あなたは声を聴けていますか? ーナラティブと共生ー
みなさん、こんにちは!ねこ沢です 🐱
前回のヒヨラーの記事は読んでくださっているでしょうか?
映画と音楽が大好きなヒヨラーが、福祉について考えるきっかけになるような映画を紹介してくれ ています。
福祉やケアにまつわる作品は、普段当事者と接点が薄い人にとって当事者の生活を理解する助けになると思うので、ぜひヒヨラーのおすすめ作品をチェックしてみてくださいね🐤
もくじ
本の概要紹介
新しく「障がい者」になる人、そうじゃなくなった人
ナラティブの背景にあるもの
私たちは一緒に歩けるだろうか
おわりに
本の概要紹介
さて今回の記事では、私が最近読んだ『わたしの身体はままならない <障害者のリアルに迫るゼミ>特別講義』という本を紹介したいと思います📗
(詳しくは河出書房新社のHPをご覧ください↓)
https://www.kawade.co.jp/sp/isbn/9784309290935/
これまで生活チームはnoteやtwitterを通じて学校や家族、日用品などに関連した「身近な福祉」 を取り上げてきました。
みなさんの中にはこれまでの発信をみてきて、もっと障がいや福祉について知りたいなと思った方がいるかもしれません。
私はこのインターンでの活動を通してそのように感じ、この本を手にとってみました🐈
本書は、さまざまな立場から障がいについて考えた全15編のお話がオムニバス形式で収録されています。
興味のあるところから読み始めることができ、丁寧に書かれていてとても読みやすいと感じました。
障がいの当事者や、その家族や友人、障がい・身体に関する研究者が、自身の抱える特性や制度・医療の歴史、また日々の生活の面白みと難しさについて綴っています。
私はこの本を読んで、「福祉やケアに関するコンテンツを受け止める自分の姿勢や、その後の行動」 について考えました。
そのため、今回の記事では本書のおすすめ箇所以外にもそうした内容にも触れています。
少々長くなりますが、お付き合いください🙇
新しく「障がい者」になる人、そうじゃなくなった人
寄稿文の中で一番心に残った熊谷晋一郎さんの「液状化した世界の歩きかた」をご紹介します。
熊谷さんは生まれた時から脳性まひ※1という障がいを抱えていて、特に「痙直型」と分類される 症状があり、言語障害はあまり重くないものの、常に身体が緊張していて、うまく身体を操るのが 難しく、放っておくとどんどん曲がっていったり、体が緊張してしまうそうです。
※1脳性まひ: 脳性まひとは、出生時に呼吸が止まるなどのアクシデントによる後遺症で、運動機能や、姿勢を維持する脳機能に障害が生じた状態のことです。症状がそれ以上進行することは、 基本的にはありません。原因は様々で、障害の現れ方も人それぞれです。
『わたしの身体はままならない』熊谷晋一郎「液状化した世界の歩きかた」p28
熊谷さんの文章で特に印象的だった二つのお話を取り上げたいと思います。 まず、流動化と障害の関係についてです。
(「液状化した世界の歩きかた」p39~41、以下要約です。)
1980年代以降、障がいに関する考え方の潮流は、障がいの原因を個人に見出す「医学モデル/ 個人モデル」から、原因を環境の側に見出す「社会モデル」に変化していきました。
そうした社会を形成する価値観やシステムの流動化が追い風になった熊谷さんのような障害者もいれば、それによって新たに障害者になった、障害化が起こった人もいました。
とりわけここ半世紀の変化の中で、発達障害や自閉症スペクトラム症の人が少なくとも2〜30倍 に増加しました。
この急増はかつて健常者だった人が新規で障害者に認定されたためだと熊谷さんは指摘しています。
例えば理想的な労働者を考えると、かつては製造業を中心とした仕事で、寡黙でマニュアルに従って一定の作業を繰り返して働く姿が理想とされました。 しかし現在ではそういった人は、こだわりの強いコミュニケーション障害を持つ人と捉えられます。
社会が変わると障害者の定義も変化し、それに伴って障害者とみなされる人の数も増加します。
人には、機械にできない仕事をしてほしいという期待が寄せられ、機械と同じかまたはそれ以下 の仕事の仕方は障害化させられてしまうのです。
<「どうしておばあちゃんは◯◯できないの?」の一歩先で>という記事では、私の価値観が「医学/個人モデル」から「社会モデル」に変化したというお話をしました。
私個人だけでなく、社会にとってもそれはポジティブな変化ではあったと思います。
しかし社会の流動化とともに既存の硬い価値体系・システムがなくなったことで、かえって生きるのが難しくなった人もいるとわかりました。
社会の変化に応じて障がいの定義も変わっていくなら、障がいってなんなんだろうと思います。
『わたしの身体はままならない』では、普段は障がいとは別の枠組みで語られることの多い同性愛者やトランスジェンダーの当事者も含めた「障がい」という括りでご自身の経験を語っています。
確かに、社会構造が生きる上でのバリア(障壁)となっているという観点では、クィアな人々も「障がい」の当事者と言えるでしょう。
実際、これまではトランスジェンダーの当事者は「性同一性障害」と診断されており、社会の認知 や医学的見解が変わったことによって「障がい」だとみなされなくなったという歴史があります。
(詳しくはこちら↓)
https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2019/05/news/news_190526-4/
本書にならい、この記事では、社会と個人との間に存在する「障がい」へのこれまでの見方に疑問を付した上で、「障がい者」を一般に想定されている定義よりも広く捉えて考えていきたいと思います。
特性を補うためのサービスやプロダクトを知っていくうちに、最近私は「障がい」を境界線にして障がい者とそうでない人の生活世界や知識が隔てられていると感じるようになりました。
私たちの間を隔てている「障がい」は社会とともに変化するとても曖昧なものなのに、障がいを持つ人々の生活上の困難や智慧、見えている世界と社会への認識があまりにも共有されていなくて、一部の関心を持っている人だけがそれを共有しているような、そんな感じがします。
みんなが社会の障壁を認識してユニバーサルな環境を作るために、「身近な福祉」に気づいた私 たちには何ができるのかについてものちほど触れたいと思います!🐱
ナラティブの背景にあるもの
次に心に残った「スティグマ」と「ナラティブ」にまつわるお話をご紹介します。
(「液状化した世界の歩きかた」p43~52、以下要約です。)
スティグマとは、物理的な烙印だけでなく、特定の属性を持つ人にネガティブなレッテルを貼る 社会文化的現象を指します。
スティグマが貼られるのは健常者、障害者、依存症者...などの属性です。
人間は成長段階で人をカテゴライズすることを学習し、その段階でスティグマに汚染されます。
内心の認識的なバイアスや価値観が「差別」として行動に移されると、スティグマは他の人にどん どん広がっていくことになります。
スティグマは3種類に分類されます。
1公的スティグマ:非当事者が当事者に対して抱くもの 2自己スティグマ:当事者が当事者に抱くもの(例えば障害者が障害者に対して抱く)
→自己嫌悪したり自分は支援につながる価値がないと思ったりする
3構造的スティグマ:法律や禁煙を呼びかけるポスターなど、環境のなかに宿るもの
この3つが結びついてスティグマは存続、拡大していきます。
自分の経験を語ることである「ナラティブ」は、スティグマを減らすのに有効な手段です。
スティグマを貼られがちな社会規範から逸脱した行動をとる人は、他の人から見ると「困った人だ」と思われることが多いですが、実際には「困った人」ではなく、その人自身が葛藤や苦しみを 抱えているのにうまく表現できない「困っている人」なのです。
ナラティブもまた、3つに分類できます。
1正直なナラティブ:素直に自分の経験を語る
2教育的ナラティブ:あなたがたが知らない当事者のことを教えてあげますというふうに語る
3異議申し立てナラティブ:あなたたちは間違っている、反省すべきと異議を申し立てる
この中で非当事者から当事者に抱く「公的スティグマ」を減らすのに最も効果があったのは、「正直なナラティブ」だったそうです。
この文章を初めて読んだとき、私はとても苦しい気持ちになりました。
私の経験と障がいの当事者の智慧や経験とは決して同じではないのですが、私自身もまた別の属性の当事者として何度か「語る」機会があったことを思い出したからです。
そういった場面で私はこれまで、教育的ナラティブや異議申し立てナラティブを使ってきました。
それは、素直な気持ちを聞いてもらえない機会が多く、正直に自分の経験を語ることが怖くなって しまったためでした。
社会のさまざまなバリアの存在が一般に浸透していないと、当事者は自分の経験をうまく理解してもらえなかったり時には軽視される場合があります。
熊谷さんの文章に話を戻しましょう。
私たちがときおり目にし、耳にするナラティブには、以下のような背景があると思います。
・社会のさまざまなバリアにぶつかってなんとか生き延びる
・もやもやして理解し難いものにたくさんの時間とお金と労力を費やしながら向き合って理解する
・セルフケア、支援にアクセスすることを覚える
・他の人にも伝わるように、自分が過度に傷つかないように語るシュミレーションをする
・実際に語る(語った結果に返ってきた反応にはその都度ケア、対処する必要がある)
・場の雰囲気や心情、経験値によるため経験全てを言語化、具体化できているとは限らない
以上の点から、どの種類のナラティブでも、そもそも語りまで辿り着くのさえ難しいだろうと思いま す。
私は熊谷さんの文章を読んで、「障がい」のある人がその経験を表現している文章や映像作品の背景、そしてそれを受け止める自分の姿勢について考えはじめました。
私たちは一緒に歩けるだろうか
熊谷さんのお話に気づきを得て、しばらくゼロカラの活動中にさまざまな障がいに関する記事や動画に触れるうちに、私は次第にもやもやとした疑問を抱くようになりました。
「私はこれまでの活動でいくつかのコンテンツに触れて障がいについて少しは理解したように感じていたけれど、それは勘違いじゃないのかな」と。
また、「さまざまな特性を持つ人々の発信を見て特性や社会の障壁について学んだとして、私は ただ学んで終わりにしていいのかな」と。
私たちがネットで気軽に見ることができるナラティブの向こう側には、発信者の痛みやこれからの社会への思い、語りきれない生が存在しているのだと思います。
それを受け止める私たちの姿勢は、その後の行動はどうあれば良いのでしょう。
教科書のように当事者から学ぶのではなく、同じ世界に生きる人として私たちが一緒に歩いてい くにはどうしたらいいのでしょうか。
私もまだもやもやしているので、この本やtwitterでシェアしているさまざまなコンテンツを通じて、 皆さんと考えていきたいと思っています。
障がいやケアをテーマにした映画や本は、当事者に関わりの薄い人が、自分ごととして福祉を捉えたり、当事者から見えている世界を少しでも覗いたりするのにとても役立ちます。
そうした作品に触れて、私は「なるほど、こんなふうに世界が見えていたんだ。
こんなこともあるんだ」と新たに気づかされることがたくさんありました。
しかし受け止める上で大切なのは、そのコンテンツに触れて分かった気にならないこと、丁寧に作られた作品でも当事者の心情や生活上の困難の全てを描くことは難しいと知っていることだと 思います。
語りの裏には心情や社会規範からあまり表立っては話せないことが隠れていたり、うまく表現で きないこと、まだ話したくないこと、制作の都合上カットされた部分などが息づいています。
そのため、作品から気づきを得るとついそちらに目がいくのですが、当事者のナラティブで語られたもの、語られなかったもの、そして語り方についても考えながら、非当事者として受け止め、学ばせてもらうことができればいいなと思っています。
非当事者は「障がい」の経験(「障がい」の経験は多様で一概には言えません)をその身体で感じて理解することは難しいのですが、少しでも当事者の世界に接近するために、慎重さと思慮深さをもって多くのナラティブに触れることを心がけたいです。
また以前の私は、コンテンツに触れ、新しい「発見」をしたり心動かされたりして満足してしまいがちでした。
そのコンテンツに触れた直後は、はっとした気持ちや何かしなきゃという思いがあっても、どうすればいいのかわからなかったのです。
この「どうすればいいかわからない」は今の私なら、「どういう行動に移せば当事者や社会のバリアにアプローチできるのか」という疑問だとわかるのですが、別の課題の当事者として社会運動に関心を持つ前は、自分の気持ちや疑問、取れる選択肢への解像度が低く、わからないことがわからない状態でした。
ナラティブの背景には、当事者のこれからの社会への思いがあります。
そのため、今の私は学んで終わりにするのではなく、そこから一歩踏み出して行動するようにし ています。
正しく知って、連帯や支持のための行動を起こすことこそが「一緒に歩く」ということだと考えているからです。
例えば、以下のことができると思います。
・当事者についてもっと調べてみる
・当事者に関して、非当事者はどんなふうに接したり、話題にしているのか気にして(当事者が何 を望んでいるかも併せてチェック)
・周囲の人に「こういう映画観たんだよ〜」などとコンテンツを共有する
・プレゼンやレポートで「障がい」について取り上げてみる
・学校や職場、家、街中等でどんな工夫や取り組みがあるのか、不足しているところはないのかチェックしてみる
・社会のバリアに関してどんな政策がとられているのか注意してみる
・福祉、介護職やNPOの仕事について調べてみる
中にはちょっと勇気が必要なものもありますが、社会の問題に気づいている人から始めていって、みんながもっと、もっと暮らしやすい社会をみんなの手でつくっていけたらいいなと思います。
→ねこ沢'sメモ🐈 :「37セカンズ」という脳性まひを抱えた女性漫画家の奮闘を描いた映画があります。
(公式サイトはこちら↓)
http://37seconds.jp/
公式サイトによると、健常者が障がい者役を演じることに疑問を抱いた監督は、障がいの当事者 を主役に起用したそうです。
特定のアイデンティティを持つ役に、当事者が起用される例が近年みられるようになりました。
こうした取り組みには、当事者への誤った認識が広まるのを防いだり、当事者の仕事の可能性を広げたりする意味があるそうです! 🎞
ある属性を持つ人が取り上げられているとき、それを表現している人や語っている人はどんな人 なのかという点も注目していきたいですね。
私がこの作品を観たのは一年ほど前ですが、障がいを持つ子供を心配して身の回りのケアを 日常的に担ってくれる母との親子関係と、付かず離れずの距離で困った時に手を貸してくれるケアラーとの繋がりが印象に残っており、今でも時折思い出します。 関心があればぜひこの作品も観てみてくださいね😺
おわりに
私は最近、手話を学んでみようと思っています。
これまで私が使ってこなかった言葉で、知らなかった世界を見てみたいからです。
そこには「発見」と驚き、わくわく、感銘があると思います。
そして無知や怠惰への反省とこれまでのスティグマを学び落とす痛みがあると思います。
私はこれまで狭義の意味での障がいのことをよく知らなかったため、まだまだたくさんの色眼鏡を通して障がいを捉えているでしょう。
今まで知らずに生きてこられたこと、日常生活に不安や困難を感じることなく生きてきたことは それだけで特権を持っているということです。
(特権についてわかりやすく知りたい方はこちら↓)
http://ictj-report.joho.or.jp/2106/sp01.html
社会の障壁にぶつからずに生きてこられたマジョリティとして、見えにくい障壁を認識しようとすることは、苦労しますし苦しい作業でもあるでしょう。 それでも、「身近な福祉」に気づいた人から始める必要があると私は思っています。
そしてそれは苦しいだけじゃなくて、きっとたくさんの喜びや楽しみが待っています。
今より多くの他者と繋がって、世界を広げていけることは、とても希望に満ちたことだと思います。
今回の記事でご紹介した『わたしの身体はままならない』は、そうやって世界を広げていくことにとても役立つと思います。
主に取り上げた熊田さんのお話以外にも、別の「障がい」に関する当事者の文章や、当事者の家族や友人という立場からの文章などさまざまな視点が一冊の本にわかりやすくまとまっています。
福祉やケア、「障がい」に関心を持った方はぜひ読んでみてほしいです。
今後もtwitterやinstagramでさまざまな観点から福祉にまつわる面白い投稿を発信していきますので、ぜひチェックしてみてくださいね!
みなさんが私たちゼロカラチームの発信に触れて、福祉やケア、「障がい」に関心を寄せてくれるようになれば嬉しいです。
ではまた次回の投稿でお会いしましょう‼︎
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