母が、権力者によって殺されました。
青森県黒石市で発生した、職権乱用による集団殺人行為の全貌を公開します。
私の愛する母親は、黒石市役所・黒石警察署・弘前家庭裁判所・あおい森ネット弘前・介護施設・青森県知事・弘前愛生会病院・精神医療審査会などによる集団人権侵害及び職権乱用によって、殺害されました。そして、死亡するまで母親は、半年間監禁され、私も2カ月半、不当に拘束され、死亡するまで半年間会うことが出来ず、その間、私が何度も母親が慢性硬膜下血種の疑いがある事、薬アレルギーがある事を説明したにも拘らず、彼らは、私を不当に拘束し母親を違法に監禁した事実の責任を逃れ隠蔽するため、母親が、慢性硬膜下血種であると知りながら、治療を受けさせず治療妨害し、また薬のアレルギーがあることを知りながら、彼らは殺害する目的で、危険な睡眠薬を故意に投与して、健康状態を悪化させて殺害するため母親の寿命を故意に縮めました。母は、1月まで雪かきをし、3月まで普通に会話していた母親を、故意に1週間で植物状態にしました。通常、普通に会話していた人が、言語障害になり、健康状態が急変したら救急車を手配して精密検査しますが、彼らは施設に閉じ込め医療行為を故意に全くしませんでした。彼らは私に対して「病院に連れまわっているから衰弱している。虐待だ。病院に行く必要はない。施設に入れる」などと勝手な屁理屈で、母を拉致しました。そして私が当初から拒否したにもかかわらず黒石市長は、私に訴えられることを阻止するため、勝手に後見人を付け、私と母親の間柄を完全に引き裂き奪い取り後見人・鹿内葵を裁判官に手配させました。そして、半年間も母親の居場所も状態も教えず、また私の意見も伝えませんでした。そして、危篤になっても後見人・鹿内葵は、教えてくれず、母親は、半年間、誰の見舞いも差し入れも受けられず精神と肉体を虐待され続け最愛の息子に看取られることも無く孤独に1人で亡くなりました。高齢で何の抵抗も出来ず、私と共に何一つ悪いことをしていないのに、尊厳を無視され続け、腐った青森県の権力者らによって組織的に殺害されました。私と母は母一人子一人で素朴に半世紀一緒に暮らし、母が認知症になって16年間、人生を捧げて介護した母親が拉致され冷たくなり固くなってから対面しました。その間、約半年全く会うことは出来ず、居場所も教えてくれず、健康状態も隠蔽され、事実上、拉致され殺されました。仲の良かった親子は、日本の異常な法律と彼らの暴君によって、最後の半年間、最愛の息子と一生一緒にいることを望み、施設を拒否していたにも拘らず、最愛の息子に半年間も会うことが出来ず、親子が引き裂かれ母は孤独に1人で泣きながら苦しみ続けて亡くなりました。私は、彼らを一生許しません。
現在も彼らは組織的に事実を隠ぺいし続け、謝罪もせず、説明もしません。
そのため現在、私はPTSDになり、国連に対し人権擁護と、各国に対して、亡命申請しています。目的は、国連で証言して、世界各国に対して日本で発生した恐るべき人権侵害を、伝えて、彼らを世論で裁くためです。
母は、コロナパンデミック後、急激に認知症が悪化し「私が寝ている間に、水風呂に入る」「盗まれていないサボテンの鉢植えを、近所の人が盗んだという被害妄想」「割れたコップの破片全てを、食器乾燥機の中に入れる」「私が入浴している間、雨が降っているにも拘らず、窓から出て行って、警察のお世話になる」「ケアマネージャーや施設の人に対して、攻撃的になる」「タクシーの中で、暴れる」「トイレや風呂場を頻繁に汚す」「頻繁に転ぶ」など、私の予想を、遥かに上回る行動が、目立ち始め一層介護が難しくなっていました。そのため、48時間起きて、1時間寝るというような生活が数年続いていました。幸い、水風呂に入っていた時は、寝ていた私が、異音に気付いて、直ぐに風呂場に行き救急車を手配したことで、命を救えました。
その時は、可なり危険な状態で、体温が34度まで下がり、呼吸も乱れていました。そして救急車内で私を求めて私の手を握り「どこだ、どごた、手握って、離すなよ、手握って」と私に対して話し、私の手をずっと握りしめていました。私も手を握りしめ、最後になるかもしれないと覚悟していました。幸い同席していた救急隊員とその後の医師の治療で、数時間後に、安定して私が運転する車で帰宅出来ました。
そして、始まりは、今年の1月15日です。
朝私が目覚めると、昨日まで、30メートルも雪かきしていた母親が、突如歩けなくなり、台所で座り込んでいました。(ちなみに、14日まで、1人で風呂に入り、トイレにも行っていました)
その後、トイレに行くとき、よちよち歩いていたので、私がトイレまで付いていき無事トイレに入ったので、安心して居間に戻ったのですが、ドスンという音がしたので、行ってみると、母親が仰向けに倒れて、頭から血を流していました。あまりにも血が流れていたので、私は頭が割れてしまったと思い込み泣きながら救急車を呼びました。
幸い、出血が、ひどかっただけで、母親の意識は安定していて、イケメンの救急隊員の手を握り「あんたを頼りにしてるよ」と病院に付くまで言い続け、病院に付くと帰ろうとした救急隊員に「なんで帰るの?」「まだ居なさい」と言って手を離さず、看護師らを笑わせる余裕がありました。そして、治療後、看護師に「私が死ぬと、息子が一人になるから、まだ死ねない」などといつものように語っていました。
その日から殆ど歩けなくなったため、夜に母親は、数回トイレに行くのですが、その度に私は、起きて母親をトイレに連れて行くという新たな介護が始まりました。
そして、17日、私が熟睡していると、注文していた荷物の配達のためクロネコヤマトの配達員が来て、私は起こされ母親の寝室を見ると、布団にいなかったので「直ぐにトイレに1人で行った」と思い、荷物を受け取った後、直ぐにトイレのドアに駆け付けると、その途端に母親は仰向けに倒れてきました。幸い、私が駆け付け直ぐに支えたので、難なく済みました。もし私がいなかったら母親は後頭部を、また強打し、また寒かったので、危険な状態でした。しかし私が助けたため母親は「お前がいて良かった、助かったよ」と喜んでいました。
そうやって、私は、何度も母親の命を守ってきました。
当時、私は12月に転んで痛めた肋骨が骨折していたため、まだ痛みがあり、介護が限界でした。理由は、骨折した当日、母親が漏らしたため、3回トイレ掃除して、4回風呂掃除するということを2日行っていたので、医師に「悪化している。肋骨がズレ、癒着している」とまで診断されていました。そのため、急遽1月18日からショートステイに、1月31日まで入居することになりました。そして入居時に、私が骨折して治療する必要があるため、少しの間だけ我慢して、入居するように説得して、何とか入居出来ました。母は、以前から施設に行くことを拒否し、昨年初めて行ったデイサービスでも、朝になると不機嫌になり、「絶対行かない、一生行く分けじゃないよね。いやだよ」などと私や施設の人に言っていました。そのため、入居時には、私に対して「一生いるわけじゃないよね、必ず迎えに来いよ。待ってるよ」と言ったので、私は、「少しの間だけだから」と言って帰りました。その間、3度病院に連れて行くため、面会に行ったのですが、その度、私を見つけると手を振って現れ、私に近づくと、私を強く握りしめました。そして「直ぐ帰るんでしょ。早く帰るよ」と施設にいることを嫌がり帰宅を強く望み、またタクシーに乗ると運転手に対して「運転手さん運転手さん、自宅に向かって、黒石に向かって」と強く帰宅を望んでいました。そして病院に行くという事を知ると益々不機嫌になり、「病院よりも自宅に帰る」「医者の悪口言ってやる」などと強く駄々をこねました。かなり暴れたので、その時の運転手さんは記憶しているでしょう。その後、施設から退去に関する連絡がなく、また次の施設への入居が、母に薬アレルギーがあるという事で、施設の人に断られ変更になったため、2月9日まで延びました。その間、19日には、急に歩けなくなった原因を探るため、病院で頭のMRI検査をすることになっていたため、私は母親を迎えに行き、迎えに行くと玄関で1人の介護士が「昨日も転んでいたよ」と母親がいつものように転んでいたことを知らされました。しかし、2日後ぐらいに施設に電話して、様子を伺うと別の看護師が「何も転んでいないよ」と異なる事を言いました。私は勘で「嘘だな」と思いました。家では時々転ぶため至る所に、クッションを置いて、転んでも怪我をしないように工夫していたためです。そのためケアマネは「溺愛している」と評価していました。そして母親は、ケアマネや複数の施設の介護士や複数の病院の看護婦に「最高の息子」と息子である私の事を聞かれると話していました。
その後、母親の肌の黒い斑点が病でないか、また15日に転んだ時の抜糸をするため、2回母親を迎えに行って、病院に連れて行ったのですが、トイレに行くと言ったので、トイレに連れて行くと、パンツだったのが、オムツになっていため、病院の先生が「施設や病院に行くと、認知症が悪化する」という警告を、思い出し、後悔しました。また、家にいた時より、元気がないことに気付きました。前記でも記載しましたが、元々母親は、私と一生過ごしたいと望み、施設に行くことを、拒んでいたこともあり、1月18日の入居時、私の帰り際「一生ここにいるわけじゃないよね、直ぐに迎えに来るよね。必ず迎えに来るよね」と寂しそうに語っていました。ちなみに、19日の病院での検査時には、よほど帰りたかったのか、タクシー内で「運転手さん、家に向かって、病院には行かない、誰が行くか」などと、可なり荒れてもいました。
これらの証拠です。
そして、2月7日に、施設から電話が来て「熱が出ている」「転倒して、おでこにコブが出来た」と言われました。母親には、薬アレルギーがあったので、解熱剤を使用しないよう伝えました。ちなみに、熱は免疫反応なので、海外では数年前から解熱剤は使用していません。日本だけが使用しています。検索してください。
そして、2月9日に、迎えに行くと、熱はなかったのですが、オムツを代えていなかったため、ズボンが汚れ可なり尿の匂いがして、元気がなく、家に付くと、頭が痛いと言ったため、後頭部を見ると、約20か所コブが出来ていて、毎日のように転んでいたことが分かりました。さらに、体調を聞くと「どこも悪くない」と言ったのですが、声が枯れていたため、施設での熱の原因を調べるため、病院へ行くと、熱はないが、インフルエンザと診断されゾフルーザという薬を処方されました。その時、薬剤師は、副作用の事を全く説明せず「直ぐに、これだけは飲ませるように」と言ったため、私は危険性を調べずに、飲ませてしまいました。
後で調べると、タミフルよりも危険性が高く、高齢者には注意が必要という事を知り、愕然としました。
その後、気付いたのですが、母親の様子が変化して、座っていても体が自然に左に傾くという現象が現れ、また数日後には、左半身が麻痺し「左手と左足が動かない」と朝に、パニックになっていました。そのため、病院で、2月13日に急遽、脳のMRI検査をすることにして、検査したのですが、その時は異常が無いと言われ、また頭を打った場合は、数カ月間、見守るようにと説明を受けました。以前にも、病院で同じような事を言われ慢性硬膜下血種という危険な状態と、早期発見と早期治療で完全に治るという事を知っていました。
その後「トイレではトイレから落ちる」「お風呂では、溺れる」「お風呂の栓を抜いて暴れる」「座ることが出来なくなり、直ぐに仰向けになる」「意識障害」という事が続き、何度も救急搬送しました。そして、複数の病院に行って、転んだことによる症状か、薬の副作用か調べました。また2月15日ごろから3日間、普通に歩くようになり、また左腕の麻痺も回復したので、薬によるものではないと医師に言われました。その間、市内の3件の施設の担当者と面会して、入居の相談をしていて、母親は、いつものように会話して、また左手の麻痺も回復していたので、市内の1件の施設に、3月19日に入居することが決まりました。その間、別宅のお風呂に入れると「こんなに寒いのに、こんないい風呂に入って、幸せだよ」と語っていたり、一緒におにぎり等を食べたのが、今では懐かしいです。
その後、転倒すると、意識障害が発生して、救急車で何度が運ばれ、また3月1日と2日に、自分でオムツを脱いで、布団の中で、大便をしており、3日には小便だけで済んだのですが、3日連続、トイレ3回、お風呂4回掃除して、布団を丸洗いするという事が、続いたため、私は、床に寝て、母親をソファに寝かせて、一晩中見守るという事になりました。
その間も青森市の県立病院に行き、1か月前に脳のMRI検査はしていたので、脊髄の検査だけをして、脳の検査は、医師に進められ改めて弘前大学病院で、行う事にしました。
当然医師には、頭を何度も打っているので、慢性硬膜下血種になる可能性があり、数か月見守り変化があったら精密検査するようにと、言われました。この時、意識障害は無く、言葉も話していました。
その証拠です。
そして、全てが奪われた3月13日
早朝、母親の意識状態が悪化したため、私は、救急車を手配しました。
しかし、市内の病院で、救急搬送が重なったため断られ、隣の弘前市の国立病院に搬送されることになりました。当時、救急隊員は「この状態で、断るかよ」「他の市でも良いか」と言われたので、私は「どこでもいいから連れて行ってほしい」と頼みました。
そして搬送された病院で、約3時間後、回復して帰宅することになったのですが、予定外の出費尚且つ請求された金額が、市内の病院の3倍であったため、帰りのタクシー代の料金が無くなり、また、母親の食事代と翌日の弘前大学病院での検査費用と入院費用、さらに市内の病院に運び込まれた時、母親は、タクシーに酔うので、いつも私が自宅に帰り、自家用車で母親を迎えに行っていたこと、そして初めて行った病院で、場所が分からず、さらに弘前市の道路は殆ど迷路であるため、自宅に帰っても自家用車で、国立病院に着ける自信がなかったので、前日連絡して、当日行く予定だった病院に、移動して、再度診察してもらい、そこから自宅に帰って、母親を迎えに行くことにして、タクシーでその病院へ向かいました。
ところが運悪く、昼休みで病院関係者を確認することが出来ず、患者だけが居ました。すると患者に付き添っていた奥さんと思える人が、夫に「時間があるから買い物に行ってくる」と告げて出て行ったのを見た私は、ついつられて、その夫に「私も車を取りに行くので、母を見て居てください」とお願いし、母親に「車を取りに行くから待っていてね」と言うと、母親は「気を付けて行ってね。待ってるよ」と言ったので、自宅へ向かいました。
そして自宅へ向かい自家用車で駆け付けたのですが、母親には転んで出来たアザがあり、また認知症であったため、病院関係者に上手く説明できず、病院関係者が警察に通報していました。
警察は、アザを見て虐待を疑っていたので、私は警察に対して、ケアマネ・病院関係者・施設の関係者・救急隊員などに聞けばアザが、怪我によるものであることを証明できると説明して、警察は約3時間かけて捜査し、疑いがはれ、帰っていいことになりました。
ところが、その直後に黒石市の無責任な包括支援センターの悪質な担当者が現れ、「疲れていそうだから、数日間預かる」「貴方が母親を病院に連れ回っているから母親が衰弱している」(衰弱しているから救急車を手配し、また病院で原因を調べ治そうとしているのにと私は思いました)と言われたのですが、私は、約1カ月平均1時間しか寝ておらず、さらに、3月は床で寝ていたため、つい母親を、渡してしまいました。
それが、人生最悪の選択で、元気な母親を見る最後になるとは知らず・・・・・・・
その時、母親は、なぜか「水を130CC飲みたい」と言ったらしく、警察官に意味を問われ私も初めて聞く言葉であったため、「分からない初めて聞く」と言って、自動販売機から、ミネラルウォーターを購入して、警察官に渡しました。それが、私が最愛の母に渡した最後の食料でした。
彼らに最愛の母親を渡さなければ、複数の医師の指示があったため、慢性硬膜下血腫の検査をするため、翌日、弘前大学病院で脳のMRI検査をする予定でした。
しかし、翌日黒石市に連絡すると「母親の居場所は教えられない」「理由も言えない」「命を守るためだ」などという回答でした。私は、母親が、頭を何回も打っていたため、慢性硬膜下血腫の可能性が高く、直ぐに検査して治療すれば簡単な手術で治ることを知っていたため、直ぐに病院に行くように言ったのですが、受け入れられなかったのです。それにより、PTSDになりました。母は、早期発見早期治療で病が治り、現在も生きていました。
そして、1週間が過ぎ、2週間が過ぎたころ、ようやく「15日に、息子に背中を叩かれた」と発言したことを知らされ虐待法で動いていると言われました。しかし、そのような事は無く、認知症の人は、被害妄想があり、現に母親は盗まれていない物を、盗まれたと騒いだり、私を認識していない時もありました。複数の証人がいます。また病院に連れて行った時、抱き上げると、掴んでいる背中が痛いとか、背中の床ずれに薬を塗っている時に、痛いと言っていたり、救急車で運ばれた時の検査時に、看護師が抱えた背中の痛みを訴えた可能性もあります。しかしそのことを、説明しても、無視されました。そして後になって、床ずれがあったから、きちんと介護していないなどと、話を黒石市が替えた。3月9日ごろに床ずれの治療のため、黒石病院に行っているにもかかわらず。彼らは、虐待が無いことを調査で知り、ミスを隠蔽するため、私を悪党扱いし始めていた。そもそも3月13日に、弘前警察所の警察官が捜査して、虐待が無いことを確認している事実がある。その後、私は母親が、3月から布団の中で自分でオムツを脱いで排便するため、施設の人に面倒を掛けていないか気になり、そのような行動はしていないか担当者に尋ねると、その輩は「大便をしているところを撮影できない、それは虐待だ」とわざわざ法律の書いた書類を見せて、訳の分からない事を言い出す始末であった。その後も担当の男職員二人は、電話していても途中で切るなど、私を侮辱して差別する行動や発言を繰り返した。
彼らは「母親の命を守るために預かった」と言ったが、病院に連れて行っていないとも言い、早期発見早期治療が必要な慢性硬膜下血腫の検査を、行っていないのは明らかで、彼らから奪い返さなければ母親が殺されると思い3月28日に、私は役所に耐え切れず再び抗議に行った。すると輩らは、私を排除するため警察に通報した。そして私が、駆け付けた警察官に事情を説明すると、その時の警察官は「気持ちは分かる」と言って、何のお咎めも無く帰ることが出来、次の日、母親に会せるという事になっていたので、その事を説明すると、担当した警察官は「明日も立ち会うけど、私ではなく、他の担当者が来るから」と言われた。その「他の担当者」によって、不当に拘束されるとは、その時は、予想できなかった。
29日、私は母親のために抹茶プリンを作り自宅で食べさせようと冷蔵庫に入れて現場に向かったのだが、明らかに傲慢な「他の担当者」が出迎えた。
そして、役所の2階で、約2週間ぶりに、母親にあったのだが、母親は急変していた。母親を奪った翌日、市役所の職員は「急変したら走ってくる」とか言っていたが、普通に会話していた母親は、たった2週間で、尿道にカテーテルを入れられ背中に尿が入った袋を背負い車いす、さらに全く何も言わず、全く私を認識せず、目を開いているだけの植物状態になっていた。
普通、自分の親が植物状態になったら救急車を手配して、精密検査して、入院させる。
当然、私は、ショックでPTSDが悪化し、このまま彼らに母親を預けていると殺されると思い、とにかく居場所を教えること、施設に対して病院で精密検査するように託すことなど、何度も嘆願したが、彼らは一向に「居場所は教えない」と突っ撥ねた。
さらに警察も「お前、居場所、知ったら行くだろ」と・・・
逆に聞きたいが植物状態にされた母親を救いに行ってはいけないのか?
全ての国民には知る権利がある。
親子が、幸せに暮らし自由に生きて、一緒にいることは、憲法が保障している事実でもありながら・・・
そこで私は、母親の命を守るため、母親の車いすを掴んで、泣きながら場所を教えるように言い「母親を殺すなら私も窓から飛んで自殺する」と言って抵抗した。
すると私の隙を付いて、彼らは母親を抱きかかえ他の車いすに移して拉致して行った。
(後の警察の嘘の証拠となる出来事。私は、車いすを掴んでいたので、母を奪われた)
直後に私は「他の担当者・悪い警察」に「自殺するならアナタを保護する」と言われ服が裂けるほど複数の警官に羽交い絞めにされ確保されてしまった。事実上の逮捕。
不当逮捕
ここから地獄であった。数時間牢獄で拘束された後、若い精神科医が、数分だけ診断して、私を躁状態と判断、そして次の精神科医へ送られることになった。その道すがら、悪徳警官は、私を質問攻めにして煽り興奮状態にして、私の仕事が温暖化を止める技術を保有しているエンジニアだと知り、病院へ到着すると、私に対して、私が躁状態であるように誘導するため「仕事の事を言え」と何度も誘導した。前記事実は保健所の職員が目撃している事実。私は温暖化を止めて世界を救う才能に自信があったため、「温暖化を止めて世界を救う仕事をしているので、早く返してほしい」というと、信じてもらえず、二人目の医師も数分だけ話しただけで、躁状態と私を診断して、私は国連が2年前に人権侵害として、日本政府に廃止勧告している強制入院・措置入院させられてしまった。つまり、私も拉致監禁されたのだ。不当に・・・後に分かったことだが、二人の医師は、警察が記載した虚偽の報告書で危険人物と判断していた。(公文書偽造)
そして、措置入院場所に到着すると、担当の医師から出た言葉は「母親の腕を掴んで離さなかったんだって」という事実無根の言葉だった。つまり、悪徳警官の不当な公文書偽造である。それによって、私は、全てを失う事になる。
そもそも愛する母親を奪われ、2週間で植物状態になっているにも拘らず、適切な治療もせず「こうなりました」と市役所職員に言われたら誰でも躁状態になるであろう!
その後、それでも私は諦めず何度も黒石市役所に電話しメールして、早急に母親を検査しないと死亡する恐れがあることを伝えたが、彼らは無視して、何もしなかった。
複数の医師に、毎月検査が必要と言われていたにも拘らず・・(書類もある)また彼らは、薬アレルギーがある母親に、睡眠薬を処方していた。ちなみに、母親は、20時間寝ていることもあるのに・・・また睡眠薬は、眠る薬ではなく「気を失わせる薬であり高齢者は危険」である。世界の常識
そのため、彼らは、現在も詳しい説明もせず謝罪も無い・・・
彼らは、当初から「お変わりありません」と、言うだけであった。
つまり、故意に見殺しにした。母親の生きる権利を奪った。
特別公務員職権濫用等致死傷罪
「公務員が職権を乱用した結果、人を死傷させた場合、特別公務員職権濫用等致死傷罪に問われます。
人を死傷させるという結果は、一般人がおこす事件と変わりありませんが、通常の傷害(致死)罪などよりも重い刑を科すと規定しています(刑法196条)」
私の必死の願いが、またも無視され・・
3月に親子共に拉致し、5月になっても無視、そして、止めを刺した。
その後も、電話しても一方的に切る。メールも担当部署に届いていない・・・・・
証拠です。
彼らは当初から必要な事は、何もせず。不必要な事だけを職権乱用し、人権侵害し続けた。
公務員は、昇進するため「責任問題」を避けるため、自分のために他人を犠牲にする
何度言っても、何カ月経っても私の名誉を傷つけ、母親に、私を会わせなかった。
証拠です。
上記書類でも分かるように、母は3月まで普通に話していたが、2週間で植物になったのに、変わりないという信じられない返事。無責任。自分の親でないからか!
私は、何度も4月に、当初の予定よりも、早く退院できることを伝え、国連が2年前に人権侵害として廃止勧告している後見人を、母親に付けないように、嘆願していた。母親の事を一番理解し、親子共にお互いを溺愛し、仲の良い兄弟のような親子であっため、後見人という人権侵害は、絶対に許せる存在ではなかった。全ての権利を奪い他人から財産をせしめる偽善事業だからである。国連が勧告した事実!!
上記メールでも分かるように、私は母親を溺愛し、母親の命を、輩から守るために必死であった。そのため、後見人など必要なく、私以外に、母親の意思を尊重できる人物、そして、世界で唯一、母親の命を守るボディーガードであり、主治医であった。
また、病院では、主治医の医院長先生が、直ぐに私の本質を見抜き、隔離室から翌日に出し、薬や注射も一切処方されず、本来ならできない外出も仮退院という名目で、2度外出し、勧告された期間よりも早く退院し、退院後の監視や通院もない。
(当初は、3カ月の予定であったが、県知事の命令であるため、医院長先生は、1か月を目標に頑張りましょうと言った。しかし市役所の名誉棄損によって、1か月長く入院させられることになった)
そして、非情も黒石市市長は、私が拒否し続けたにもかかわらず無断で、5月15日に、後見人を付ける申請を勝手に裁判所にして、私と母親を、再度引き裂いた。
これが、最悪の結果を招く・・・
申請は、直ぐに通り、5月30日に決まるが、サイコの後見人は、私に何の連絡もしなかった。当然黒石市も・・・
そもそも、5月初めに、私は、母親を心配するメールを送っている。これの何処が不適切な人物なのか!上記
そして、私が退院して、7月の初めに黒石市役所に連絡すると、ようやく後見人がいることを、明かした。しかし、後見人の名前を教えず、電話番号も教えてくれなかった。挙句の果て、後見人の都合で、直接会わない限り何も伝えないとか、聞きたいことがあるなら裁判所に聞けと言って、電話を途中で切った。何度も・・・
ちなみに、6月15日に私は退院していたが、連絡が遅れたのは、私が入院時、何度も退院後は1人で暮らすことになるとか母親に会いに行ってはいけないなどの治療があったため。
この理由は、警察の公文書偽造であった。そして市役所の名誉棄損。そもそも1か月で退院することになっていたが、市役所からのクレームで、入院が倍になっている。それが無ければ、私は母親に会えて、母親の命を救うことができ、後見人もいなかった。
そして、ようやくサイコ後見人が来たのは、数週間後の7月22日
サイコ後見人は「危険な状態だが、母親の場所は教えない。その代わりタクシーで連れて行くが、タクシー代は、母親の年金から取る(母親の年金は、月に3万円。後見人の受け取る金額は月に10万円。タクシー代は、3万円)それが嫌なら、お前が出せと言われた。
すかさず同席した市役所職員は「親がアブねーのに、カネ出さねーのかよ」と煽る。
私は、こいつらに母親を預けたら殺されると思い、母親を病院で検査入院させるため、何度も辞任して、私を後任にするように頼んだ。
そもそも母親を治療すれば治ることを数か月、言い続けてきた。
しかし、彼らは全く治療せず、病院へも連れて行かなかった。
そして、辞めさせるのであれば、母親が危篤でも会わせないとも脅された。
また直ぐに会わせるのか聞いたが、彼らは、これから日程を決めると、母親が危険な状態であるにも拘らず、直ぐに会わせようとしなかった。
そのため、私は再度辞任するように訴え、ようやく後見人が「辞任する」と言って帰っていたため、次の日から2日連続裁判所に電話して、後見人が辞任するから、直ぐに私を後任にするように連絡したが、裁判所からは「全く連絡がこない」と言われた。
そのため、私は後見人に電話連絡すると「辞める気はない」と言われる。
市役所を通じてケアマネから私が母親を溺愛している事実、母親が私を「最高の息子」と言っている事実があることを聞いているだろうと質すと「親を病院に置きざりにする奴が溺愛かよ」「お前、カネなんぼ持ってんだ」「車、あるのか?」(私は、母親の介護を優先させていたため、仕事が殆どできず、また母親が施設から帰宅後、急変したので、予定外の医療費、また母親を優先させた結果、株でも損し、さらに強制入院させられたため、車を売っていた。そして、その金で、母親を大学病院で精密検査して、治療して、回復させようとしていたにも拘らず)などと侮辱した。そして口論になると、「裁判所に報告するからな」と脅して、サイコの後見人は電話を切った。
結果、何度裁判所に行って、正当な事を訴えても、非情な裁判官は、母親の居場所を教えてくれなかった。一方的に、後見人が言う事が、全てなのである。最悪。
その後、市役所が仲介して、後見人と話し合う事を模索したが、叶わなかった。
そもそも3月13日に2時間で弘前警察署が捜査して母親を溺愛していることを突き止めたのに、市役所は後見人を付けて、下記の対応・・・異常
証拠です。
そして、最悪の日が来る・・
8月27日午後2時、市役所職員二人と、黒服の3人・黒石警察署の警察(黒石市が私が報復すると思い手配した)が訪れ、母親が死亡したと連絡しに来た。
サイコ後見人鹿内葵が犯行予告した「危篤でも教えない」という脅しを実行した。
後に、施設によると、危篤後直ぐに後見人に連絡していた。母は、私に会うため、30キロの小さな体にも拘らず、数日間生き続けて、私を泣きながら待っていた。
母の遺体は、死亡して4時間しか経過していないのに、手が水死体のように膨れ上がり、目は赤くなり涙が浮いていた。足は、両足曲がって固まり、入れ歯は取られ顔は潰れ、小さくなり、中古物件のような安置所に、ただ布団が掛けられていただけであった。
火葬したが、母は火葬は望んでいなかった、大学病院で解剖しろとも言っていた。ちなみにキリスト教では、火葬すると地獄に落ちる。火葬は死者に対する侮辱である。日本は死者を生ゴミ扱いする国。母親は痩せていたが、遺骨は、殆ど残っていた。毎日、健康を考え食事療法で、健康を保っていた。高級な物を、毎日食べさせていた成果・・
そして、後頭部だけは、割れていた。何度も後頭部を打ったため、後頭部に血種が出来、一瞬で高温で火葬するため、水蒸気爆発して、割れたのである。物理学
そして、死亡届には、老衰と記されているが、これは間違いである。何の検査もしていない。
慢性硬膜下血腫放置による脳ヘルニアと睡眠薬の副作用と最愛の息子に会えないストレスで、集団殺害されたのである。
証拠として、治療も手術もしていない。さらに、老衰まで1か月と記載されているが、1か月間危篤でも、後見人は何もせず延命もせず彼らすべてによって殺された。
そもそも1か月で老衰というのは不自然。親戚は医者だらけであり、私も知識がある。
3月まで、普通に話し、雪かきしていた。そしてバイタルも正常であり、明らかに、血液の成分に異常が見られたので、慢性硬膜下血腫が原因である。
彼らに母親を取られなければ、母親は治療して回復し、現在も生存していた。
そして、母の日、誕生日を祝い、100歳まで生きていたでしょう。
母親と私は共に違法に拉致され引き離され母は殺された。
母親は、人生の最後の半年間、私に会うことを願いながら会えず、精神的に虐待され、体の異常を訴えながら救急車も手配されず検査も無く治療も無く睡眠薬で健康を害し肉体的に半年間、虐待され続け苦しみながら悲しみながら、この世を去った・・・
私たち親子が何をしたのでしょうか?
何がいけなかったのでしょうか?
彼らを絶対許せない。
今は、ただむなしい、そして、悲しい。母親が不憫です。
本当は、彼ら家族全員を、抹殺してやりたいが、母は望まない・・・
この無念を晴らすため、世界世論に訴え、また裁判をしますので、抗議などの支援お願いします。
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