城を築くためにどれほどの労力と資材と費用が必要だったのでしょうか。 想像もできません。 現代の建築・土木技術をもってもかなりの突貫工事ではないでしょうか。 軍事力だけではない秀吉のもつ総合的なパワーの巨大さが窺い知れます。
北条方としては石垣造りの山城の完成を見せつけられてかなりの精神的ショックを受けたことは否定できないのではないでしょうか。
一方、小田原城総構も、これほどの大規模な防御設備は、大阪城や江戸城に匹敵するものではないかと思われます。
当時の小田原の城下町の規模を考えると、軍事拠点として小田原城を防御するだけでなく城下町全体を囲ってそこに住む人々を守ろうという意図があったのではないでしょうか。
当時は合戦となると、城周辺の民衆たちのカネ、作物や財物だけでなく人さえも略奪の対象となっていたようですから、城下の領民たちの避難施設という用途もあったと思われます。 同じような構造は北条方の別の城郭にもみられるようです。
総構の総延長は約9km。 ヒジョーに大雑把な計算ですが、陸上部分の総構が半円だとすると、面積は約30㎞平米。 東京23区でいいますと、品川区まるごとひとつよりも大きな広さです。
これだけ大規模な防御施設を築いたとしても、そこに防衛のための人員を配置して効果的に運用するには膨大な兵力が必要ですし、当然それを維持するための食糧等も必要になります。
北条方が小田原城に籠城したのはけして勝算のない作戦ではなかったでしょう。 過去には武田信玄や上杉謙信に包囲されても籠城戦で耐え抜いた実績があったわけですから。 なんらかの目論見があってのこととも考えられます。
秀吉は当初から小田原攻略のための本陣として何らかの城塞を構築する予定はあったと思われます。
しかし、小田原城総構の様子を見て、小田原城を力攻めするには時間的にも兵力的にもかなり手こずるであろうと思い、敵方に見せつけるための見栄えのする城を築こうと考え直したのかもしれません。 その象徴が西国的な石垣だったのではないでしょうか。
<付近の山>
塔ノ峰
曽我梅林
<周辺のスポット>
小田原城
長興山のしだれ桜(春日局の墓地)
石橋山古戦場
<お食事処>
小田原おでん本店
田むら銀かつ亭 HaRuNe小田原店
石垣山城の公園にカフェがあります。
<入浴施設>
小田原お堀端 万葉の湯
<名産品>
かまぼこなどの練り物
梅干し
魚の干物
<私的な雑感>
あらためての感想ですが、石垣山城と小田原城総構どちらもそのスケール感に嘆息させられるなーという実直な思いです。
小田原の城下に20万ともいわれる秀吉方の大軍がぐるりと全面包囲し、海上にも水軍を配置していました。 ちなみに現在の小田原市全体の人口は約19万人。
その光景を想像すると、戦国時代最大の合戦であったともいえるのではないでしょうか。 実際には大規模な戦闘が小田原の地でなかったとしても(関ケ原の戦いは西軍10万人、東軍7万人ともいわれています)。
総構の跡は、東から回っても西から回っても、なかなか運動となる登りがあり、また北東に箱根、東南に相模湾の見晴らしがいいです。 畑の中のノンビリとした里山の雰囲気もあれば、堀切の底を歩く森の静けさもあります。 下りてくればすぐにカフェなどのお店もあり、歩き終えた後はゆっくりとお茶をして過ごすこともできます。
週末のお散歩コースにぴったりなのではないでしょうか。
戦国北条氏は小田原に本拠を構え、五代およそ100年の間、この地に累々と歴史を積み重ねて関東に一大支配権を築き上げました。 それはいわば関東独立国ともいえるようなものであったかもしれません。
北条氏としては、秀吉の日本統一支配に対して、大きな既得権と歴史を手放すようなことを易々と応じることができなかったのでしょう。
結局、北条氏は秀吉に降伏し、その軍門に下りました。
小田原は、戦国時代が終焉し近世が始まった記念の地、といえるのかもしれません。
小田原城総構の堀切や土塁の遺構を歩きながら、「つわものどもが夢の跡」という言葉を思い返しました。
<山旅のお土産>
●炙り金目鯛と小鯵押寿司
私は旅のお土産に駅弁を買っていくことがあります。
全国各地のご当地銘菓といえども、いまやインターネット通販で手軽に購入できるようにもなったので、以前ほど各地の独自の名産品の希少性がそがれた気もします。
一方で駅弁は日持ちしないので、やはり地元でないとなかなか入手することが難しいです(東京駅で販売してたり、アンテナショップでも販売はありますが…)。
そんなわけで、今回は小田原の「鯵の押し寿司」を購入しました。 ちょっと奮発して金目鯛入りです。
小田原は鯵の名産地だそうです。 アジは本来は回遊魚だそうですが、小田原のアジは餌が豊富な小田原の磯場に住み着き、「根付きアジ」と呼ばれているそうです。
アジフライを食べたことがありますが、小ぶりなわりに肉厚でふっくらと柔らかだった印象です。
お弁当としてすこし強めに効いた酢と鯵・金目鯛の魚の旨味のコンビネーションに手が止まりません。
青菜と紫蘇で巻いた俵のお寿司もちょっとした口直しに嬉しいです。
でもお値段はすこしお高め…。
リンク先: 東華軒
<備考>
小田原城 (※公式サイト)
総構 (Wikipedia)
石垣山城 (Wikipedia)
小田原征伐 (Wikipedia)
小田原北条氏 (Wikipedia)
<参考リンク>
石垣山一夜城 (小田原市) ※パンフレットあり
石垣山一夜城歴史公園 (小田原市観光協会)
小田原城総構 (小田原市) ※パンフレットあり
小田原城総構 (小田原市観光協会)
<関連記事>
石垣山一夜城や小田原城総構周辺に関する上町嵩広による記事のリストです。※一部、外部サイト配信記事も含まれます。
<バックナンバー>
バックナンバーはnote内マガジン「山と歴史の道」にまとめています。
0001 顔振峠と義経伝説
0002 柳生街道
0003 京都・愛宕山と明智越え
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(10) 今般の新型感染症の影響で各種施設等の利用については制限などが行われている可能性があります。ご利用の際には詳細について事前に各種施設等へご確認などをお願いいたします。
(2022/04/27 上町嵩広)