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国会議員の秘書 44(霞ヶ関に陳情)

 毎年11月に入るといろいろな全国団体の大会が東京で開催される。平成4年の11月も全国大会が、日比谷公会堂や砂防会館、ニッショーホール、永田町近辺のホテルなどで開催されていた。この時期は、全国から市町村の首長や地方議員、都道府県の職員の方や各地域の団体幹部などで議員会館や霞ヶ関は賑わう。これに合わせて全国各地の自治体では、来年度の予算で自分たちの街の事業などに、国の補助金を付けてもらうために、各官庁に行って陳情合戦が繰り広げられる。私たち秘書は、野中先生の出席出来ない大会に先輩秘書と手分けして代理出席したり、京都から出て来られた陳情団を案内して霞ヶ関の官庁をまわるのが、毎年の恒例になっていた。
 そんなある日、野中先生の青年団時代から行動を共にされてきた京都府長岡京市の五十棲辰男市長が、秘書課長(のちこの方も当市の市長)と2人で東京に出て来られた。五十棲市長は、毎回、東京へ向かう京都駅を出発する時に「山田君、○○時○○分到着のひかり○号に乗るから東京駅まで車で来といてくれるか?親父には、君に運転してもらうちゅうこと伝えてあるし。」と連絡が入る。私が、言われた時間に東京駅に車を着けていると、五十棲市長と秘書課長の2人が大きな紙袋を重たそうに提げて歩いて来られる。車に乗り込まれると「おおきに、毎度悪いな。事務所に送ったもんも積んできてくれたか?はい、これは、変わり映えせんやつやけど、家に持って帰って奥さんと食べて。」と言って筍のしぐれ煮をもらう。私は、「ありがとうございます。事務所に届いた箱は、トランクに積んどきました。市長、今日はどこに行ったらよろしいでしょう?」と聞くと「今日はな。文部省に陳情に行こうとおもてるんや。このまま、文部省に行ってくれっか。それで山田君は、俺の前に行って親父の名刺を出して野中の秘書です。って言ってくれたらええし。」と言われた。私は、「はい。わかりました。そしたら文部省の方に行きますね。」と言って、車を文部省の方へ走らせた。車のトランクには、陳情の時に配る筍のしぐれ煮が数箱入っていた。五十棲市長は、「親父が東京にいてくれて楽になったわ。君には、悪いけどな。こうしてうちの市の東京の運転手付きの公用車まで出来たし、筍も事務所に送っといたら、荷物も持ってくんの少なくて済むし。」と後ろの席に座りながら笑って上機嫌だった。その横では、秘書課長が紙袋で持って来られた大量の陳情書を配布する課ごとに、順番に仕分けされていた。
 すると五十棲市長が、「今日はな。ひと通り文部省まわるけど、1箇所ちょっと工夫せなあかん陳情があるねん。」と言われたけど私には、全くどういうことかわからなかったので「そうなんですか。」と答えただけだった。文部省に到着すると長岡京市は、市の名前の通り歴史的な文化財がたくさんあるので、文部省の最上階にある文化庁から関係する各課に陳情書と筍のしぐれ煮を持ってまわる。各課の反応は、「野中広務事務所です。今日は、京都府の長岡京市の市長に同行して地元の○○について陳情に参りました。よろしくお願いします。」と言うと、役所の担当課長や課長補佐の方に陳情書を渡して中を開けられるとすかさず市長が、その陳情書の中に書いてあることを説明する。すると担当課長らが「あゝ、これね。わかりました。これは○○ということね。」と話をされるが今一つ反応はよくない。当時は、野中広務事務所と言っても、文部省は、衆議院の委員会や自民党の部会などではあまり関わったことがない役所であったので野中先生の名前もあまり知られていなかった。私は、どちらかというとあまり野中先生と関わりのない役所を事務所で振り分けられて担当していた。
 文化庁、文部省の順番に、長岡京市が京都府を通じて補助金の要望を出しているところをひと通りまわると最後に五十棲市長が「山田君、もう一件いうてたとこに、つきおうてくれるか。」と言われたので私は、「はい。わかりました。」と答えた。そうして再度、文部省の中を先ほど通った廊下を引き返してある課の扉を開けた。扉を開けると課長と思われる人が机から横を向いて座りながら新聞を読まれていた。その課長の前に私が行って市長が後ろに控えた「お世話になります。野中広務事務所です。今日は、京都府長岡京市の市長に同行して参りました。」と言うと、課長は、新聞を閉じて怪訝そうな顔をされて座ったまま、私たちの顔を見られた。五十棲市長が私の前に出て陳情書を渡しながら開けると課長はようやく立ち上がって、陳情書を見られた。そうして五十棲市長が内容を説明していくと突然課長が「こんな陳情どういうことなんだ。出来るわけないじゃないか。君らは、どういうつもりでここに来ているのかね。誰が何を言おうと無理なものは、無理。」と強い口調で言われた。すると五十棲市長は、「いや、そんなこと言わずに、市も困ってますねん。何とか解釈変えてできまへんやろか。」と言われると再度課長が「そんなこと以前の問題だ。無理なことは無理。誰がどうしようと無理なんだ。はい。それではこれで!」と言って陳情書を五十棲市長に突き返された。市長は、突き返された陳情書と筍のしぐれ煮を「これを置かせておいてください。失礼しますさかい。」と言って課長の机に置いて、とりあえず私たちは、その課を出て行った。私は、何とも情け無い対応をされたので「やっぱり野中広務という名前は、まだまだ知られてないし、ああいう対応をされるんだな。悔しいな。」と思って車に乗り込んだ。車を走らせると五十棲市長が「山田君、悪かったな。ちょい無理筋の陳情やったんや。一か八か、やったろうとおもたけど、やっぱり無理やったな。親父の名前でもあかんな。」と言われた。私は、「市長、すいませんでした。でもなんか悔しいです。あの言い方はちょっと納得出来ないです。」と言うと秘書課長が「先生の名前で言ってるのに、あの言い方はないわな。」と言われた一言に私の怒りが込み上げてきた。2人を指定された場所まで送って事務所に戻ると、先輩秘書にことの顛末を報告した。すると先輩秘書から「山田、お前、それで黙って帰ってきたのかよ!バカヤロウ!親父の名前で行ってるのに、恥かかされて何事務所に平気な顔で戻ってきてんだよ。」とこっ酷く怒られた。私は、「わかりました。もう一度、文部省に行ってきます。」と言って事務所から再度、文部省の先ほどの課に急いで行った。扉を開けると課長が席におられるのが見えた。私は、課の中に一歩入ると大声で「おい!さっきの陳情の受け方は何や!うちは選挙やってるんや!うちを落とすつもりで対応してるんかい。無理な話でも、その場の配慮ちゅうもんがあるやろ。市長やらもわざわざ新幹線で東京まで出て来て市民のために陳情に来てるんや!」と言うと、課長が「そんな大声出さなくてもいいじゃないか。こちらに来てくれ。先ほどの陳情は、制度的にも無理なんだよ。じゃ、君は、どうすればいいいというのかね?」と聞かれたので私は、「このままでは、事務所に帰れへん。うちの代議士に話をしてほしいんですわ。」と言うと「わかった。今すぐアポを取って先生のところに行けばいいのだな。」と言われたので私は、内心ホッとした。すぐに、アポを取って議員会館の事務所に来られた。野中先生が奥の部屋のソファに座って資料を見られていた。課長が奥の部屋に入られて野中先生に経緯を説明されて配慮が足りなかったことを言われると野中先生が「うちの秘書が、課長のところで大声を張り上げたことは、申し訳なかった。これからそんなことをしないように叱っておくから今回のことは、許してやってくれ。しかし、課長ね。俺も選挙をやっている身。地元の陳情は、何でも聞かないとダメなんだ。無理な話をどうしてもやってくれと言うのではない。無理なものは私も理事者側にもいた立場の人間だから理解しているつもりだ。しかし、公選されてる議員の顔を立ててくれる配慮というものがあるだろ。そこはうまく対応をしてくれればそれでいいんだよ。」と言われた。課長は、「申し訳ありませんでした。以後気をつけます。」と言われると野中先生が「今日は、忙しいのにわざわざ来てもらって申し訳なかった。これからもよろしくお願いします。」と頭を下げて言われた。課長は、ソファから立ち上がり一礼をして事務所を出て行かれた。野中先生が奥から「山田君、ちょっと」と呼ばれたので部屋に入って「先生、すみませんでした。五十棲市長と、、、」というと野中先生が「かまへんよ。それよりも、これからさっきの課長とは、地元のためにしっかりと付き合っていかないといけないから、手土産持ってすぐに、君、先ほどは、すみません。ありがとうございました。と言って頭下げてきなさい。」と言われたので私は、直ぐに、事務所にある京都のお菓子を持って課長のところへ野中先生の言われた通りに頭を下げてお詫びとお礼を伝えに行った。
後日談になるが、その課長とは、これを機会に、その後もお付き合いをしていただけるようになり、退官された後も年賀状をやりとりさせていただける関係にまでなれた。

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