読みたい本を挙げていく
以前、「「読みたい本」から読みたい本を選ぶ」という記事を書いた。概要としては淡々とブクロブというアプリの「読みたい本」から読みたい本を選んでその理由を書くという記事であり、特に面白みもないはずがなぜかある程度「スキ!」を頂いた。今回はそれの別バージョンをしたいと思う。(その記事は以下。)
そのとき私は「今回の企画の趣旨は本の選択から自分の欲望を発見することにある。」(「「読みたい本」から読みたい本を選ぶ」)と言っていた。ただ、それは大して達成されなかった。(これが「特に面白みもないはず」と思った一つの理由でもある。)ただ、私はそれを達成するためにこれを書き始めているわけではない。ここでの趣旨は詩的に言えば「人生の短さを実感する」ことであり、露悪的に言えば「読めない本をある程度読んだことにする」ことである。今回も別に「特に面白みもないはず」とは思っているのだが、『ベルクソン思想の現在』という本の最後に付いている付録「ブックガイド」はほとんど読んだことがなかったのになんとなく楽しかったのでああいうものになればいいなぁと思う。
今回はブクログの「読みたい本」から選ぶというよりはもう決めている順序を示して、その後は適当に読みたい本を挙げていこう。もちろん、「読みたい本」は参考にするのだが。
([]は推敲段階で追加されたものである。)
私は決めている。ここからの読書の計画を。ある程度は。私は次のようにTweet(現Post)している。(Tweetの埋め込みの仕方がわかりません。し、調べる気にもならないので引用にしておきます。)
これから読む本、その流れをおおまかに書いておこう。まず、『ひとごと』を読む。その次に『イルカと否定神学』を読む。その次は特に予定はないが、『現実性の問題』を再読するか、『新しいアカデミック・ライティングの教科書』を読むか、『逃走論』(浅田彰のほう)を読もう。大きな流れ。
まず、決まっているのは福尾匠『ひとごと』を読んだあとに斎藤環『イルカと否定神学』を読むという流れである。『ひとごと』は福尾匠という批評家・ドゥルーズ研究者がこれまでに書いた批評=エッセイが集められたものである。『イルカと否定神学』についてはよく知らないが、斎藤環については少しだけ知っている。[『生き延びるためのラカン』や『承認をめぐる病』を読んだことがある。]ただ、そんなことは関係なく、『ひとごと』を書いた福尾匠の『非美学』という本が否定神学の限界と可能性を問う系譜に属している(そう本人が言っている。「限界と可能性」はクリシェとして言っただけだが。[「クリシェ」というのは「ありきたりな決まり文句」みたいなことである。])らしいのでこの流れを採用しようと思った。私は否定神学について特に何も思うところはないが、唯一思うとすれば否定神学は使えるという、生きることの活力を得ることに使えるという直感があり、それについて考えてみたいと思ったのである。おそらく。[日本における否定神学の流れとして『非美学』では東浩紀『存在論的、郵便的』、千葉雅也『動きすぎてはいけない』、平倉圭『ゴダール的方法』が挙げられている。千葉のものだけ一読したことがある。東のものも少ししたら読みたい。平倉に関しては『ゴダール的方法』よりも『かたちは思考する』を読んでみたいと思っている。これは千葉雅也『センスの哲学』からの触発、係留である。]
他の三つについてはもはや覚えていないのだが、『現実性の問題』については著者の入不二基義の『足の裏に影はあるか?ないか?』がとても面白く、スリリングで面白く、入不二のいまのところの主著だと思うので読み直したいと思ったのだと思う。(入不二はレスリングが好き。[野暮だが、突然こんなことを書いたのは「スリリング」と「レスリング」が響き合うからである。私は入不二の「身体」の扱いについて考えてみたいと最近思っているので案外いい線行ってるかもしれない。])ちなみに最近入不二に私が書いた文章(「哲学の快楽──「詩を読むことの快楽」を補う」)を褒められてしまったので読まなくてはならないと思い始めている。[入不二における「身体」の扱いについては「「哲学の快楽──「詩を読むことの快楽」を補う」を読む」で少しだけ論じた。いや、メタファーを活性化させておいた。この感覚は藤田尚志『ベルクソン─反時代的哲学』に教えてもらった。まあ、まだ読んでいないが。ちなみに藤田尚志には宮野真生子との共著で「愛・性・家族の哲学」というシリーズ(三巻本)があり、それも面白そうである。宮野真生子に関しては『出逢いのあわい』という九鬼周造研究の本があり、それがとても面白かったことを覚えている。大学の図書館に購入申請を出して買ってもらったことも思い出した。ちなみに宮野真生子には磯崎真穂との共著『急に具合が悪くなる』があり、それは九鬼周造哲学への入門書としても読めると思う。磯野真穂の『他者と生きる』も宮野に(おそらくだが)極めて強い影響を受けていて、『急に具合が悪くなる』から『他者と生きる』のルートは九鬼周造に入門する裏道であるように思われる。そのルートに似ているものとして宮野真生子の『言葉と出会う現在』という論集も挙げられるだろう。ちなみに(ちなみすぎているが)私は『九鬼周造随筆集』が大好きで、一人図書館で「凄すぎるやろ。」と悶えていたことがある。]ただ、再読しようにも手元になく、取りに行くには往復で二時間くらいはかかるので、うーん、という気持ちである。[まあ、移動はラジオを聴くチャンスでもあるのだが。]
『新しいアカデミック・ライティングの教科書』は最近話題、人文系(?)では最近話題なので読んでおきたい気持ちがある。それくらいである。ただ、このままだと話題に乗り遅れる気がする。まあ、別に構わないと言えば構わないのだが。[他はなんかあるだろうか。思いつかない。流行りに疎い。まあ、いいが。ただ、流行りに疎いこと自体が良いのではなく良い形で流行りに疎いことができることがあるというだけである。]
浅田彰『逃走論』については私はかねてよりレヴィナスの「逃走論」(『レヴィナス・コレクション』(合田正人編訳)所収)に惹かれていて、最近『構造と力』(文庫のほう)を(軽くではあるが)読んでエネルギーを得たのでそのついでと言ってはなんだが読もうと思った。[「そのついでと言ってはなんだが」と言っているが、少なくとも私の読書は大抵そういうふうに展開していっている。私は勉強的に本が読めないのだ。コツコツと。骨がほろほろ。]まあ、遅れていて少し恥ずかしい気持ちがある。現代思想という恥ずかしいもの。そんなことを思ったことはあまりなかった。現代思想と言われるものを読んできたが/にもかかわらず。[私が読んできた「現代思想」はドゥルーズ、デリダ、フーコー、ハイデガーやメルロ=ポンティ、レヴィナス、ラカンやレヴィ=ストロース、などである。あと、バルトもかな。もちろんすべてちゃんと読めているわけではないが、意外とたくさん読んできたんだなあ、という感じがする。六年間くらいで。]
さて、最近書いたものは以上である。ここからは適当に書いていこう。徒然なるままに。赴くままに。
いきなりまだ出ていないし、刊行予定すら出ていないもので申し訳ないが、入不二基義の『現実性の極北』を読みたい。入不二自身によると「『現実性の極北』は、『現実性の問題』(筑摩書房、二〇二〇年)の考察を継続し、更に「極北」にまで展開したものである。「極北」は、現実性の問題について、考えうる極限(果て)まで考察を進めることを表している。」(入不二のPostから引用。どうしてTweet(現Post)って書かなかったんだろう。今回は。[いい問いなのでとりあえず応えてみよう。「ポスト」は投函であり、未来に向けられたものである。「ツイート」は呟きであり、どこに向けられているかわからないものである。そういう感じがあるのかもしれない。])らしい。ちなみにこの「極北」という表現は『相対主義の極北』という入不二の別の著作でも用いられている。かっこいい。ちなみに『相対主義の極北』は絶版で少し高い。他にも入不二の本、私が読みたい本はほとんどが絶版で高い。悲しいことに。[ただ、そのことによって急かされるほど、「絶版になる前に買わなくちゃ」となるほど私は忙しなくなる。もっと適当で緩やかな読書を標榜しているのである。私は。]
他にも、入不二に近いところで言えば永井均『カントの誤診』も読みたい。が、これは『現実性の極北』よりもおそらく出版から遠い。確実に出版はされると思うのだが。ちなみにこれも『ウィトゲンシュタインの誤診』という別の永井の本がある。とても面白かった。記憶がある。哲学することの、哲学書を読むことの、少なくとも一つの方法を私はこの本から学んだ。記憶がある。[他に一つ挙げるとすれば、哲学に限らず真理の探究の手引き書として永井均『哲おじさんと学くん』が挙げられると思う。]永井における「誤診」と入不二における「極北」、どちらも解放的である。
解放と言えば熊谷晋一郎が『<責任>の生成』において「効果があるというエビデンスによって、これまで苦痛を強いられてきた当事者が、その苦痛から解放されるというのはわかりやすいストーリーだと思います。他方で、効果がないというエビデンスによって、当事者が解放されることもあるという認識は、忘れがちですが非常に重要なものだと思います。医学がみずからの限界設定をすることで、当事者が過剰な医療化から解放されることがある。」(『<責任>の生成』27頁)と言っていたことが思い出されます。[「限界設定」は哲学でも主題になっていますね。例えば、カント(特に『純粋理性批判』)やウィトゲンシュタイン(特に『論理哲学論考』)がその代表例でしょう。私がそれらしか知らないというのもそうですが。ウィトゲンシュタインは「現代思想」に入るのでしょうか。なぜか入る感じがしません。ハイデガーは入ってたのに。ちなみに私は「限界設定」を無限に対するそれと無際限に対するそれで分ける必要があると思っていて(絶対に分けるべきだ!みたいには思っていませんが)、その先駆者としては、先駆本としてはドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』やウィトゲンシュタイン『哲学探究』(特に第一部二四二節(だったと思う。))が挙げられると思います。また、この「限界設定」を二重にすること自体については『ドゥルーズの21世紀』所収の千葉雅也「儀礼・戦争機械・自閉症─ルジャンドルからドゥルーズ+ガタリヘ」に学んだところが大きいと思います。]そのあたりで言えば、綾屋紗月・熊谷晋一郎『つながりの作法』が読みたい、そう思っていたことを思い出しました。綾屋さんについては『<責任>の生成』のなかでさまざまな情報を空腹にまとめるのが難しいことについて考えているというエピソードを覚えています。空腹についてはそうではありませんが、私は「まとめる」ということが苦手なのだと思います。人よりも。いや、人がどうかはよく知りませんが。[「まとめる」についてはハイデガーがどこかで「ロゴス」がギリシャ語の「レゲイン=取り集めて目の前に置く」に由来することから思考を展開していた記憶があります。いつもその記憶が私を「まとめる」の問題に誘っている気がします。まあ、語源を辿ることにはあまり信用が置けないのですが。私は。]
まったく違うところで言えば、再読になる(『アカデミック・ライティングの教科書』や『逃走論』は再読ではなく初読です。読んだとすれば。)のですが、伊藤亜紗『ヴァレリー』は再読したいですね。たびたび思うことですが。私の小さくない部分[この部分は「大きな部分」と書こうとして、「いや、大きな部分かすらわからないな。大きいとは思うけど。」みたいに思ってこう書いた記憶があります。いい繊細さですね。]はこの本から出来ていると私は思います。それがどこなのか、私はほとんど忘れている(覚えているのは詩を身体を組織するものとして考えること、その仕方、その漠然としたイメージくらいです。)のですが、だからこそ読み直したいのです。自分の中に他人がありありと存在することは私がありありと存在することにつながる、そう思えるから。
この発想を『動きすぎではいけない』で教えてくれた千葉雅也についても読みたい本があります。それは『ツイッター哲学』という本です。千葉雅也は140字という制限のなか、自らの哲学を語ろうとしてきました。いまもしています。それが編集されたものが『ツイッター哲学』です。アフォリズム性、それを最近は忘れている気がします。もっと適当に私は、おおらかに書いていたのにもかかわらず。懐かしいですね。[「編集されたもの」という表現からもアフォリズムのただ置かれる感じが削がれている気がしますね。それほどまでに私はアフォリズム性を忘れているのです。いつからでしょうか。ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』や『哲学探究』をアフォリズムの編集によって作ったことを知ってからでしょうか。別にウィトゲンシュタインにも、これを教えてくれた鬼界彰夫にも罪はないのですが。当然。]
デイヴィドソンについても何か読んでみたいと思います。私はそのあたりについて全然知らないので、とりあえず森本浩一の『デイヴィドソン』から読みたいと思います。今日、「出来事論と行為論。」と呟いて、いや、つぶがいて(呟きのように書いて)[いい表現ですね。「つぶがく」というのは。ただ毎回()で補足しなければなりませんが。]、「そういえばデイヴィドソンに『出来事と行為』っていう本あったなぁ。」と思いました。[理由に関する哲学としては永井均『<私>のメタフィジックス』の第二部や古田徹也『行為の哲学入門が思いつきます。その背景としての現実性や偶然性、運命や物語については………長くなりそうなので今回はやめておきましょう。]が、いきなりデイヴィドソンを読むのは………と思ってしまいました。小心者なので。ただ、『構造と力』も難しい難しいと言われている割には面白く、もちろん理解できないところもありましたが、なんというか、リズム感はわかるくらいだったので意外と読めるのかもしれません。[イキっているわけではなく、ただ単に私にはそのように読めたというだけです。千葉雅也の文庫版解説も相まって。]ただ、その辺(デイヴィドソンやアンスコムと言った、行為論系?)は本当に知らないので感覚すら当てになりません。
うーん、一旦哲学を離れてみたいとも思います。そうなると、荒川洋治『文学は実学である』が読みたいですかね。私はどちらかというと「文学は役に立つ」と思うので意外性はないかもしれませんが、そのように思う際のレトリックは鍛えられるかもしれません。「思う際のレトリック」というのは良い言い方ですね。
あと、これはたぶん読まない(人生単位でやっと読む可能性が出てくる)のですが、レイコフ・ジョンソン『レトリックと人生』も読んだらいいかもしれませんね。大学院時代の後輩が読んでいたのを思い出します。議論はまったく覚えていないのですが。
あと、高橋幸・永田夏来編『恋愛社会学』もいいですね。これはもしかすると読むかもしれません。[竹村和子『愛について』も読みたいですね。]ただ、私はあまり社会学を読みたいとは思わないんですね。なんというか、わざわざお金をかけてまで。別にこれは社会学に価値があるとかないとかではなくて、ただ単に私はそうだというだけです。社会学は好きですよ。好きなんですけど、なんというか、お金をかけてまで読む気にはなれないというか、そんな感じです。あと、私は「恋愛」について書かれたものが好きです。[竹村和子『フェミニズム』も好きでしたし、工藤顕太『ラカンと哲学者たち』も好きでした。他には千葉雅也・二村ヒトシ・柴田英理『欲望会議』や俵万智『あなたと読む恋の歌百首』も好きでした。他にもいろいろありますが、今回はこれくらいで。]
それで言うと丘沢静也『恋愛の授業』も読みたいですね。なんというか、少女マンガみたいなタイトルですけど、講談社の選書メチエから出てるんですね。これが。しかも、丘沢も、何学者かは知りませんが、『論理哲学論考』を結構ちゃんと訳していたのでちゃんとしていると思います。別に少女マンガも「ちゃんとしている」と思いますが。[大学何年かの頃に私は友人に、少女マンガが好きな友人Nに少女マンガを大量に借りて読んでいた記憶があります。その人はたしか『なまいきざかり』という本が好きだって言っていた気がします。]
漫画もいいですね。ただ、私は通読癖、もしくは植え付けられた通読規範(バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』にこんな感じのことが書いていました。)があるので、漫画は割高なんですよね。[「癖」と「規範」の関係は精神分析でも問われていますね。精神分析学に関してはラカンに寄ってしまいますが、『人はみな妄想する』が面白かったですね。『ゼロからはじめるジャック・ラカン』も(ラカン派)精神分析のあり方がわかってよかったです。]結構。漫画だと読みたいのは『めぞん一刻』ですね。ただ、新装版だと15000円くらいするので勇気が要りますね。[漫画が好きな友人に「『めぞん一刻』読みたいんだよね。」と言ったら「なんで?」と言われて、「恋愛について知りたいから?」と言ったら「そんな本だったっけ。」と言われた記憶があります。梅田駅の本屋さん、どれかに居るときに。そこにはもう一人友人が居て、その人に『センスの哲学』を貸すという約束をしていたことを思い出しました。まだ貸していません。]
勇気がいる本、でも読みたい本ってなんでしょうね。まあ、高い本でしょうか。本って安いですよね。3000円くらい払えばある程度の楽しみは保証されていて、遊び尽くせる人なら確実に得じゃないですか。ラーメン三杯分。私はそんな感じで思っています。ラーメンを食べるたびに。「ああ、1000円あったら『論理哲学論考』買えるな。」みたいな感じで。[別にラーメンじゃなくても、服とかでもこう思っています。恋人がそばにいるときは「これ、『論哲』○冊買えるで。」とか言っています。]
もちろん高い本もあって、例えば渡名喜庸哲『レヴィナスの企て』なんかは6000円くらいして、結構ちゃんとした研究書だと思うので勇気が要りますよね。レヴィナス『全体性と無限』(藤岡俊博訳)は持ってるし、いま手元にあるんですけれど、なんだか勇気が出ませんね。(『レヴィナスの企て』は『全体性と無限』を読む本です。)まあ、最近平井靖史『世界は時間でできている』を読み始めて、これまた勇気が必要だったんですが。[ただ、読んでみると意外と読める本が多いですよね。研究書はまだ。]
持っている本に限定して読みたい本を考えてみてもいいですね。思いつくのは奥野修司『魂でもいいからそばにいて』ですね。ゆる言語学ラジオの水野さんが「霊ってケアなんですよ。」とか「それで[=科学で霊体験を説明できたとして:引用者]人が救えるか。」とかいい感じのことを言っていたので気になりました。もう一度。[沈殿と賦活の繰り返しなんですよね。「読みたい本がある」というのは。]
この感じで言えば、哲学の劇場というラジオで挙げられていた三中信宏『分類思考の世界』なんかも読みたいですね。私は結構な分類好きで、というか、分類を作るのが好きで、哲学にもそういう好みが影響していると思うんですよ。哲学というか、哲学観に。簡単に言えば、「似ているものを同じものにも違うものにもしない」みたいなことが私の哲学観の少なくとも大きな柱としてあるんです。それについて考えることは楽しそうじゃないですか。ちなみに『つながりの作法』の副題は「同じでもなく違うでもなく」で、そういうテーマがあるのかもしれませんね。軽く。[私は私の快楽として「「あなたと私は違う」とニコニコする」ことを発見していて、だからこのテーマは快楽の探究だと言えると思います。]
文学は特に読みたいものはないですね。たまに『志賀直哉随筆集』とか、ちくま日本文学全集の『宮沢賢治』とか『芥川龍之介』とかは読みたくなりますが。たまに。文学を日常的に読んでいる人ってどういう感じなんでしょうか。私にはできません。なぜかはわかりませんが。[このことと通読癖や通読規範、ラジオを聴けないことは関係がある気がします。私が書いた良い文章に「ラジオを聴くとはどういうことなのかという文章があって、あまり読まれていないのでここに置いておきたいと思います。
最近はのらじおというラジオが好きです。]
アフォリズム的なリズムの話に話を戻す(そんな話はしていなかったかもしれませんが)と、アナトール・フランス『エピクロスの園』は再読してもいいかもしれません。通読した記憶はありませんし。[別に通読すべしとは思いませんが、私はもったいない精神が結構強いのかもしれません。私の知らない名文がそこにあるかもしれないのに、みたいに思っているのかもしれません。まあ、私はもう、人生をかけても読みきれないくらいの本を所有してしまっているのですが。所有について言えば、鷲田清一『所有論』や立岩真也『私的所有論』も読みたいですね。私は所有を政治的に活用することが結構嫌いというか、苦手なんですよ。それについて考えるのも大事な気がしますね。これから生きていくために。]芥川の『侏儒の言葉』は『エピクロスの園』を参考にしたらしいですね。どこで読んだか忘れましたが。
まだまだいくつか読みたい本は浮かんできますし、それらにまたいくつかの本はぶら下がる[この「ぶら下がる」という表現はドゥルーズの『意味の論理学』におけるセリーの形を想定しての表現です。]のでしょうけれど、今回はこれでお納めと致しましょう。お眠うございますし、明日もお仕事でございますから。[仕事の前にこんなに補足を書いて私は何がしたいのでしょうか。ただ、私にとっては補足こそが本質的で快楽的なのかもしれません。別に特に政治的な意図とか芸術的な意図とかありませんよ。デリダさん。ドゥルーズさん。]
結局ブクログの「読みたい本」は使いませんでした。まあ、ここまで挙げた本は、未読の本はすべてそこに入っているでしょうし、既読の本も「読みたい本」以外のカテゴリーに入っているでしょう。
明日推敲しましょう。ここまでさらさら読んで思ったのですが、それぞれ読んでいるところで「あ、あれも読みたい。」となった「あれ」を[]で書いてみてもいいかもしれません。明日、元気、やる気があればしましょう。それを。[書いてみました。ただ、補足と修正を同時にすると推敲はいつまでも終わらないので今回はここで推敲を打ち止めにしましょう。「有限化」しましょう。なので[]のなかには誤りがある可能性があります。]