伝える手段と、紡ぐ…ことのは。
言葉をいくつ紡いでも
繋がらない思いがある
伝わっているのか
わからないことの方が多い
かと言って
逢えば良いか…っていうと
それも良くわからなくて
いつも逢えば結局
言葉足らずになってしまうこともある
私が子どもたちに
絵を描いて貰っているのは
そんな伝達手段の手数の一つに
絵画表現を増やしたいからだ
・*:..。o○☼*゚・*:..。o○☼*゚・*:..。o○☼*゚
私は
幼い頃…良く絵を描いていた
その頃は母は
そんな私の絵を良く
コンクールに応募してくれていた
そして小学校に入った頃は
部屋中を囲む様に
父が賞状を飾ってくれていた
引越しの最中に
その作品たちが無くなってしまったのが
今になるととても残念な気持ちになる
あの頃の自分の絵を思い出すとき
何故か思い出すのは
敬老の日に描いた祖母の絵だと思う
その頃、
百貨店では敬老の日のコンクールがあり
私はそこに向けて
祖母の絵を描いていた
当時の私は
誰かに絵を習った訳ではないのに
肌に緑や黄色を塗っていた記憶がある
私は天真爛漫で朗らかな
父方の祖母が
大好きだった
いつも笑ってて
芸能情報に詳しくて
(これは父にも引き継がれている)
そして…とってもにこやかだった
いるだけで
周りの空気をすっ!と替えて
みんなの笑い声が絶えなかった
そんな祖母に私は憧れていて
そして
あんな風になりたいと思っていた
祖母は戦争も経験していたし、
祖父が無口な分
3倍くらい喋っているように見えていた
今考えてみれば!
祖父は
祖母が話している姿が好きで
そして自由に話せる環境を
祖父が用意していたのかもしれない
私には優しい言葉を
時々掛けてくれたのも
私が祖母に
憧れていたことに
気が付いていて
それを微笑ましく
感じてくれていたからかな?
今ならわかるけれど
それくらい
祖父は祖母が大切だったのだろう
・*:..。o○☼*゚・*:..。o○☼*゚・*:..。o○☼*゚
祖母は良く喋るけれど
人の話はしっかり聞いてたし
自分の意見も言えていた
祖母にコンクール終了後
その絵を
母が送ってくれたと思うけれど
お礼の電話が掛った時に
何を話したかは
あんなに祖母が好きだったのに
電話越しだからか
あまり憶えていない
多分、
唯一絵を描くことに関しては
その当時の私は
評価を気にして居なかったから
なのかもしれない
20代半ばを過ぎた頃
そんな祖母に
「あなたは朗らかでいいね〜!」
と言って貰えたときに
全ては報われたのだけど♪
言葉では伝わらない
そんな気持ちも
評価や雑念なく
子どもの頃は絵に描ける
何より大事なことは
素直な自分が絵には映しやすい
と言うことかもしれない
あの時祖母の顔に
緑や黄色を混ぜ込んだのは
祖母の若さと明るさを
自然と表せて居たのかもしれない
・*:..。o○☼*゚・*:..。o○☼*゚・*:..。o○☼*゚
あれからすっかり
私は絵を描かなくなり
毎日『鬼滅の刃』のグッズを
子どもたちと作っているけれど
私は今は
こうして徒然書くことで
見えない何かを表現している
そこに
評価を求めるというより
書きたいから書いている
幼い頃
祖母の絵を描いた頃とは
また違うかもしれないけれど
言葉を紡ぎ出すことで
自分と向き合いながら
ただ書いている
未来の自分の為に
そして
いつか伝えたいことのはを
きちんと紡げる人になるために
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「日本にクリエイターを増やしたい!!」 ★保育士しながら認定心理士資格取得★ パート→非正規→正規(無認可)→正規(認可) →フリーランス保育士・児童指導員 保育士時代に学んだ心理学を 子育てや保育、描画コンテンツに 生かし実践! 主体的で能動的な日本人を増やし続けてます♪