進撃の巨人、生の肯定。のんびり見聞録 - 5
アニメ版の『進撃の巨人』を最終話まで観ました。様々な受け取り方はあるとは思いますが、わたしはこの作品を通して、「生」を全力で肯定されたような気持ちになりました。特に記憶に残ったシーンをメモしておきたいです。
―・―・―・―・―【ネタバレ注意】―・―・―・―・―
アルミンとジークとの対話
過去も現在も未来も、何の境もない場、「道」で、アルミンがジークと出会います。瀕死のはずのアルミンは、残酷な現実界へ戻り仲間とともに戦うことを望みますが、ジークは無気力に砂の城を作っています。
ジークは「生命が物質と異なる点は、増えることである」と、生殖こそが生きとし生けるものの特徴だと言います。この世界は物質から生まれ、その後、生命が誕生した。その生命が繁栄したのは、生殖を通して増えるという特性を持っていたから、というのは説得力があるし、事実なのだと思います。でも、事実は、意義ではありません。
アルミンはジークの言葉にショックを受けつつ、ここに解釈を加えます。子ども時代に愛する友人たちと、秋の温く優しい風を受けてかけっこをした思い出を語り、「そのとき、このために生まれてきた気がした」と少しずつ言葉を紡いでいきます。
アルミンは二十数年の人生の中で、何度もそのような瞬間があったのだというのです。アルミンの手には、子ども時代に見た秋の日の落ち葉があります。それを聞くジークは、アルミンの手に落ち葉ではなく、野球ボールを見ます。このボールは彼にとって、信頼し愛していたクサヴァーという男性としたキャッチボールを想起させるものでした。
友だちと走ることにも、何度もボールが行ったり来たりするキャッチボールをすることにも、生命を増殖させる機能はありません。生きとし生けるものの「目的」が増えることならば、こういった行動に「意味」だとか「意義」だとかはありません。
しかし、アルミンが「このために生まれてきた」と感じたことも、ジークがクサヴァーとのボールのやり取りの時間を好きだと感じたことも、紛れもない事実です。さらに、そこに解釈を加え、「意義」を与えることができることこそが、他の生命とは異なる人間の特徴ではないかと思いました。
同様に、「生きとし生けるものは、増えるものである」ということが事実だとして、それを解釈し意義を与えることが、わたしたちに与えられた力なのです。
木を植える
ほんの一瞬ですが、すべてが終わった(かのように見えた)とき、復興に向けて生きる人々の姿が映し出されました。そのひとつに、他者を攻撃することで仲間を守るように教育されていた子ども2人(が、ともに木を植えている場面がありました。
高校生のとき、音楽を専門的に学べる高校に通っていたわたしは、有難いことに様々な音楽に触れる機会に恵まれました。その中でも特に印象に残っていたのが、『木を植える』という合唱曲です。
作詞は谷川俊太郎さん、作曲は木下牧子さんです。
この歌は各連が「木を植える、それは……」と始まります。
当時は高校生で、他の子より子どもっぽかったわたしは、たぶん何も考えていなかったし、せいぜい「植樹の歌かな」「環境保護って大切だな」くらいにしか思っていなかったと思います。それはそれで、高校生の幼いわたしなりの感じ方なので、悪いというわけではないと思います。
でも、四半世紀とちょっとですが、あの頃よりはもう少し長い年月を生きて、これまでそれなりに辛い思いもして、それなりに生きていてよかったと思いもして、塵のようにまばらだった経験が少し積もってきたように思える今、「木を植えること」に意義を見出すようになりました。
つぐなうこと、夢を見ること、祈ること、歌うこと、耳を澄ますこと、そして知恵、力。
木を植えること、生きとし生けるものをむすぶことが、すごく尊く、愛おしく思えます。
生きとし生けるものをつなぐのは、木を植えたり、子どもを育てたりすることだけではありません。人間や動物や植物、さらに言えばこの世界そのものとつながって、自分の生や他の生きものの生を肯定し、この命を生きること自体が、生きとし生けるものをむすぶことだと思うのです。
生きることの意義
わたしは「こんなことを学んだって、こんな大変な思いをして論文を書いたって、意味なんてないんだ」と思うことがよくあります。毎日似たような食事を作って代わり映えしない生活をして、その傍らでは戦争や嫌な事件のニュースが飛び交っていて「どうして人は同じことを繰り返すんだろう」と無気力になることもあります。
一方で、美しい音楽を聴いたときや、素晴らしい景色を見たときに「世界にはこんなに美しいものがあるんだ」「生きていてよかった」と思うし、学べば学ぶほど、無知な自分に打ちひしがれながらも「世界はこんなに複雑だったのか」「もっと生きて、もっと知りたい」とも思います。
学問に触れていると、様々な事実に遭遇します。大学では、その事実をどのように解釈するか、世界に溢れる事実をいかに多くの角度から見られるようになるか、その訓練をしているのだと感じます。この活動は、生きることに意義を見出し、生きることを肯定する力を与えるのだろうと思います。そんなことを感じていたとき『進撃の巨人』を見たことで、改めて生きることについて考えるきっかけになったのでした。
わたしが毎日お米を炊くことも、シャワーを浴びて気持ちがいいと思うことも、夫と喧嘩したり笑いあったりすることも、日本にいる大好きな友だちは元気だろうかと思いを馳せることも、わたしを心配してくれる家族の健康と幸せを願うことも、あるいはこうやって誰が読んでくれるか分からない文章を綴ることも、『進撃の巨人』をお茶をすすり大泣きしながら見ることも、すべて、本当にすべて、わたしが生きてするひとつひとつの行動に意義があるのだと思います。もっと正確にいえば、少なくともわたしはここに意義を見出すのです。
生の肯定は、死の肯定
生きることは、死ぬことでもあります。
過去も現在も未来もない、つまり死のない「道」で砂を捏ねくりまわして永遠の時間を過ごしていたジークは、生も失っていました。アルミンとの対話を通して、生きた記憶に辿り着き、「もう一度、生まれてもいいかも」と自分の生を肯定し、目的はなんであれ自分を誕生させた父親とのつながりを認めたとき、死ぬことも受け入れます。
死の直前に、空がきれいで、風が心地よいことに気がつき、そして自分が否定した他者の命に思いを巡らせたジークは、彼なりに生きることを全うしたのだと思います。
アルミンのように常に夢を見ることができる人がいる一方で、ジークのように無気力になってしまう人も多い残酷な世界で、それでも生きること。木を植えて、生きとし生けるものをむすび続けること。そのことに意義を与えられるのは自分自身だけです。時には疑心暗鬼にもなるかもしれませんが、わたしは今日も明日も、生きることないしは死ぬことを受け入れて、生を営んでいくのだと思います。
おまけ
タイトル写真は「ibaraki_nakai」さんのものです。新たな命って美しいですよね。でもわたしは、人生を生き抜いた存在も愛おしく感じます。人生の最後にあたる時期を静かに過ごすわたしの祖父母もそうですし、毎秋あっという間に黄色くなっていつの間にか散ってしまう窓から見える木の葉も、少し悲しいけれど美しいと感じます。
自分が子どもを持つことになるかどうか、まだ分かりませんが、そうでなくても、大好きな犬と暮らしたり、植物を育てたり、親戚の子を可愛がったりして、新たな命や眠る命を感じながら生きていけたらいいなと思います。もちろん、わたしもそういう存在のひとつなのだということを忘れずに……。