私から私への批評──「散歩と文学、ときどき哲学」を中心に

近々出る、「散歩と文学、ときどき哲学」という作品を愛してみましょう。これが出るまでには出ているでしょう。

極めて特権的な振る舞いで申し訳ないのですが、私はこれを読んでこの日の散歩をありありと思い出しました。しかし、いくつかの箇所はよくわからず、いくつかの箇所は文学的過ぎ、いくつかの箇所は哲学的過ぎました。さらに言えば、最後のあたりに来るまで「今日は推敲も修正もしない」と言っていたことを忘れてしまっていました。なので、少し「推敲」し「修正」してしまいました。ただ、これもまた「生きるとはそういうことだ」と言えるようなことなのでしょう。

さて、この作品は私の文脈が次々と出てきていて、しかも次々とその文脈で私なりのアンサーを放っています。半分くらいは従来の私ですが、半分くらいは新しい私です。「新しい」と言ってもそれは「古い」ことに気がつけていないだけなのですが。

ちなみにこの文章は「帰って、充電ができたら、この散歩の、文章の美質をひたすらに讃えることにしよう。世界と私を重ねて讃える。そんな人に私はなりたい。」という私の願いを叶えようとするものです。なので、この文章は「散歩と文学、ときどき哲学」という作品を読んでいないとわかりません。

「作品」というのは「美質をひたすらに讃える」ことによって生まれるものだと思います。もちろん、批評もその一つに過ぎません。しかし、それは「美質をひたすらに讃える」ことそのものでもあると思います。

微妙にわからない。そんな箇所が私にとっては気になるところです。例えば、「もし、書くことが生きることなら、私は書くものを持っていないからこれは明らかに余生だ。余生として長く生きるのは難しそうだから、表から裏返したものを裏返したことになって表になるのだろうか。」とかでしょうか。ここでの「これ」とはなんなのでしょうか。「書くものを持っていない」というのはどういうことなのでしょうか。私は(この時点で充電は「4%」だったので充電はなかったのですが)携帯を持っていたので「書くもの」はあったと言えばあったでしょう。それとも「書くもの」は道具ではなく中身、書くことのことを指しているのでしょうか。しかも厄介なのは、私はこれを書いたとき、「ああ、『余生』ってのがなにか、わかっちゃった。」と思って書いていた記憶があることです。ここではむしろ「極めて特権的な振る舞い」をできることが災いとなっています。私はこの災いを「福となす」ためにこんなことをしているのかもしれません。

極めて優れた箇所を挙げましょう。例えば、先ほど挙げた箇所の直後、「たまに雲に隠れる。太陽が。だから太陽信仰は可能なのだろう。」という箇所です。これに似たこととして私はこんなことを書いたことがあります。「もし猫が眠ることがなかったら私たちは猫を愛せるだろうか。」みたいなことを。その変形の一つがここに挙げた箇所です。どちらが優れているかは難しいですが、猫のやつのほうが優れている気がします。

その理由はアガンベンが『哲学とはなにか』で展開している以下の議論によるものである。私はこの議論に、価値観に、趣味に強く共感しているのである。

イデア─要請─は現実化されたものの眠りであり、生の睡眠状態である。あらゆる可能性がいまはただひとつの錯綜した状態のうちに包み込まれている。それは生をひとつひとつ展開し説明していくだろう。部分的には、すでに展開し説明してもいる。だが、一歩一歩と展開し説明していく過程で、イデアのほうはますます自分自身のうちに閉じこもり、錯綜の度合いを高めていって、説明しがたいものになっていく。イデアはそのあらゆる実現態のうちに未決定のまま残っている要請であり、目覚めを知らない眠りである。

『哲学とはなにか』(上村忠男訳) 60-61頁

しかし、私にはこの趣味、価値観が何であるか、それを明確に語ることができません。もしかすると明確に語れないなら私が明確に語ってやるよと思ったのかもしれません。散歩中の私は。

他にも優れた箇所があります。しかもその箇所には明確な呼応先があります。というか、私はそれを発見できます。実際に呼応していたわけではないと思うのですが。まずはその箇所を引用しましょう。

立ち止まる。久しぶりに立ち止まる。小さな小さな花を見つける。足に何かがたまる。花は微かに揺れる。かすかに。微かに。「微」、これ、花に似てる。この花には似ていないけれども。

「散歩と文学、ときどき哲学」

この箇所に呼応している文章も引用しましょう。と、思ったのですが、その箇所がどこにあるかはわかっていてもそれがいま手元にないので仕方ないのですが今日は孫引きにしましょう。

私は今は偶然性の誕生の音を聞こうとしている。「ピシャリ」とも「ポックリ」とも「ヒョッコリ」「ヒョット」とも聞こえる。「フット」と聞こえる時もある。「不図」というのはそこから出たのかも知れない。場合によっては「スルリ」というような音にきこえることもある。偶然性は驚異をそそる。thrillというのも「スルリ」と関係があるに相違ない。私はかつて偶然性の誕生を「離接肢の一つが現実性へ"す"るりと"滑"ってくる"推"移の"ス"ピード」というようにス音の連続で表わしてみたこともある。

『九鬼周造随筆集』147頁(『意味がない無意味』220頁から孫引き)

ここには音によって偶然性を表現してやろうという気概がある。私のものは気概としては劣るかもしれないが、漢字の形と花の形とを接合することによって漢字の形性と花の形性に新しい発見を促している意味では同じようなことが行われていると言えるだろう。まあ、九鬼のほうがより私たちに訴える力を持っているかもしれないが。これは知識量の差である。

ただ、それに負けないようにするとするならば、ここでの「微」が「ビ」という音であるところ、そして「花」、さらには「立ち止まる」とか「足に何かがたまる」とか、そういうことと繋げられる俳句がある。川端茅舎の次の句である。ちなみにこれも孫引き?である。『鑑賞 日本の名句』で私はこの句を見つけた。

花杏受胎告知の翅音びび

『鑑賞 日本の名句』43頁

これはもちろん偶然の取り合わせである。たまたま、一つ目の孫引きをしているらへんで思い出した。

ここからも無理やりたくさんのことを絡ませて、たくさんの粘液を感じることができる気がしますが、ここでしたいのはそういうことではないのでここまでにしておきましょう。ただ、何がしたいかと言えば、言うなれば「散歩と文学、ときどき哲学」の「美質」を語ることで、それ以外ではありません。ただ、この語りに私は「世界と私を重ねて讃える。そんな人に私はなりたい。」という方向性も示しています。だからただ「美質」を語ればいいというものでもないのです。

この散歩のテーマであると明言されている「外皮」について考えましょう。私が「外皮」について書いているのは以下の三つのところにおいてです。

やっぱり暑い。14時だ。外皮が暑い。外皮があることで暑い。服。皮膚。暑い。

「散歩と文学、ときどき哲学」

いくつかのことが思われ、そのどれも書かなかった。「暑い」ということは書いたが、それは「外皮」という発見があったからだ。

「散歩と文学、ときどき哲学」

木が揺れている。葉がたわんでいる。たわみ続けている。私はそれをいくらでも見ていられる。仮に私に「外皮」がなければ。すべてが「外皮」であるがゆえに「外皮」がない。その逆説が効いている。これは一つの詩。また思い出すだろうから。この散歩のテーマは「外皮」。家を出て数歩で決まっていた。

「散歩と文学、ときどき哲学」

ここで重要なのは最後の引用でしょう。もちろん、散歩全体にとっては一つ目も二つ目も重要で、しかしそれは三つ目を理解することから理解されます。

ここで一つ重要なのは「外皮」ということを理解するためには「内/外」という対比とその対比における「/」が「皮」という厚みを持つことです。そして「皮」は「内」を「身体」として設定することでしょう。ここは私の特権性を極めて強く発揮してしまうのですが、「仮に私に『外皮』がなければ。すべてが『外皮』であるがゆえに『外皮』がない。その逆説が効いている。」と言われていますが、ここで「逆説が効いている」と言われているのはどのようなことなのでしょうか。それは人間が世界のうちに「異常ではない」仕方で「存在している」ことに「逆説が効いている」ということです。逆に言えば、この「逆説が効いている」限り、私たちは「異常ではない」仕方で生きていられるし生きているしかないということがここで言われています。そうなると、「逆説が効いている」ことが見えるのは、わかるのは、「異常」か否かという境界線を跨いでいるあいだだけです。その間隙がここで語られているのです。この三つ目の引用のあと、私は次のように書いています。

世界に膜がかかっていない。私は世界と接地している。木は世界のなかで異常ではない私のように存在している。木が揺れるとそれが見えて嬉しい。ずっと嬉しい。たぶんそう。

「散歩と文学、ときどき哲学」

あらかじめ「異常ではない」という文言を借りてしまっていて申し訳ないのですが、ここで言われているのは「外皮」が「膜」になり、それがまた「世界に膜がかかっていない」という形で「身体」を取り戻すという関係です。ここでの「木」と「世界」は「私」と「世界」のメタファーであり、「揺れる」とか「たわむ」とか、そういうことは「私」が生きることのメタファーなのです。私は「私」と「世界」ごとメタファーにできたことをこの三つ目の引用の後に書かれたことによって理解したのです。もちろん、先天的にそういうことを理解していたから「木が揺れる」、ただそれだけのことをずっと澄んだ目で見ていられるという形で。これはもちろん詐称ではあると思うのですが、それは生きるために必要な詐称なのです。

「異常」か否かは「私」と「世界」が「接地している」か否かで考えられるし、「接地している」か否かは「私」がメタファーによって語られるときにのみ問いうる。これが「逆説が効いている」ということなのです。「私」をメタ認知しないことによって「私」は認知できるという「逆説が効いている」のです。メタ認知している限りは「私」に「膜」がぴたりとくっついているか、「世界」に「膜」がぴたりとくっついているかするしかないのです。「外皮」はその「膜」を「内/外」を新しい形で語ることで刷新しようとするテーマなのです。

私はかつて、こんな句を書きました。

大木の皮膚が剥がれて苔生して

季語はないので句ではないと言われるかもしれませんが、しかし私はそれを俳句的に受容したのでこれは俳句です。それはいいのですが、ここではまだ「皮膚」という表現によって「内/外」がないかのように語っています。もちろん、それは「私」と「世界」が「接地している」とすら言われる必要のない、私が上で断念した「世界と私を重ねて讃える。そんな人に私はなりたい。」とすら言わなくてもいい境地です。だから、私はこれを書いたときのほうが悟っていたのでしょう。しかし、私は悟りたくないと思って、そうすることで生きていけるのです。おそらく。

「苔」について私は次のように書いています。

苔はいくら乾いていても湿っている感じがする。

「散歩と文学、ときどき哲学」

この「湿潤/乾燥」の対比は私の生き様の対比なのです。もちろん、このときに書いたものはいつまでも素晴らしいものですが、そこで生きていけるほど私は強くもなかったし弱くもなかったのです。私はやっと、私がなぜ次の表現に感動したのかがわかりました。

木が揺れる。比喩が生まれる。その繰り返し。

「散歩と文学、ときどき哲学」

これは私の生活なのです。「木」は「私」なのです。それを愛して、私は生きているのです。ここで私が「散歩と文学、ときどき哲学」を愛しているように。そして「作品」と「比喩」は同じことなのです。私は最後、この表現に書き継ぐ形で、充電が切れるスレスレで、次のことを書いています。おそらくこれがこの散歩の絶筆でしょう。

いや、正確には比喩が生まれそう。予感がある。その強度が増していく。

「散歩と文学、ときどき哲学」

この後はよくわからない、謎ですらない言葉があるばかりです。しかし、それがあることで言葉の謎性が、湿っぽかったり、乾いているふりをしたり、そういう人間的なところが示されているようにも思えます。

もちろん、これは一つの読み方である。しかも、この解釈と矛盾するようなことがいくつも書かれている。しかし、矛盾すればするほど、錯綜すればするほど、「作品」はそれになるのである。私はたしかに特権的な解釈者ではあるが、矛盾したり錯綜したりしにくいという意味では最も弱い解釈者なのである。しかし、そもそも「特権的な解釈者」というのは「強い解釈者」ということではない。そのねじれをリアリティとしてフィールする、この軽さ、ルー大柴的な軽さがここからは必要なのではないだろうか。

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