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ちきゅうはまわる

ちきゅうはまわる
くるくるまわる
どこまでも

最近、「死にたい」「消えたい」という言葉をよく聞く。綺麗な顔立ちの女の子や、屈強な男の子から、自分が生きてて申し訳ないなどの旨の言葉が見聞される。
小生は、というと。人生1番の地獄に瀕した時、死にたくとも生きたくともない、虚無状態に苛まれた。

どちらとも体験した身として言おう。
虚無の方が辛い。

死にたいという気持ちは人と繋がれるが、どちらでもない気持ち(虚無)は何も惹き付けない。
死にたいという気持ちに救いはあれど(死ぬという、世間的に見ればよくはないが、救い)生きながらにしての虚無には救いは無い。孤独感に陥る。

ふと、病み垢の高校生に言われた。ODや自傷に批判的なのは気を悪くするよ。と。

なんかごめんな。別に批判的では無いのだ。妬みだと思う。こんな感情を高校生なんかにぶつけたい訳でもないのでブロックした。ODが出来なくて悪かったな、自傷も出来なくて、死ぬことも出来なくて、ごめんな。死んどけばよかったな。生きててごめんな、生きててごめんな!君、私に死んで欲しいんだもんな!
死にたくも生きたくもない無気力なんて知ったこっちゃないもんな!

腹が立つ。ものが壊れる。自分が壊れる。

生きててダメな人なんて1人も居ない。
断言する、
居ない。

まぁ、死ぬのが視野にある上で、はっきり言って自分の物差しが狭いだけなのでは、とも(自戒を込めて)思う。
鬱々とした気持ちは視野を狭めるものね。
嫌。

ここ最近思うこと。苦しんでいる人が多すぎる。私より年下年上拘わらず。
私に、救える人は数人なのだ。
他は手を離して堕ちていく。

昔聞いたことある話、「今が1番幸せだから今自殺する!」という理由で死んだ中高生がいたらしい。先生が「こんなの、止められないよなぁ」と言っていた。
死ぬ、ということに対する運の比率ばかりが気になる。

「愛されたい」という感情について
無きにしも非ぬ感情で、勿論私にもある。それを持つなら、愛される覚悟を持てよ、とは思う。
愛を正面から受け取ってこそ、感謝という感情が生まれる。最近関わった人に、「愛されたい」と言いつつ、私たちが愛を差し出すと聞き入れもせず、「愛されたい」と吠え続ける人がいた。ブロックした。生理的に無理。覚悟を持って愛されている私がいる限り、愛される覚悟もない奴に愛を与えることは出来やしない。

尾崎豊の「卒業」という曲に、御世間様一般的に好まれるフレーズがある。

この支配からの 卒業

尾崎豊:卒業

私はこのフレーズに首を傾げるも、終わりがけのフレーズにがってんとする。

卒業して 一体何 解るというのだ

尾崎豊:卒業

全く、そうなのである。
これが、死にたいという感情と、虚無感のいい例だ。

さて、この世にアンチテーゼを向けようと、我々は飯食ってセックスをするだけの人間様である。伸び伸びと生きよう!
戦争反対!薬反対!増税反対!
腕切ってでも薬飲んででも生きたきゃ生きれば?
無責任でごめんな!もうむりなんだよ!
私はなにもしたくないんだ!
彼氏に愛されて、幸せになる!
何が悪いんだよ!
何が間違ってんだよ!
私の光を追いかける権利をくれよ、

やはり文が下手。

ちきゅうはまわる
くるくるまわる
どこまでも

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