湯船でぷかぷか考えた

湯船でぷかぷか考えたことを連鎖にして、ただの連鎖にして、みよう。してみよう。して、見よう。

私はお風呂に入った瞬間思った。こんな鮮明に思ったわけではないが、「可能性から相対主義まで、どうやったら移行できるのだろうか。」と。別に私は移行したいわけではない。ただ、相対主義を理解するためにはそうするしかないと思った。わけでもない。ただ単にそう思ったのだ。

「絶対的な/相対的な-絶対主義/相対主義」の入不二基義と「ぼおっと/しゃんと-ぼおっとする/しゃんとする」の福尾匠、この関係がなぜか浮かんだ。ぷかぷかぷよぷよ。(精確には福尾はこんなこと言っていない。)

「二重性が二重性になる」は「理解する」を極めて非人間的に記述する場合の記述法の形式的な記述である。その二つの典型的な書き方は一つのものが二つになり、二つのものが二つになるというものと複雑なものがこの図式なら理解できるというものである。

あと、なに考えたっけなあ。ああ、考えてはないけど、定期的に湯船に暖かいお湯(お湯はそりゃ暖かいんだけども)が送られてきて、足をリズムよく動かして全体に行き渡らせるのはとても楽しかった。前まではホルマリン漬けにされた都市みたいになるのが楽しかった。

ああ、あとはあれか。明日アルバイトで、しかも人がいなくて、だから私はめちゃくちゃ自動的になるから、それを享楽して、その享楽を書いてみたい、みたいなことを思った。千葉雅也の「儀礼」概念を理解するための手掛かりにするために、みたいな意味が強いと思う。

他にもいろいろ考えた、というか感じたというか、そうしたはずなのになにも思い出せない。とりあえずこれくらいにしておくか。仕方ない。

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