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あ、この人にだけわかってもらえれば

こないだ、度重なる不信感と対面する日々でとある出来事をきっかけにポッキり挫けた。…のだけど!仕事ではひとと関わらなきゃ「いけない」から(完璧主義とかの問題でなく奮い立たせるために、あえて義務的に)そろそろ地上に戻って「あらぁ!これも勉強だったんだねぇ!」のフェーズに移行させるため、思考を整理している。やっぱこんな時に日記ってとても便利だな、ありがたい。

この夏、なんだか懐かしいような思いをたくさん感じた。「懐かしい」というのは若い時分、実際に経験した感情や体験こそしなかったが若い子らが感じてそうだなと容易に想像できる感情などさまざま。とりわけ今の私は激しい感情の横で、冷静な感情が常に隣り合わせで居られるくらいにはだいぶ大人になったので、あの頃のように激しい感情に振り回されて慌ててしまうことはほとんどなかった。

実はこの夏までに3ヶ月ほど、親友と距離を置いていた。距離というのは心の距離で、所謂シャッターを閉めるみたいなそんなイメージね。作品作りに対する向き合い方があまりにも真逆で、これお互いのために一緒にいるの良くねえだろ、と勝手に結論付けてしまったためである。そんな折彼から「数年で1番沈んどるし元気あらへん」と連絡が来て、それは絶対に私が行かないと!と使命感に駆られた。本当はその日の晩にでも駆けつけたかったがふと「明日の朝はどうや?気分ええやろ、朝の散歩!」と思い立ち提案すると、すんなりそれを受け入れてくれた。翌る日喫茶店にて他愛のない話をした後に本題。その後改めて作品作りに対する価値観を語り合った。「真逆やな!」って笑いあって励ましあって、この3ヶ月の気まずい空気とか通り越して素直に応援しあう、そんなあたたかい時間を過ごした。

振り返るとそもそも、彼と作品作りに対する想いなんて伝え合っていなかったことに気がついた。我々は気の使い方が似ているが故、皆まで聞かずとも直感で「そうであろうな」ということはあえて聞かない選択をして、衝突を避けてきた。けれどこうして胸の内を晒すと真逆な考えでもやっぱり尊敬できて、何かあったら尊重し合いたいと心から思える相手だなと感じた。これまで私たちはほとんどすべてのことが真逆だったし、そもそも私たちは一つの仕事をしたくてこうして仲良くしているわけじゃなくて、そんなのを超えた先の友情があると強く実感した。私がどんなドン底でもいつもの通りに対応してくれた彼の態度は、いとも簡単に私を「生」の選択へ導いてくれたし、そんな貴重な日々を忘れてはいけない。そんな根っからの親友を易々と手放しちゃいけない。もちろんこれだけ気が合うから、本当は何か一緒に作品作りをしたいけど、まずはお互いのできるやり方で応援し合えれば良いのだ。

それから秋の始まりというよりは夏の終わり、というような空気を纏った、ある日の夜更け。何かの拍子で朝方まで、労働先のお姉さまとお互いの人生を一から今日に至るまで語り合った。こんなこと誰にも言ったことないんだけど、の前置きを何度言ったことか…!すこし話はズレますが、この出来事で勉強したことを早速記します。

不信感を覚えるパターンのひとつに「与え合う情報に一つでも差が生まれて、それが繰り返し重なってしまうこと」がある。わかりやすく言うと「ひとの名前を尋ねる前にまずは手前から名乗れ」ってとこかしら。大概の人間は与えられた情報の価値と量、それに見合った情報の価値と量を(内緒話を含めて)交換しあっている。ひとつ与えてひとつ帰ってくる、こんな形の会話がほとんどの人間にとって心地よいはずで、これが一般的な会話というものだと私は思ってきた。そして私は与える側で居続けたい、と普段から気にして会話をしている。要は会話をコントロールしていたいってことなんですが、私がおしゃべりな所以はこれを利用しているためであり、その理由は単に「秘め事が多いため」である。無闇に詮索されないよう、差し支えのない情報を先に与えて、会話相手には私のすべてを知った気になっていて欲しいから。ここで重要なのは嘘はとっておきのタイミングで使うため、常に本心で話すこと。絵本作家になりたいのだって、こんな私は誰かのそばにいるべきじゃない、そばで誰かを支えるには少々距離を間違える節があるし、絵本を介した距離感が「私と、世間のためだ」と本気で思っているからである。

ようやく話を戻すと、このお姉さまはひとに心を開かせるのが上手な方で、いとも簡単に人々を懐かせてしまう。かくいう私もその一人で、普段は会話をコントロールしていたいはずなのに肩肘張らず、頭で考えず会話をすることができてしまう相手なのである。これを友情と呼ぶには形が違う気がずっとしていて、ようやくしっくりきたものが「私は彼女に甘えている」というもの。コントロールするために気を使いまくるか、お耳のシャッターを閉めて完全にオフ状態でいるか、ゼロ100思想の私にとって気兼ねなく会話できるこの現象は本当にとても貴重で、ありがたい人間がそばにいてくださっているなと心底感じた。

なんかこういう、本当に信頼できる人間たちと語らう時間を経験するたびに感じるあ、この人にだけわかってもらえればそれで充分だっていうあの気持ちはきっと「愛」っていうものに、近いんじゃないかなって感じた。直接触れて、温度を与えあう恋人がもたらす愛というより、まとった空気に愛を込める親心というか…そんな手で触れられないものにたくさん救われたなあ、この夏は。

だからまた、私にできるやり方で恩返ししていくから
まるまる全部、みんなには受け取って欲しいね。

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