絵海
午前3時42分。眠れずにスタンドライトを付けて久々にスケッチブックと画材を取りだした。真新しいページを開く。
眠れない夜は絵を描いている。パレットに絵の具を絞り、水に浸した筆先に絡め、スケッチブックに筆を滑らせる。
出来損ないの彗星、左足の肉球に暗号を秘めた黄色の猫、七色の紫陽花…。
奇妙な色使いで奇妙な絵を描くわたしを、周りはみな気味悪がった。色盲を疑われ病院に連れていかれたこともあるが色の識別に何ら問題はなかった。父は将来この子はピカソ並の有名画家になるぞと笑い、それに対して母は、変な絵ばかり描いて学校でいじめられたりしたらどうするの!と声を荒らげた。
信号の色が赤、青、黄の三色であることは知っているし目にもそう映っている。けれど実際に描けと言われたら紫、オレンジ、白、で表現してしまう。目で見る世界と描きたい世界は違うのだと、この頃のわたしはうまく説明できなかった。
絵のことだけを考えていたいのに、余計なことが浮かんでは消える。集中できない。数年ぶりにウォークマンを取り出した。絵とウォークマンが世界の中心だった頃が懐かしい。イヤホンはないかとカバンを漁っていると、いつのものかわからない棒付きキャンディーが出てきた。急に空腹を感じ、何も考えないまま包装を剥がして口にくわえた。昔から好きなイチゴ味。ハートが真ん中に入っている。かわいい。
探し出したイヤホンを耳にはめて飴を舐めながらまた黙々と絵を描く。好きな音楽を流しながらこうして一人絵を描いていると、今世界で起きているのは自分だけではないかと錯覚してしまう。夢中になって描いていると不意に口の中でガリッと音がした。思わず口から棒を取り出すと溶けかけの飴が少し欠けていた。ハートが一部消えている。口内に残った欠片を転がしゆっくりと溶かしていく。全て食べ切り、棒のみになってもなんとなく口にくわえたままにしていた。
青が欲しい。飴の赤を見ていたせいか不意にそんなことを思った。けれど生憎青い絵の具を切らしている。でも欲しい。青、青、青、
本棚の上に飾っている小瓶に目がいった。中にはビー玉が入っている。質素な部屋に彩りが欲しくて、雑貨代わりに置いていた物だった。固い蓋を開けて小瓶をひっくり返す。ビー玉がコロコロとフローリングの上を転がっていく。青を探し出して月明かりにかざした。窓ガラス越しでは少し心許ないため窓を開ける。ビー玉に光が吸い込まれていき、ガラスの青が視界いっぱいに広がる。そう、欲しいのはこんな青。
しばらく覗いていると硬いはずのビー玉が少し柔らかくなった気がした。手の平で転がしてみるとビー玉は徐々に形を崩していき青い液体へと変化していった。
絵の具だ。
青色に染まった手をページの下半分に塗りつける。スケッチブックに海が生まれる。海、海、海。
夢中になって海を広げていると、床が湿っているような気がした。足元を見るとなんと床一面が水浸しになっていた。息を呑む。けれどすぐにただの浸水ではないことに気づいた。潮の香りがしたからだ。
部屋が海になっている。
画材とスケッチブックを持ってベッドの上に避難した。部屋を出ようとは何故か思わなかった。いつの間にか天井と四方を囲む壁が消えていて、頭上から月明かりが射し込んでいる。周りには海が広がっているだけで他に何もない。
ベッドの脚に水が跳ねる。水位はあまり高くない。せいぜい足首が浸るくらいだろうか。
恐る恐る足をおろしてみる。冷たい。
なぜこんな不思議なことが起きているのだろう。月の魔力か、あるいは夢なのか。
水をパシャパシャさせながらぼんやり考えていると、いきなりベッド全体がガクンと大きく揺れた。驚いてスケッチブックを落としてしまう。
「あっ…」
あわてて立ち上がり、スケッチブックを拾う。ぐしょ濡れだ。中は大丈夫かと確認しようとすると転んでしまい、わたし自身もずぶ濡れになってしまった。
「痛…」
顔を顰めながら身体を起こした時、思わぬ光景が目に入ってきた。
まず視界に入ったのは水平線の近くで泳ぐ銀色のイルカだった。その少し手前では透明な電車が海の上を走り抜け、逆パカされたガラケーが片割れを探してさまよっている。わたしはなぜかそれらに見覚えがあった。
もしかして、と思いスケッチブックを手に取りパラパラとページをめくる。やっぱり。銀色のイルカもスケルトンの電車も片割れを探すガラケーも昔わたしが描いたものだった。
もっと近くで見たくて身体を進めたけれど、腰まで水が浸ったところで諦めた。全く近づけている気がしない。本当に見たいものは少し距離を置いた方がいいのだろうか。あるいは近づきすぎると消えてしまうのだろうか。仕方なく、遠目から眺めることにした。
ピンク色の茎を持つ花、リボンが全身に巻かれた赤ん坊、持ち手のない傘。みな楽しそうに踊り、笑い、歌っている。羨ましかった。
愉快なパレードは終盤を迎え、彼らは光となり空へと打ち上げられた。一瞬の閃光はまるで花火のようで、このまま時間を止めておきたいと惜しむほどに美しかった。
やがて、花火は星となった。瞬きをする度に流れ星が夜空を駆け抜けていく。誰もがため息をつくようなこの星々は、どれもわたしが描いたものなのだ。そう思うととても誇らしかった。
その時、光がすっと射し込んだ。どうやらもう日の出の時間のようだ。眩しい。周りがハレーションを起こしている。
水が引いていく気配がした。明らかに水位が下がっている。
終わっちゃう。
この夜が。こんなに素敵なこの夜が。
夜なんて明けなくていい。まだこの夜の中にいさせて。この幸せな夢の中にいさせて。
星もだんだんと見えなくなってきた。神さまは非情だ。大嫌い。
気がつくと壁も天井も元通りになっていた。一歩後ずさるとベッドに足がぶつかる。そのまま腰をおろした。
このまま時間が経てばまたわたしはいつものように満員電車に乗って通勤ラッシュに塗れて出社するのだろう。出社して、仕事してどうせまたミスをして、怒られて、ヘトヘトになって帰宅するのだろう。ほんの一瞬だけ幸せに触れる事ができても、わたしの場合ずっとは続かないし、無情にも明日はやってくる。生きるってこういうことか。こういうことなのか。
ずっと胸に抱えていたスケッチブックが軽くなったような気がした。再びパラパラとめくる。スケッチブックはどれも絵が抜け落ちたかのように真っ白になっていた。
掛け時計を見る。家を出るまであと2時間。少しだけ眠ろうと布団を被った。目を閉じた瞬間スーッと意識が遠のいていく。
外では朝を迎える準備を密やかに始めている。太陽の光を包み込む、かつて闇だった空。