たくさんのことばは、こころのなかに
きわめてどうでもいい話だが、私はあまり饒舌なほうではない。
それゆえ、いろいろしゃべった数時間後なんかに「あれ言っておけばよかったな…」と後悔する日々を常に送っている。
幼少期にも口げんかをして(大体負ける)、寝る時間なんかになると「そうか、あの時ああいえばこうなったな…」と悔しい思いをしたことは一度や二度ではない。
「氷山の一角」ということばがある。ぴょこっと氷山が海から出ているが、実はその海から出ている部分はほんの一部にすぎず、氷山全体はとんでもない大きさであることを指す言葉である。
私は、ことばの世界とは常に「氷山の一角」なのだろうな、と思っている。
朝井リョウの『何者』という作品に、以下のような一節がある。
ここでいう「選ばれなかった言葉」のように、書き言葉にせよ話し言葉にせよ、言いたいことを表現したとしても、必ず「言わ(言え)なかったこと」「書か(書け)なかったこと」が生じるものだ。その意味では(一角の大きさは問わないが)言葉をあつかうことは「氷山の一角」状態にならざるを得ない。
となると言葉を前にした時には、ほぼ間違いなくそこに書かれなかったこと、そこで話されなかったことが言葉の後ろ側にあると思っておいたほうが良い。誰だって、気を遣って言わなかった言葉があり、好きなあの子に言えなかった言葉があり、ためらって消しゴムで消した言葉があり、思うように筆を運べなかった言葉がある。
表現されたものの何倍もの言葉を、表現者は自らのこころのなかにしまっている。
そうしたものに気づかれなければそのままだが、気づいてくれた人がいるのならそのこころの中にある言葉たちにはじめてスポットライトが当たる。言葉が氷山の一角なのであれば、言葉とはまだ見ぬ氷山そのものを考えるためのヒントを提供してくれているともいえるのだろう。この世界には生まれることのできなかった言葉たちは、表現された言葉を通じてわたしたちを呼んでいるのである。