山田大智

政治関連コンサル/元野中広務秘書 /国会議員秘書歴30年余 /選挙実務実績18戦15勝…

山田大智

政治関連コンサル/元野中広務秘書 /国会議員秘書歴30年余 /選挙実務実績18戦15勝3敗2不戦/ /政治活動実務支援/政治関連等企業・団体相談受/情報コンサルタント/心相鑑定師/心相鑑定メールください。 E mail: k-yamada.y@quartz.ocn.ne.jp

最近の記事

国会議員の秘書35(海部内閣から宮澤内閣へ)

 野中広務先生は、一時期、「いっちゃん(小沢一郎先生)が、自民党の総裁になればいいのにな」と言われていたことがあった。海部総理が「重大な決意」発言をされた後、辞任を表明されて自民党の総裁選が行われることになった。そしてその頃、次期総裁が、誰になるのかで党内が騒ついていた。当時、経世会(竹下派)の会長は、金丸信先生、会長代行が小沢一郎先生であった。最大派閥の経世会がどう動くのかで野中事務所にも記者さんたちが頻繁に出入りされていた。  総裁候補として宮澤喜一先生、渡辺美智雄先生、

    • 国会議員の秘書  番外編(ご報告)

       元自由民主党事務局長の久米晃様が、東京新聞のweb版(2024.9.12.12:00配信) コラムで野中広務先生との思い出を執筆していただいてます。野中先生が議員を引退されて21年、故人となられて6年が経っておりますが、自民党総裁選公示日の当日の日に、こうして尊敬する久米様に、野中先生のことをお話しいただくのは、仕えていた私は大変光栄に存じます。今後もコラムを執筆されるとのこと楽しみに致しております。 東京新聞web2024.9.12配信より抜粋させていただきます。  

      • 国会議員の秘書34(平成3年後編2 重大な決意発言)

         毎年、夏の終わりに箱根ランドで開催される経世会(竹下派)の青年研修会と議員研修会も終わり、夏に山中湖の別荘で過ごされていた金丸信先生も箱根の研修会が終わると東京に戻って来られる。  研修会が終わって東京では、永田町の金丸信先生の事務所があるパレロワイヤル永田町の11階の金丸先生の麻雀部屋では、平日の午後に数人の先生方が金丸先生を囲んで麻雀をされていた。 たまに私は、金丸先生と麻雀をされている野中先生に連絡することが出来るとパレロワイヤル永田町の6階にある金丸先生の事務所に顔

        • 国会議員の秘書33(平成3年後編1 逓信委員会)

           平成3年の通常国会では、野中広務先生は、衆議院逓信委員会の委員長に就任されていた。当時NHKでは、アメリカの衛星を利用した放送をすることが検討されていて、その衛星の打ち上げに2回失敗し、それが委員会で問題になっていた。逓信委員会でNHKの島桂次会長が招致され、各政党が島会長に対して質問をした。その委員の質問をする前に、委員長が代表して1番はじめに質問した。「ロケットの打ち上げ失敗時に何をしていたのか?」という質問に対して島会長は、「GE社の打ち上げモニターで監視していた。」

        国会議員の秘書35(海部内閣から宮澤内閣へ)

          国会議員の秘書32(平成3年前編6)

           朝鮮民主主義人民共和国から戻って来て約1か月くらいたった頃、平壌で通訳をしてくれていた朝鮮労働党のメンバー2人が来日した。私は、野中先生からその2人を東京で案内するように指示された。白金の都ホテルに2人は宿泊していた。夕方、タクシーで都ホテルに迎えに行った。1か月程度しか経っていないので私は会ってすぐに打ち解けられた。ロビーで2人に会うと握手して日本語で「こんなに早く会えるとは思ってなかったです。これから私が案内しますので、よろしくお願いします。」と言った。言葉が通じるので

          国会議員の秘書32(平成3年前編6)

          国会議員の秘書31(平成3年前編 初海外随行5)

           平壌3日目の朝、前の夜に「明日は朝食をとったらロビーに8時に集合してください。」と労働党の指導員から言われていた。一日の予定が知らされずに、いきなり言われるままに動かないといけない。予定を言ってもらえるのは、出発の時間だけである。「これも一つの作戦なのかな。」と薄々思った。 野中先生と金丸信吾さんと私は、朝食を済ませて ロビーに降りた。すると同じ飛行機できた訪朝団の代表者と数人にロビーで会った。代表者は、野中先生に「あら、どちらに行かれるのかな。私たちは、今日は、ハマグリを

          国会議員の秘書31(平成3年前編 初海外随行5)

          国会議員の秘書30(平成3年前編 初の海外随行4)

           お酒が飲めない私は、無理して焼酎を飲んだので気持ち悪くなり、部屋に戻ってからしばらくベッドに横たわった状態だった。ようやく覚めてシャワーを浴びようとして洗面所に行った。タイル貼りの壁でかなり広めのバスではあるが、固定式のシャワーになっており、お湯を出そうとしたが、水がなかなか温かくならなかった。シャワーから出る水は、少し濁っていた。バスルームには、石鹸もシャンプーもおいてあった。「海外なので日本のようにアメニティーグッズも思っているような感じに揃ってないのは、仕方ないな。」

          国会議員の秘書30(平成3年前編 初の海外随行4)

          国会議員の秘書29(平成3年前編 初の海外随行3)

           朝鮮労働党の建物で会談が終わると一度高麗ホテルに戻った。私は、野中先生と一緒にデパートへ買いに行って持ってきた地元から渡った日本人妻に渡してもらうお土産を案内してもらっている労働党の指導員たちに預け、その方に渡してもらうようにお願いした。すると労働党のひとりの指導員が「確かに預かりました。中身は、何ですか?物によっては、渡せない物もあります。」と言われたので、「そういえば、彼等の奥さんたちにもお土産として渡そうと持ってきたものを出さないと。」と思って、別にカバンに入れて持っ

          国会議員の秘書29(平成3年前編 初の海外随行3)

          国会議員の秘書28(平成3年前編・初の海外随行2)

           (27に続いて)  平壌空港からホテルに到着して荷物を車から取り出すと案内してきた人が台車で荷物を運んでくれた。フロントロビーに入ると天井が楕円形の吹き抜けのようになっており、奥の方へ進むと野中先生と金丸信吾さんがフロント近くのソファに座っていた。向こうの通訳っぽい人が数人、そのまわりを囲んでいて野中先生たちと談笑していた。私は、頭を下げて挨拶をして野中先生に「お疲れ様です。荷物を部屋に運んでもらえるみたいですので預かってもらいました。」と伝えると「お疲れ様。まだチェックイ

          国会議員の秘書28(平成3年前編・初の海外随行2)

          国会議員の秘書27(平成3年前編・初の海外随行)

           平成2年12月29日に海部総理は、内閣改造をして野中広務先生は、平成3年の通常国会から衆議院の逓信常任委員会の委員長に就任された。当時の郵政族は、金丸信先生をはじめ小渕恵三先生や参議院議員では岡野裕先生等、錚々たる経世会の幹部の先生方がメンバーにおられた。野中先生は、建設族を目指していたが、金丸先生から「君の同期当選あたりでうちの派閥で郵政の関係をするものがいないから郵政関係を君がやれ」と言われて逓信常任委員会理事をしてから自民党の通信部会長を前年にし、逓信常任委員会委員長

          国会議員の秘書27(平成3年前編・初の海外随行)

          国会議員の秘書(昨日)

           自民党が野党に転落していた時に、私は、引退された野中広務先生が東京に出て来られた時に運転手をして随行をしながら個人事業をして生活していた。  その時に、居場所がなかったので「うちの事務所を使えばいいよ。」と言っていただき、文教族の重鎮で全国比例の参議院議員をされた故柳川覚治先生の筆頭秘書をされていた方が柳川先生が現役時代に設立された平河町にある団体の事務所に机を用意してもらい居候をさせていただいていた。野中広務先生が会長をされていた砂防会館別館にある全国土地改良連合会の事務

          国会議員の秘書(昨日)

          国会議員の秘書(ご報告)

          "選挙の神様"と言われている自由民主党本部元事務局長久米晃様が野中広務先生のことについてお話ししていただきました。先生のことを久米様からこのように言っていただき秘書をしていた私は、これほど嬉しく光栄なことはございません。久米様には、私は、昭和59年8月の京都市長選挙の時の運動員時代からお世話になっております🙇

          国会議員の秘書(ご報告)

          国会議員の秘書26(金丸・田辺訪朝団)

           総選挙が終わり国会が開会され、私の業務も日常を取り戻した。野中先生は、金丸先生が開催される麻雀のレギュラーメンバーになり、毎日パレロワイヤル永田町にある金丸先生の麻雀ルームに招かれていた。  ある日、パレロワイヤル永田町に送る途中で野中先生から「山田君、ニューオータニで会議をやっているから代理で出席してきてくれるか?」と言われてニューオータニの指定された部屋に向かった。この会議では、代理出席の秘書は、私ひとりだったように思う。部屋に入るとロの字型に机が並べられ、石井一先生や

          国会議員の秘書26(金丸・田辺訪朝団)

          国会議員の秘書25(平成元年から2年。総選挙へ)

           当時、朝は、自民党本部で部会に出席される野中先生を宿舎に迎えに行き、部会が終了すると今度は、議事堂内の控室での国対正副委員長会議に出席される。送る途中、先生から「山田君、宿舎にもう一度、戻ってくれるか?今日、家内が出てきてるから、俺はここで降りて歩いて戻るから、宿舎に迎えに行ってデパートまで送ってやってくれ。」と言われた。 その時、先生の奥様が、東京にいらっしゃられていることを事務所内では、誰も知らなかった。私は、急いで宿舎に引き換えし奥様を迎えに行った。  私の記憶では、

          国会議員の秘書25(平成元年から2年。総選挙へ)

          久しぶりの帰郷。七夕の日に思う(元野中広務事務所前)

           金曜日から京都に帰ってきた。現役の秘書時代から大変お世話になり、今も尚、ご指導いただき尊敬している方に食事をご馳走になりながら懐かしい話を聞かせていただいた。野中先生亡き後も、個人的なことでもご迷惑をおかけしているにも関わらず、私に変わらず優しく接していただき本当にありがたく思う。野中先生の昔話を安心して出来る貴重な存在の方である。最近は、そのような話が出来る方も少なくなり寂しい思いもする。  タイトルの写真は、昨日撮った元京都事務所があったところだ。町並みもすっかり変わっ

          久しぶりの帰郷。七夕の日に思う(元野中広務事務所前)

          国会議員の秘書24(記者さんが宿舎に)

           野中広務先生が建設政務次官になった頃から建設省の記者クラブに所属する大手新聞社の記者さんや経世会の番記者さんが、高輪宿舎の先生の部屋に少しずつではあるが、夜来られるようになった。また、自民党の国対副委員長になってからは毎夜来られるようになった。  それまでは、記者さんというと先生が京都の府議会議員の時代から付き合いのある地元紙の東京支社の方などを夜の予定がない時に、食事に誘って京都政界の動きや地元の自治体などのことについての情報交換をされていた。また、この食事の席には、京都

          国会議員の秘書24(記者さんが宿舎に)