
国会議員の秘書 47(平成5年衆議院解散)
金丸先生が逮捕されてしばらくして平成5年の新年度に入った。自民党も政治改革、選挙制度改革などの議論で党内がギクシャクしていた。ある日、宮澤総理が田原総一郎さんのテレビ番組のインタビューで政治改革に関連する法案を「今国会で成立させる」と答えられた。しかし、自民党内がまとまらず、断念せざるを得なくなり、その時の言葉が引き鉄になって野党から不信任案が提出された。自民党内からは、造反者が出て可決され、衆議院を解散することになったのは、誰もがご存知のことであると思う。
5月の連休明けだったと記憶している。議員会館の事務所に、建設省の経済局審議官だった横内正明先生(のち山梨県知事)が訪ねてこられた。背が高く大柄の方で事務所の入口で頭を下げられると「野中先生は、おられますか?建設省の横内です。」と言って入ってこられた。私は、すぐに立ち上がり野中先生に、横内審議官が来られたことを伝えて、奥の部屋に入ってもらった。すると2人で顔を近づけて話をされており、何を話されているのかは、わからなかったが、野中先生から「山田君、金丸の親父に連絡をとってくれるか?」と奥の部屋から言われた。金丸先生の事務所に連絡をしてどこにおられるかを聞くと地元の白根町にあるご自宅におられるということだったので、白根町のご自宅に連絡した。すると秘書さんが電話口に出られて尋ねるとすぐに、金丸先生に電話を繋ぐとのことだったので、私も野中先生に受話器を渡した。金丸先生が電話口に出られたようで野中先生が「会長、野中です。今、横内君が私のところにきておりまして、話しをしておりました。ご安心ください。彼を必ず当選させますので。また、私も近々、会長のお顔を拝見しに伺わせていただきます。どうも、どうぞ!どうぞ!はい。ありがとうございます。」と言われて電話を切られた。横内先生は、山梨県の出身でお父上は、韮崎市長をされた方である。金丸先生と横内先生のお父上は、刎頚の友という間柄で永年金丸先生を支えてこられた方のようだった。金丸先生の事件が無ければ、近い将来横内先生を山梨県知事にされることを金丸先生は、描かれていたようである。イレギュラーな形で金丸先生が議員辞職をされたので、金丸先生の後継で次期総選挙では、自民党ということをぼかすために、無所属で出馬される予定だった。もちろん、金丸先生の後援会の久親会が横内先生を全面的に支援するようにはなっていたようであるが、やはり事件直後だったので金丸先生の後継者にとっては厳しい選挙になることはわかっていた。私は、横内先生を見て、「この人が、金丸先生の後継になるのか」と思って見ていた。建設省に京都からの陳情団を案内して行った時に、横内審議官という名札はよく見ていたが、直接要望したことがなかったので、どのような方なのかは、初めてこの時に知った。この頃は、総選挙はまだもう少し先になるような雰囲気だったので退官して山梨に戻り総選挙に向けて政治活動をされるということでご挨拶に来られたのであった。
それから少しして6月に入り、会期末が近づくと国会の雲行きがおかしくなってきた。野党が宮澤内閣に不信任案を出すという動きになってきた。また、経世会の分裂以降自民党内でもゴタゴタしていた。以前に経世会の分裂について書いたが、その時に記していなかった長野県3区から選出されていた金丸先生の麻雀メンバーのレギュラーのひとりだった中島衛先生は当時、科学技術庁長官をされていた。改革フォーラム21が立ち上がる日の朝まで、中島衛先生が経世会から「改革フォーラム21に行かないでくれ」と野中先生は、止められていたが、「羽田孜先生が行かれるので、選挙区事情で」ということで経世会から出られてしまった。あの日の朝の車の中で野中先生が、無念がられていたことを思い出す。
宮澤内閣の不信任案が提出される朝、科学技術庁長官の中島衛先生と経済企画庁長官の船田元先生が、大臣の辞表を提出され受理された。その後、本会議が開かれて宮澤総理の不信任案が、野党と改革フォーラム21、ユートピア研究会のメンバーなどの先生方の賛成で可決してしまった。私は、「不信任案は否決されように」と少しの希望を持って本会議を映し出すテレビでボーっと観ていた。すると自分の希望とは反して不信任案が可決してしまった。自民党から賛成票を投じられる度に響めきと拍手が本会議場で起こっていた。私は、不信任案が可決すると同時に地元の事務所に選挙になることを伝えると「京都に早く戻って準備をするように」と先輩秘書から言われた。今回の選挙は、完全に自民党にとっては逆風で厳しい選挙になるので私としては、いつものように「さーっ!選挙やるぞ!」というような意気込みはなく、はっきり言って前向きにはなれなかった。金丸先生の事件の時には、毎日のように野中先生の姿が映し出されてインタビューにも応じないようなニュース映像が流れていたし、選挙の争点になる政治改革という大義名分に対して守旧派というレッテルをはられていた。しかし、私は、今でもこの当時の野中先生の主張は、間違っていなかったと思っている。「選挙制度より政治資金の透明化の問題」と主張されていた。今でも度々、国会議員の政治資金のスキャンダルが出てきた時に透明化されていないので問題になっている部分は多くてあると思っている。
話しを戻して、不信任案が可決されたので宮澤総理は、衆議院を解散するという勝負に打って出られた。私は、翌日の夕方には、急いで京都に戻って選挙の準備に取り掛かった。