2024/10/31
やっぱり人間には継続性、同一性がなくて、しかしそれは要求されて、なぜか要求されて、だから私たちは苦労してそれを作り出す。しかしその苦労そのものが一つの同一性、継続性の手がかりなので間違ってしまう。飛びついてしまう。そしてそれはそれで幸せなのである。それ自体を欲していたのだから。
哲学を離れ、私は文学の人となる。それを何度か夢見たのだが、私はやはり、怖くて恐ろしくて、やっぱり哲学に戻ってしまう。嗜癖なのだ。アディクションなのだ。
私は幸せである。しかし、私は「私は幸せである」と言わなくてはならないと思う。それが不幸せの原因、もしかするとそのすべてなのかもしれない。ただ、そもそも「幸せ」は他人がいるから生まれるものである。いや、もしかすると概念はすべてそうであり、世界はすべてそれなのかもしれない。世界は他人によって満たされていて、私はそれを確認しないことによって満たされる唯一の存在なのである。
魂が私から出ていく。跳ねてゆく。私はそれを見送り、殻となった、そして固まった、そんな私、身体から魂を掻き出す。蟹の甲羅からその身を掻き出すように。そして空になってやっと、やっと私は生きていこうと思うのである。魂が重いわけではないと思う。ただ、殻が重いわけでもない。引き剥がしきれない、掻き出しきれない、その剥がれにくさこそが魂の重さなのである。
やけだ。やけに澄んでいる。やけに済んでいる。やけになっている。野焼き。鉦叩き。「まつくらな那須野ヶ原の鉦叩」。
一つのビー玉がころころ、地面を転がってゆく。一つの皮膚が切り裂かれ、それが修繕されてゆく。生命は宿り、私たちは生き、私は生きられなくなる。一つのビー玉がころころ、地面を転がってゆく。ゆく。ざらざらざらざら、地面とビー玉は同じ形になってゆく。表面を共有してゆく。ゆくゆくは。
私は鯉を見ていた。小学校の中庭で。さまざまなところから先生の声が聞こえる。私はそれが青いことに気がついている。空が青いことに気がついている。鯉を見ている。でも鯉はいなくなる。鯉はいなくなる。私はそこに映った、藻によってふさふさになった青空を見る。そして空を見る。上を見る。先生が見ている。あ、という顔をする。おたまじゃくしを側溝から救う。掬う。水が身体の、半分にまで届いていない。お腹が擦れて痛いだろうな、などと思う。蓋の下も掬いにゆく。救いにゆく。母親が私の名前を呼ぶ。先生が母親に電話をかける。先生は呼ぶ。どうやって呼ばれていたのかは忘れたが。
これらは半分くらい作り話で、これらは半分くらい本当の話である。記憶違いで済ませば良い。それゆえにこの話は私なのである。私はこれを語ることで私を生き、守っているのだ。きっと。そしてやっと。ソーシャル。
キメラ仮説。私はたくさんの他者の集まり、寄り合い。そんなふうに言うことがある。どうしてなのだろう。わざわざ。わざわざ言わなくてはならなかったのだとしたら、それはどうしてなのだろう。
引き剥がされるのが痛いのは、どうしてなんだろう。どうしてなんだろう。瘡蓋。あれは剥がれることに理由が付けられてしまうから、でも、だからこそちゃんと痛い。痛いに値する。値しないもの、しかし痛いもの。痛切なもの。ああ何だか涙が出そうだ。悲しくもないし、おそらく寂しくもないはずなのだけれど。
不躾というか、粗暴というか、他人の言葉は大抵そのように見える。ただ、私も言い訳ができているだけで、それでやっと胸を撫で下ろすことができる。そして忘れる。撫で下ろしたことを。それの連続で、そして麻痺して、やっと私は他人の言葉に訝しい顔ができるようになる。
ゾンビになったら撃ち殺してくれ、という懇願。あれはなんなのだろうか。そろそろ私は目が覚めるだろう。最後かもしれない。あれはなんだろう。死んだ後にはこれこれをしてくれ、という懇願と同じようなものなのだとしたら、私はそれがよくわからない。いや、よくわからないと言っておきたい。これは私の哲学の構築なのであり、一つの嫌悪であり、一つの愛であり、一つの倫理である。もし同じようなものではないのだとしたら、
頭を振ってしまった。Tob
終わり。
さて一つだけ、終わりと言ったが一つだけ、現実的というか、実践的というか、そういうことを書いておこう。
後輩が「化粧するんで待っててくださいね。」と言う。彼女は運転席、私は助手席に居る。車は停まっている。私は何か、考え事をしたり、しているふりをしたりして待っている。前を向いて。たまに横を見る。鼻の下を伸ばしている。ぽんぽんと柔らかそうなものでそこを叩く。「どうしたんですか?」と言われる。どうもしていない。「どうもしていない。」と言う。「かわいいですか。」と言われる。「いつもかわいいよ。」と言う。ふざけて。ふざけている、という粉を大袈裟に叩いて。ぱふぱふ。「ありがとうございます。」と言う。彼女はそう言う。本当のところは別に、別にどちらでもいいと私は思う。車を出る。ドアを閉める。鍵が閉まる。遠隔で。車のなかには誰もいない。
ふらっと笑われてくれ。
大きく深く、息を吐く。足先が寒い。もうそんな季節なのである。やけに寂しく、やけに澄んでいるのはそのせいだ。やけに澄んでいて、やけに寂しいのはそのせいだ。
すぐれた実践者は「実践するべきか否か」を見極める才覚に照らされている。
逆張りによって硬直しないためには逆張らせるものを満遍なくしなくてはならない。逆張りを誘惑してくるものを。これは一つの実践的配慮である。そして才覚である。
近くの街中華でラーメンセットを待つ。横のおばあちゃんが遠くを見る、さっき「やっぱりおいしいなあ。」と言っていたおばあちゃんが。
街のおじいちゃんおばあちゃんがたくさんいる。人は偏って集まっている。後輩が教えてくれた街中華。楽しみ。
ゆる言語学ラジオの「有名じゃないけど良い本、紹介します」というエピソードを聴く。聴きながら待っている。十全に聴くとはなんなのだろうか。「霊ってケアなんですよ。」
「その説明が人を救えるか?」いい問いだなあ。いい問いだなあ。反復。三回目から演技性が揶揄ってくる。揶揄ってくる。ただやっている。まだ待っている。
左隣におじいさんが来た。新聞を読んでいる。アンビエントだからくしゃ音、くしゃくしゃなる紙、ぺらぺらする人。聞こえる。とてもよく。
そろそろ来る。同じタイミングで注文した人にラーメンが来た。ラーメンが来た。炒飯も来た。
空間としてとても楽しかった。家に帰ってきた。いや、帰ってきてからもうかなり時間が経っている。コーヒーを混ぜていると金属同士の音がする。私は一人、一人、私は一人。
Ars longa,vita brevis.
この人は綴りを間違えただけなのではないか。という元も子もなさ。
実用性ってなんなのだろうか。「実用的ではない」という判断は何によって成り立っているのだろうか。わたしはぐらぐら、ぐらぐらしていて、だからよくわからないのだ。「文学は実用的だ。」と言われてもパンチラインに聞こえないのだ。残念なことに。
知らない分野の曲を聴く。友人が教えてくれた分野。名前は知らない分野。だから手探り。それ自体が今は楽しいのかもしれない。今は楽しいのかもしれない。
好きになることは単純に、たくさんたくさん触れている。それが好きなことなのだ。だから好きになるための方法はすべて、接触を継続させる連続を想定するしかない。才能とか環境とか、そういうのもその想定の想定解。
君のベットでお昼寝。今日はこっちでお昼寝。隣に私のベットがある。まだソファーである。あり続けている。
良いものが評価される世の中になって良かった。という人たち。私はよくわからない。ただ、眠たくてその違和感が何であるかを明確にすることはできない。コーヒー飲んだのになあ。飲んだのになあ。サックス。
5曲くらい聴いて去ってゆく。私はぐるぐるりんりんしている。「自信があるんだなあ。」と言われるかもしれない。知らない分野も楽しめるという自信。別にない。開発だから。それができるかどうかについては多少、多少自信はあるかもしれない。多少だけどね。
まったく形は違うけれど、私は憧れているのだ、おそらく。『Perfect days』に。しかし、仮に彼、名前は知らないが役所広司が演じていた彼がニーナ・シモンではなく、幸田文でもなく、もっとしょうもないと言われそうなもの、具体的なものは思いつかないがそういうものによって毎日を暮らしていたのだとしたら、そうだとしたらどうだったのだろうか。私の憧れは。
爽やかに過ぎる。かもしれない。曲には聴くべき時があり、時期があり、本にも哲学にも、それらはあるだろう。あると信じたい。私にはおそらくそういう思惑もあるのだろう。おそらく。
最短ルートではなく、しかし爽やかに。ルソーの情熱的言語。起源論。健康。建築。健康建築。健やか健やか。
ジャンルを人に、作品の一つ一つに、そこまで落とせるのならば、それはジャンルの新解釈であり、そしてそれこそがジャンルを救う。
有限化のためには無限が必要なわけだが、その無限とやらは何から生まれるのだろうか。そして生まれたことはどうやって分かるのだろうか。韜晦性に似た感触がそこにはある。ただ、有限化はいつも終わっていて、それはいつも待たれている。待たれている。待たれよ。
一人でカレーを作っている。明日も食べるのかなと思いつつ。一人でカレーを作っている。明日も食べるのだと思いつつ。換気扇は回っている。トラックは走っている。信号は点滅している。夜は迫ってきている。秋が終わろうとしている。秋が来ていたと知っている。知ろうとしている。
私が写し出されるまで、出されるまで待つ。ただ待つのではもちろんない。私は私のスキル、アートでもってそれを待つのだ。ただ、それは鍋のようなもので、肉から、そして野菜から、もしくは油から?わからないがそこから出てくる灰汁、灰色でやたらとクリームな、そんなものが出てくるのを待つ。火にかけられ。
長く挟まれすぎて、跡になってしまった糸スピン。かわいそうに。鍋の淵のようにも、海の口のようにも見える。海岸線を歩いていると当たる。流木?いや、むしろ蟻みたいな文字。大きな蟻としての流木。ながれぎ。
まだあった。糸スピンの跡。これはやたらとペンダント的であり、それゆえに白いその表面は首に見える。そろそろ煮込み終わる頃だろう。あの鍋のなか。
この論稿集には一つだけ、一つだけまだ読んでいないものがある。先ほど指を切った。痛。切ってしまった。やたらと大きな包装紙。ピンク色、濃いピンクと薄いピンクの境界面としての包装紙。やたらとぶかぶか、ぷかぷか、かぷかぷ笑ったよ。だから外す。蟹の甲羅がまだできていない。幼生。夭逝。銀の腹。
到底理解できないことだが、私は私の快楽を見つけられると信じている。割れ物、割れた割れ物を積み上げる。組み立てる。生まれ変わる。それ。あとはなんだ?文学的な快楽はないのか?そうだなあ、ない。
走り抜けてゆく。同じ体勢で。くり抜かれてゆく。異なる文脈が。壁となる。文脈が。割れない。その壁は。くり抜かれる。不在としての存在感として。
本の山、本の山、それを架ける本の橋。本の山となる本の橋。本の山、本の山、………本の山は高ければ高いほど、二つの山の高さを揃えることができる。
一対一の追いかけっこ、逃げる者から言えば逃走において、田んぼのあの、命ひしめける匂いを踏むこと、スローになることは一つのリズムであり快楽であるだろう。しかし、仮に一対多での追いかけっこ、追いかける者から言えば追走において、田んぼは、いや、それでもやはりそれは一つのリズムであり快楽であるだろう。しかし、なんらかの後ろめたさ、あの苛立ちの正体は命ひしめける匂いではなく熟練した麦踏として振る舞うことを強制するだろう。
暖簾に腕押し、それこそが間違いない実感であろう。しかし、暖簾はひらひらしていて、それゆえに腕押しであることが明白である。それによってクリシェにもなるのだが、しかしそれでも触り心地、予感はあるのである。しかし、私は暖簾なき腕押し感のようなものを感じている。尾崎豊、浅田彰、Tohjiの系譜を感じつつ。
問答を問いと答えに分ける。そのことによって応えるという領域を開く。多少強引にでも。それこそが私にとっての哲学なのである。少なくともその一つなのである。
ところで、私は私の文学的想像力のなさを文学的想像の只中では感じない。それはたしかに視野狭窄ゆえだが、しかし文学的想像力のなさを感じるのはもっと視野狭窄なのではないか。読み、読み、読み、そして書く。文学的想像力を守ること、それは一つの使命なのである。私はそれを自由に使えるわけでもなければ、貯蓄しようとして貯蓄できるわけでもない。ただ反復し、反復の過剰によって新しい、新しい文学が来るのを待つしかないのである。
怠惰を隠すためになされたことはたくさんあるかもしれない。しかし、その解釈が成り立つのはなぜなのか、私たちは考えてみなければならない。
彼の逃走はモットーであり、彼の逃走は………
やけに身体が小さく、小さく、しかし確実にあると思われる。まるで宇宙全体がどんぐりくらいの大きさになったように思われる。確実にそうなってはいないのだが。いや、そうなっていたとしても私たちにはそれがわからないのだが。わかるはずがないのだが、それが仮に私たちの想像力を楽しませるだけではない力を持つとするならば、私たちは私たちであることを知るだろう。いや、むしろ「私たちは私である!」と宣言するときにやっと私たちはアナトール・フランスの縮尺論に覚える感動がなにものであるかを微かに理解するのである。仮に勘違いだとしても。
真にひりついた身体は単純である。もちろん「真に」という表現は無限か、もしくは階梯であるしかないのだが。「ひりついた」の比喩性に着目したい。
今日は本を読み、書いてきた。ここまでの文章はすべて何かを読んでいるときに書いたものである。わけではないが、大抵はそうである。今日読んだ本を大体の順番に並べておくので謎解きとして愉しむ向きがあれば、それに用いてもらいたい。(面倒なので著者や出版社、出版形態や発行年は書かない。)
『断片的なものの社会学』『読む哲学事典』『近代美学入門』『恋愛の不可能性について』『哲学トレーニングブック』『一千一秒物語』『意味がない無意味』『今はじめる人のための俳句歳時記 新版』『鑑賞 日本の名句』『東方綺譚』『構造と力』『レヴィナス読本』『レヴィナス・コレクション』『足の裏に影はあるか?ないか?』
もちろんだがどれも通読していない。あ、あと自分のnoteの文章もいくつか読んだ。いくつか推敲もした。
ここからはウイニングラン。事情があってここから利き手じゃないほうでフリックする。無理やりゆったり書く。ウイニングランで速すぎるのも………
ここまでを読み直して思ったけれど、読んだ本の影響は異なるリズム、異なる原理で自分に現れるんだな。
あ、利き手が帰ってきた。けれど、ゆったり書こう。ちなみに利き手じゃないほうでフリックしてみて気づいたのはフリックの本質は上下左右ではなくて手前と奥なんだな、ということである。たぶん。まあ、左右が手前と奥になっているだけで上下は特に変わっていないと思うのだけれど。
頭を使ってしまったせいで書こうとしていたことを忘れた。練習すれば右手みたいにフリックできるようになるのだろうか。左手も。まあ、したいかと言われれば、別にまあ、特にそうでもないけれど。
蝙蝠の万歳。三唱としてのクルクル飛行。
稲刈りの後の田んぼの上で、鳥たちが何かを囲んでいる。軽い平面、緩い円、かごめかごめをしている。早朝のこと。私たちの深夜。鳥たちの早朝。
そろそろ眠い。朝早くに起きなくてはならないほど寝られない。寝る準備が必要なのだ。寝ようとするときほど。たくさん踊る、たくさん踊る。
寝ることに踏ん切りがつかない。こんな文章じゃあ。ただ、左手のせいで疲れたので寝たい。いや、単純に夜だからか?そうだ。そういえば結局昼寝はできなかったのだ。カレーも残らなかった。恋人が意外に食べた。意外に少なかった。カレー。その人に右手を取られていたのだ。「これ貰う。」と言われて。その人も寝た。私もそろそろ寝よう。ベッドはいつも通り、私が左、恋人が右。日記に戻った。戻りきれてはない。
草原に沈んでゆく。骨になり、草が空洞を埋めてゆく。埋めきらない優しさ。「ぴとぴとり耳の骨まで草青む」。
この俳句は書かれた。2024/8/13に。今日は2024/10/31。「トリック・ア・トリート。」恋人に言われる。私は渡すお菓子もないので仕方なく、「四つある本の山から一つだけ選んで持っていきな。」と言う。「いらない。」と言われる。「強いて言うならどれ?」と訊く。伺う。「『つかふ』の山。」と言われる。「一番左のやつね。」と言う。「『レヴィナス・コレクション』がてっぺんにのっているやつね。」
恋人はウィトゲンシュタインが好き。『秘密の日記』が特に好きらしい。あと『従軍中のウィトゲンシュタイン』。どちらも読んだことがない。私は。
寝ている。隣で。すやすや。私の手を離して。私が私の手を取り返しても文句が言われない。寝ている。隣で。すやすや。「手が触れ合う喜びも 手放した悲しみも。」
終われないので俳句を一つ引用しよう。いつも力を借りてばかりですみません。
もの影のごとく蟹の子生れけり
山本洋子
ありがとうございます。やっと寝れそうです。
いや、もう一つだけいいですか?
川えびの身の透きとほる九月かな
大嶽青児
本当に申し訳ありません。ただ、弟子の玲が愛している下書きのようなものなんですよ。私にとって詩というのは。なのでもう一つだけ、少し厚かましいのもわかっていますが、もう一つだけお願いします。
さはやかにおのが濁りをぬけし鯉
皆吉爽雨
私が見た池は濁りの前に藻によって緑でした。本質の本質は喪失の喪失であります。
2024/11/1「一本締め」
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