電車にまつわるお礼の話
仕事帰りに電車で、随分きれいなお母さんが幼い男の子を連れて座っているのに出くわした。
その人は青いノースリーブのワンピースを着ていた。昼間は割と暖かいけれど、朝夕はもうその格好だと寒そうだ。子供の方も服装に何だか違和感があったから、恐らく異国の人らしく思われた。
母子は次の駅で下りた。下りる際、母親は子供の手を引きながら、近くに立っていた丸眼鏡のビジネスマンへお辞儀をした。男はスマホから少し目を挙げて目礼を返した。
知り合いにしてはどうもあっさりしすぎているようだ。きっと彼が席を譲ったのだろうと思った。
席が空いても男は座らず、結局そこへは女子高生が座った。
自分の地元には駅がなく、電車に乗る時は隣町の駅までバスで行った。その駅は今は何だか立派になったけれど、自分が高校生だった頃までは平屋の駅舎で、真ん前に駐輪場があった。
ある時、バス停から細い田舎道をてくてく歩いて駅に着くと、駐輪場で困っている母親に出くわした。傍らには幼い子供が立っている。どうも子供が倒したバイクを立てようとして、四苦八苦しているらしい。
「ちょっとぉ、ユウ君、どうするのこれ? 立てられないよ!」
ユウ君は黙ってポカンと見つめている。
そんなに大きなバイクではないけれど、スタンドの構造がわからないから、立て方もわからないのだろう。
自分もバイクのことは知らない。知らないものには近寄らないがいい。まして、知らずに困っているところへやっぱり知らない者が首を突っ込んだって、知らずに困る者が二人に増えるばかりだ。
黙って行き過ぎるつもりでいたら、母親と目が合った。
「あの、すみません。これどうやって立てるかわかりますか?」
声まで掛けられては、黙って通り過ぎるわけにもいかない。自分の目論見はまんまと破られた。
「……ん、どうなってますか?」
仕方がないから自分はバイクのハンドルを受け取った。正直に云うと、女性に頼られてちょっと嬉しい気持もあるにはあったようである。
それで試みたけれど、どうも上手くいかない。
「駄目ですねぇ」と言ったら、先方は何だかがっかりしたようだった。
「駄目ですか」
「うん、駄目なんで、こうしときましょう」
自分はバイクを駐輪場の看板に立て掛けて終わりにした。
「ありがとうございました」
随分頭を下げられたけれど、全体これは礼を云われるようなことだろうかと、何だか落ち着かない気持がした。