君たちはどう生きるか(1982)①
著:吉野源三郎
おすすめ度:★★★★★
中学二年生のコペル君とあだ名のついた少年が、様々な経験を通してよりよい生き方を学んでいく物語。
コペル君の経験譚、そして彼のおじさんがその出来事を通して、いずれコペル君に伝えたいことを書き留めたノートの内容、という構成で進んでいく。
追記:
この物語を読んで、そして今この文章を書いていて思うが、この本の構成はすごい。
コペル君のその身に起こることと、叔父さんのノートの内容というのが密接に関係づけられていて、無駄がない。
計算されつくされた関係の在り方が、体験することすべてに意味があるのだという教えにもなっている気がした。
そのため、文章に要約するのにとても苦労を要したし、結果大変長くなってしまった。
この文章をすべて読んでいただける場合、なかなか時間がかかってしまうと思うので、物好きな方は別として、ぜひ実際に本を買って読んでみてほしい。
※この記事は、物語の内容の主要な部分を引用して言及しています。
閲覧の際はご自身の判断でお願いいたします。
1.へんな経験
ビルの屋上から人々の様子を見下ろすコペル君は奇妙な想像にふけることになる。
自動車は甲虫のように。
東京の街は、暗い冬の海に。
ビルは海面から突き出ている岩のように。
その海の下には大地を埋め尽くす数え切れない小さな屋根がある。
その屋根の下にはそれぞれ何人かの人間が生きている。
そして毎日それぞれが潮のように満ちたり引いたりしている。
ふとそのことに気が付いたコペル君は、人間は水の分子のようだ、と例えた。
そこへ、一台の自転車が走っているのを見つける。
その自転車が自動車にひかれそうになる瞬間だった。
見ず知らずの少年を自分が遠くから眺める。
眺められている少年はそれに気づくことはない。
おじさんはそのコペル君の様子を見て、その晩、ノートに天動説と地動説を例に出しながらこんなことを書いた。
人間は自分を中心に物事を見たり考えたりする性質を持っている。
子供のころはどんな人でも、自分たちを中心に考える天動説のような考え方をしている。
大人になれば多かれ少なかれ、地動説のような考え方になってくる。
しかし、特に損得の話になると地動説のように自分の視点を離れて判断できる人というのは非常にまれだし、それができる人は非常に偉い人だ。
地球が宇宙の中心だと思っていたころ、宇宙の本当のことが分からなかったように、自分中心に物事を考えると世の中の真理も知ることができないのだ。
大都市に行ったことがあったり、そこに暮らしている人なら、
一度はコペル君のように無限ループな思考にはまってしまったことがあるのではないだろうか。
私も、大学生のころ東京のホテルに泊まった時、ふと見下ろした大きな道路を思い思いの方向に進んでいく自動車や、駅に吸い込まれ吐き出される人の波を見て圧倒されたものだ。
それと同時に、あのゴマ粒のような人間ひとりひとりに、何十年と過ごした人生の歴史を持っており、今日も明日も続いていくんだと思えば、ぐるぐると目が回って気持ちが悪くなった。
そこで私は水の分子だとか、人は海の潮のようだとか、そんな風には考えを広げることはできなかったけれど、あの時から、別に高いところに上っていなくても、道ですれ違う知らない人にも人生があるんだなとたまに考える。
その思考に何の意味があるのかは分からなかったけれど、この章を読んで、この思考は自分の日常で自分中心で考えてしまうことはないかを俯瞰して捉えられるようになるきっかけになるのではないかと思うようになった。
例えば、スーパーマーケットで泣いている子供とそれをあやす親を見る目のような小さなことだ。
自分中心に考えたとすれば、うるさい・親なんだから早く泣き止ませろ、と思い、顔や態度に不快感を出してしまうかもしれない。
しかし、少し俯瞰して考えてみれば、泣いている子はなぜ泣いているのだろうとか、親もきっと今焦ったり、泣き出したいに違いない、といったような考え方ができる。
それで、あくまでそっとしておこうとか、ケガや病気の場合なら助けようとか、よりよい行動につなげられると思う。
それが何か世の中の役に立っているかというとほとんど何も役に立っていないかもしれないが、後者の方が小さくともお互いの幸せに通じていると私は思う。
2.勇ましき友
この章では、コペル君と仲のいい水谷君と北見君、そしてクラスメイトからよく意地悪をされている豆腐屋の浦川君という人物が登場する。
浦川君の家は貧乏な家で、浦川君は豆腐屋の手伝いをしながら暮らしているのだが、弁当にいつも油揚げが入っていることを理由に、陰でいじめっ子の山口とその取り巻きたちに「アブラゲ」と呼ばれている。
ある日、クラス会が開かれるため、そのプログラム内にある「演説」を誰が担当するのかという話になった。
クラスの中で浦川君にバレないように、山口たちが「アブラゲに演説させろ」という紙を回し始める。
その卑怯さに北見君が憤慨し、山口につかみかかり、殴り合いのけんかになってしまった。
それを見つけたクラスの先生が北見君と山口に理由を聞くが、何も答えない二人。
あとから北見君は自分からいうのは告げ口のようになるのが嫌だから言わなかったとコペル君たちに説明したが、結局、級長の川瀬君が一切を先生に説明したため、山口はこっぴどく叱られたようだった。
その話を聞いて、コペル君は北見君のことがますます好きになり、家に遊びに来ないかと誘った。
叔父さんはコペル君からこの「油揚事件」の話を聞いて、真実の経験について書き残した。
叔父さんはコペル君が、山口の側ではなく、北見君の肩を持ち、浦川君に同情する様子を見て安心した。
そして、すでに亡くなったコペル君のお父さんから、コペル君は「立派な人間になってほしい」と言われており、そのためにノートを書き残していたことを明かした。
ただ、世の中や人の一生にどれだけの価値があるのか、意味があるのかということは、赤はどんな色なのかを実際に見てみなければわからないように、自分で感じ、見つけていかなければならないとした。
私は文章を書こうとするときどうしても大げさに書きたがる感じがあるな、とこの文章を見て反省した。
もっと素直に正直に文章を書こうと今も頑張ってみるのだが、これがなかなか難しい。
見栄を張りたい、恰好をつけたいという意識が無意識に働いてしまう。
文章だけでなく、仕事や家庭の無意識の行動にも同じことが言えないだろうか。
嫌だと思ったことを、我慢して強がっていないか。
本当は良くないと思うのに、周りの顔を見て良しとしていないか。
正直さを貫いて生きることはすごく難しい。
自分で自分に嘘をつく、そんな弱さの連続だ。
でも、やっぱり堂々と自分の思ったことを伝えたり行動できる人になりたい。
そんな気持ちを見つめなおす章だった。
3.ニュートンの林檎と粉ミルク
水谷君と北見君を家に招いたコペル君は、朝から落ち着かなかった。
朝ご飯を食べる間も、何度も時計を見ていた。
待ちかねた二人がやってくると、楽しい時間だった。
トランプや野球盤、将棋などをして遊んだ。
コペル君が実況者になりきって野球のラジオ放送をする遊びは大変盛り上がった。
そのあと、原っぱでキャッチボールをして夕方まで過ごした。
コペル君たち三人が夕飯を食べているとき、叔父さんがふらりとやってきたので話がはずんだが、夜七時には帰ることにした。
二人の家まで送る際、コペル君から、夕飯の時に叔父さんが話しかけたニュートンの林檎の話の続きをしてほしいということで、叔父さんはその話をすることになった。
ニュートンの林檎の話は、万有引力の話で、叔父さんが小学校のころにコペル君のお母さんから教えてもらった話だった。
叔父さんは万有引力それ自体のことに関しては小学校の上級になるころには飲み込んだという。
しかし、林檎が落ちたことから始まって、どうやって万有引力の法則までたどり着けたのか、そこがどうしてもわからなかった。
そして、そのことがようやくわかったのは大学生のころだった。
それは、大学生の叔父さんの理学部の友達が教えてくれたことだった。
そのようにして叔父さんは、ニュートンが地球が月を引っ張る力と月が回る勢いの力が釣り合っていることを見つけたこと、その偉さを説いた。
叔父さんのその話を聞いて、コペル君は叔父さんに手紙を書いた。
コペル君は、「人間分子の関係、網目の法則」を見つけた。
コペル君は赤ん坊のころ、母親の母乳の出が良くなかったため、よく粉ミルクを飲んでいたそうだ。
そのことをふと真夜中に思い出し、ニュートンのように粉ミルクに関係のあることをどこまでもさかのぼって考えたらどうなるか、と思った。
牛や牛の世話をする人、乳を搾る人、工場に運ぶ人、工場で粉ミルクにする人、缶に詰める人……様々な人が長いリレーをして赤ん坊のコペル君のもとに粉ミルクとしてやってきたと気が付いた。
しかし、そのうち直接コペル君が知っているのは粉ミルクを売っていた薬屋の主人だけで、その他は知らないことがコペル君は不思議だった。
粉ミルクだけでなく、電灯や時計や机などもそうだと思った、そのようなことを手紙に記した。
その手紙にこたえるように、叔父さんもノートを書いた。
コペル君が「人間分子の関係、網目の法則」と呼んだものは、経済学や社会学で「生産関係」と呼ばれていることを書いた。
人間は昔からお互いのために協力して働いたり、手分けをして働いたりしながら助け合って地球中に人間関係の網目を作ってきた。
しかし、そのつながりはまだまだ人間らしい関係ではないという。
この章では、最終的に叔父さんがコペル君が考えつくした人間分子の関係の話から、なぜ人間らしい関係が大事というところに着地したのかということを考えた。
一度読んだだけでは正直少し話の内容がずれているように感じたのだが、
読み直してみて、私は叔父さんがコペル君に伝えたかったことが見えてきた。
今の時代(当時は1982年、現在2024年にも強く言える)は網目があるにはあるけれども、それはあるだけで、人間らしさが失われてしまっている。
叔父さんが他にも手紙の中で言及していたが、毎日お金のために裁判が起こされていたり、国と国との間で利害が衝突すれば戦争が行われ、人がどんどん死んでいる。
だから、コペル君が大人になったとしても、今、友達に何かしてあげられればそれで十分、と思えるように、人間らしい関係づくりを忘れないでいてほしい。
そういった関係の積み重ねをすることで、叔父さんはきっと、地球を覆う人間の網目がより人間らしいよい関係の網目になるのだと考えているのではないかと思う。
私はこんな考え方を長い間忘れていたように思った。
というか、大人になるにつれごく自然に、自分のパーソナルな関係以外の人とのつながり(コンビニの店員さんとか、郵便配達の人とか)に無関心になっていた。
自分が無意識につながっている人たちというのは、コペル君のようにどんどんとさかのぼって考えてみると、案外たくさんいることがわかる。
資本主義の現代では、外部とのつながりは言ってしまえば需要と供給、お金が繋ぐ関係でしかないのかもしれない。
でも、今度あのお店に行ったとき、最後に一言心からお礼を言ってみるのもいいのかもしれない。
それ以上の答えは私にはまだ出せないが、そんなことを思った。
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