
「ことば」は頭で思うだけでも自分を縛り苦しめうる
口は「斧」のような凶器である。
そうブッダは語ってます。
何気ないことばで他人を傷つけてしまった経験は、多くの方があるのではないでしょうか。
自分を苦しめず、また他人を害しないようなことばのみを語れ。これこそ実に善く説かれたことばなのである。
「自分を苦しめず、また他人を害しないようなことば」は、どんなものか。
ブッダは、もう少し掘り下げて、具体的に述べてくれています。
例えば、他人の批判(悪口)、他人を惑わす事(ウソ)、綺麗事、二枚舌。
これらは、他人の感情も害すだけでなく、言った本人も、自らの評判を下げたり報復にあったり、「自分を苦しめ」ることにつながりうるものですよね。
でも、ブッダの説く「ことば」に「気を付けて」という教えは、話す道具としての怖さだけではなく、思考の道具としての怖さについても語っている。
そう感じています。
つまり、自分の頭の中だけで物事を考えるときにおいても「ことば」は自分を苦しめるものになりうると、注意を呼びかけているのでは。
そう考えています。
ブッダが、自らさとった気づきを初めて他人に語った際、
どうやったら「解脱」(= 苦しみから解放された状態)にたどり着けるか?という質問に、下記のように語ってます。
「この世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切った(から解脱できた)」
「名称と形態とに関する妄執を断ち切」ると、苦しまなくなる。と。
これって、どういうことでしょうか。
人は、「ことば」によって名付けることで、何かを認識し、自身の理解を深められる。
たとえば、ただ夕焼けの景色を観て、心地よく感じていたとして、それを「太陽」「雲」「赤」「染まる」「キレイ」などと、景色を分離して、それぞれのモノや動きや状態に"名称"を名づけることで、「ここちよさ」というこころのあり方を、頭でも理解しやすくなる。誰かに伝えやすくもなる。
「ことば」は、とても便利で強力。だから文明をここまで発展させてもきた。
そんな「ことば」は、何かに「名付ける」(名称をつける)ことで、その対象に、それぞれの人にとって意味をもたらしうる。
ただの「ことば」を「ことだま」と名付けることで、人によっては、何やらそこに得体のしれぬ想いのチカラがこもるような感覚をもたらすように。
ゆえに、何かにことばを名付けるだけで、その対象に「自分なりの意味」がつきまとい、自分を縛ることも起こっていく。
たとえば、苦手意識のある人がいたとして、その理由をさがして、「やさしくない」人と名付けたら、その人は「やさしくない」存在として、自身の中に形作られていく。
実際には、その人は、その時たまたまお腹が空いていてイライラしていただけで、根は優しい人だったかもしれない。
でも、「やさしくない人」としての概念が、自身の中で独り歩きしていき、その人との関係構築の可能性を失わせていく。
何かをすることに「無駄」と名付けたら、その対象は「意味がない」存在として、自身の中で独り歩きし、実は自分に価値をもたらす可能性を、自ら閉じてしまう。
これらは、「名称に関する妄執」つまり「偏見へのとらわれ」と呼べるものかもしれません。
「日本人」「インド人」という名称を聞くと、自身の中に勝手にイメージが浮かんでこないでしょうか。
でも、それは1億人だか14億人だかいる、それぞれの「国の人」にあてはまるとは限らない。実際にはいろんな人がいるのだから。
でも「名称」は、その「なまえ」によって自身の頭の中で勝手にイメージを浮かばせ、それが目の前の姿と違っていても、「なまえ」によるイメージを優先させてしまう傾向がある。
それが「インド人といえばこう」という間違った決めつけ(偏見)を起こしていく。
自分では、それが「偏見だ」なんて、これっぽっちも感じられないままに。
なんなら、実際の目の前の対象が違っていても「それはたまたま」など、自身に都合のよい解釈すらもたらし、自身の間違った見立て(偏見)に囚われている事実すら否定する自分が生まれていく。
そういった状態になると、他の人とのコミュニケーションでは摩擦が起きがちですよね。「わからず屋」などとして疎まれたり…。
なのに、その現象すら「周りがわかってない」「自分だけが批判されている」と、ますます「妄想」に囚われ、ますます孤立してしまう…。
これは苦しい…。
これらは、脳の仕組みによるいたずらのようなものが原因なだけかも。
自覚できるわれわれの「意識」は、無自覚な脳のはたらきによって生まれるため、無自覚に生まれるイメージは、その正しさを問うまでもなく「自身がそう感じるのだから、偏見などではない」と感じさせる。
それが脳の仕組みだと自覚し、「自分だけの錯覚かも」と自問できれば、少し「違う見立て」にも気づけて、周囲とも柔軟なやりとりが生まれうるのですが…
現代の脳科学では、その仕組が分かってきていますが、2500年前のブッダは、その事実を直観で感じ取ったのでしょう。
人は「名称」を名付けること(だけ)で、妄想に囚われ執着する、と。
それが、苦しみをもたらす。と。
だから
「名称と形態とに関する妄執を断ち切」ることが、解脱(苦しみからの解放)につながる、と。
ただの「なまえ」は、時に自分の概念を固定化し、自身を縛ることがある。
名付けた「なまえ」による独自のイメージが(無意識に)脳内で固定化されうる。
「嫌い」「間違ってる」と名付けるほどに、その対象がイヤで、全否定の対象に感じさせていくように。
それは、言葉で外に発しなくても、頭の中で、そう思考するだけでも。
じゃあ、どうすれば?
何も考えないのがいい?
いえ、常に「ことば」に「よく気をつける」ことがヒントになると思っています。
もっというと、自分が対象に名付けた「ことば」に、自分のイメージが引きずられていることを自覚し、注意する。
その「ことば」で呼ぶのは、ホントに正しいのか?その「ことば」以外に違う解釈での呼び名はないのか?
「嫌い」と感じさせるけれど「今は相性があうとは感じにくい」とも呼べるのでは?そうしたら、また次回は違った気持ちで接することがあるかも?
などなど。
そんな風に、自身の頭でうかぶ「ことば」に対して、よく気をつけていると、柔軟な解釈が育ち、それは結果、他人も害しにくく、ひいては自分も苦しみにくくなるのでは。
そんなふうに考えております。
今日もお付き合いくださり、有難うございました。
いいなと思ったら応援しよう!
