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母と長男と長女。

今は、実家からの帰り道。
阪急電車に揺られてガタンゴトン

わたしが生まれ育った街、池田市。

17歳で家を出て一人暮らしを始め
音楽の専門学校に通いながら、難波に住んでた。

21.22歳くらいに数年間
実家に戻ったことはあったんだけど
そのあとは2012年くらいから
蒲生四丁目に住み出していました。

やっぱり大人になってからは
年に1.2回くらいしか帰れてなかったし
もちろん地元に帰ると母が迎えてくれた。

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母のいない家。
誰もいないガラーンとした家。

こんな形で、池田に帰ることになるとは
今年の初めでさえ思っていなかったな

先月、今月と病院や実家、市役所などの
往復が増えていますが
認知症の発覚、入院後の報告以降は
できるだけ悲しい発信は控えていました。

最近どう?大丈夫?
おさやが潰れないでね。
と声をかけてくれて気にかけてくれて
心配してくれる周りのみんなに感謝。

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昨日は緑地公園駅から
バスに乗って緑や池に癒されながら
マクドナルドのキャラメルラテを飲み
おかーさんの病院に向かい歩く。

この一歩がなんだかとても重くて
息苦しく感じる、やっぱり毎日不安だ。

7/19に入院して以来
一ヶ月の間にも色んな変化があった。

母は認知症治療のため
豊中市にある精神病棟で
入院治療を行なっています。

初めての発覚と治療なので
医師による診断だったりがあると
きっと少しでも原因がわかったり良くなると
思っていた、いや信じたかった。

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昨日の担当医との家族面談で
沢山の状況の変化を知りました

入院後、楽しく元気だった反面で
攻撃性も現れていて(認知症で多く見られる症状)
怒りをおちつかせる薬をつかったところ
副作用で身体が右に傾くようになったらしい

薬の投与をやめたものの
数日後にカラダノ傾きにより転倒
頭を打ち血が出て圧迫止血で一命を取り留め
その後今週もまた一昨日に転倒して
またもや後頭部を強打、たんこぶが出来
どちらもCTなどでは問題はなかったものの

二回目に足の付け根を軽く骨折したそうで
診察のために他の整形外科などに
一時転院をしなければならないそう。

そして二週間前くらいから
常食からおかゆ、今はゼリーなどの補食になり
昨日から誤飲性肺炎の症状もあり
抗生剤の点滴と
水分と栄養を24時間いれないといけないので
今の母の状態(足の骨折の安静、認知による徘徊)で
身体拘束せざるを得ないとのことになった。

病院で治療したかったのに悪化して
入院前よりひどくなり施設にも入れないほど
母は弱っていると知った。ショックだった。

病院が悪いわけじゃないと思うし
認知症の治療は正解不正解のない長い戦い
その事実を目の当たりにした。

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実家でみつけた何枚かの写真。
若い時の母がいた、昭和だなー🤣

まだ69歳なのに、どうして
人生ってほんとに儚いものだなぁ

最初の頃みたいに
看護師さんに娘さんと言われると
「うちのさやかはね〜」と
嬉しそうに話していたそうなのだが
今は名前を出さないそうです

忘れられることは怖い
それでも母が苦しむことなく長生きしてほしい

コロナで直接会うことは出来ず
月に一度のオンライン面会のみ。
悔しい、会いたいなぁ

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この写真は何度か昔にも
みたことのある写真なんだけど

お風呂で楽しそうな、兄と妹。

うちの家庭は
ビデオカメラとかもなかったので
基本的には幼少期の想い出は
少なめの写真のみ。

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おにーちゃんと、ちいさな私。
何歳なんだろうか?

よくおかーさんとは話もするけど
今になって聞きたいことや
話したいこともいっぱいある。

そんなもんなんだろうなぁ..
後悔してから気づくことって多いんだ。

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母と娘。

そういえば、よく
デパートの遊園地コーナー的なところで
よく遊んだような記憶がうっすらある。

とはいえ、わたしの頭には
小学校3年生の転校後からしか
はっきりとした記憶はないので悔しい。

家の中で、
色んな書類の整理をしながら
こんな想い出を懐かしみながら
どうしようもない気持ちをおさえた。

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病院前に凛とそびえる向日葵たち🌻

元気をくれるかのように
まだなんとか下を向かずに咲いていた

わたしも前向かなきゃな!
わたしにとってかけがえのない
大切な3人家族、頑張っていこう。



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