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楽器店、高橋の家、文具店

 パスタ屋の店長になってじきに、会社からパート・アルバイトのスタッフにも寸志を出すことになった。覚えている限り、そういうのは一度きりだったようだから、その年はよほど儲かったのだろう。
 給料と一緒に振り込まれるのだけれど、前月シフトに入っていなかった者には振込が出来ないと云うので、どうしたらいいですかとマネージャーに訊いた。
 するとマネージャーは「また戻って来る子だったら、店舗の小口現金から直に渡せ」と云う。
 入ってなかった者は二人いて、一人は馬太郎である。馬太郎は無断欠勤で音信不通になっている者だから放って置けばいいが、もう一人の高橋はたまたま長期休みに入っているので、再来月には戻って来る。
 それで高橋の分は、直接家まで持って行くことにした。

「もしもし?」
「はい、高橋でございます」
 電話に出たのはお母さんだった。本人は不在だと云う。
「バイトの皆さんに会社から寸志が出てます。高橋さんの分は振込ができないんで、今日の夕方にお持ちしても大丈夫ですか?」
「まぁ! ありがとうございます。何時ぐらいでしょう?」
「六時前には伺えます」

 履歴書で高橋の住所を調べ、まだカーナビが普及する以前だったので、地図でおおよその位置の当たりを付けた。
 途中に楽器店があるのを見付け、ちょうどギター弦の予備がなくなっていたから寄って買った。二階でピアノ教室をやっているような店で、エレキギターはなかったけれど、弦とピックは売っていたのである。
 支払いながら、「ここに楽器店があるなんて知らなかったよ」と言ったら、店員の若い男は「はぁ」と言った。もうちょっと気の利いた返しがあっても良さそうだけれど、店にしてみれば隠れているわけでもないのに「知らなかった」と云われたって困るのに違いない。見たところあんまりやる気の無さそうな学生バイトのようだから、そのぐらいのところだろう。

 高橋の家は随分立派だったからすぐにわかった。
 やっぱり本人は不在で、封筒に入れた金を玄関前でお母さんに渡しておいた。
「まぁ、わざわざありがとうございます」
「ここに判子ください」
 高橋の家を出た後、何となく近くの文房具屋に入って、裏面が紫色のクリアフォルダーを一枚買った。
 このクリアフォルダーはそれからずっと使ったけれど、いつの間にかどこかへ失くした。

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百裕(ひゃく・ひろし)
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