なぜ「私」が書くのか

さて、「なぜ「私」が書くのか」ということについて考えてみましょう。この文章はエルザスさんの一連の記事、「なぜ「私が」書くのか」に触発されて書かれています。(第一回「【雑感】なぜ「私が」書くのか」https://note.com/lively_elsass/n/n23546459232a?sub_rt=share_pw、第二回「【雑感】なぜ「私が」書くのか②」https://note.com/lively_elsass/n/n1ef6fe0d542b?sub_rt=share_pw、現時点では第三回はない。)

ただ、改めて考えてみようと思っただけでエルザスさんが書かれていることはよくわかりませんでした。それは内容がわからなかったとか書き方がわからなかったとかではありません。根本的な考え方が違うのでよくはわからなかっただけです。その違いについて明らかにするのは端的に言えば面倒くさいので違いについて触れられるようなところがあれば触れます。

まず、問いについて考えましょう。「なぜ「私」が書くのか」という問いについて考えましょう。エルザスさんは問いを「なぜ「私が」書くのか」にしています。それに対して私は問いを「なぜ「私」が書くのか」にしています。この違いはなんでしょうか。(「触れられるようなところがあれば触れます」と書いたのにもかかわらずいきなり触れちゃいました。)

端的に言うと、エルザスさんはエルザスさんではない人(具体的には生成AIなのですが、とりあえずこういう言い方にしておきます。理由は特にありません。いまのところは。)ではなくエルザスさんが「書く」理由について考えていると思います。私が読み違えてなければ。それに対して私は、「エルザスさん」のように具体的な名前を出して合わせるとすれば、「さがしものさがしさん」は「さがしものさがし」という連続性を「書く」によって立ち上げる理由を考えています。言い換えれば、連続性を立ち上げる仕方は色々あるし、そもそも「立ち上げる」必要すらない(匿名ではない場合は元も子もない制度として戸籍があります。一応匿名ではない場合でも通用するような展開にしてきた気がしますが、今回はそこ(具体的に言えば、リクールが『他としての自己自身』で議論していること、特に「自己性」や「同一性」の議論)にも関わっているんですね。発見です。これが発見であること自体が意外かもしれませんが。)にもかかわらずそれをしている、その理由を考えているわけです。言い換えれば、「私」というシステムを「書く」によって「立ち上げる」のはなぜかを考えているわけです。(「そもそも「立ち上げる」必要すらない」とその注釈については置いておきます。今回は。この言い換えに沿って表現するとするならば、「私」というシステムはそもそも必要なのかが上では問われています。また、そのシステムの実現の仕方について「匿名」や「戸籍」の問題があるのではないかということについても。)

で、その問いに答えようというのが私の元来の課題の一つであるわけです。しかし、私はある程度、元も子もない答えを出しています。その問いについては。それは、そうしてきたしそうする以外の方法を身につけるのが面倒くさい、という答えです。(ただ、この「元も子もない」答えは上の注釈に書かれた「私」のシステムの成立に関する問題がややこしいからとりあえずなされた答えにすぎません。)だから、おそらく私は私と似ていて、しかし決定的に違う問いの立て方を見て、「ああ、私とあなたは違う!」と目をキラキラさせていたのだと思います。だからこのように書き始めたわけです。おそらく。

この視点からエルザスさんと私の違いをもっと明確にしてもいいのですが、そんなことをエルザスさんが望んでいるかはわからないので今回はこのように少し借りるだけにします。もし、エルザスさんから「望んでいます」みたいなことが書かれたら書くかもしれません。書かないかもしれませんが。そもそも私はどうすればエルザスさんに通知がいくのかがわからないのでそもそもなんの音沙汰もないかもしれません。そのときはおそらく、このことすら忘れてまた同じようなことを言っていると思います。では。


補足および補遺(もしくは追伸)

だいぶ軽くいっちゃった。というか、問題の本質を「とりあえず」で置いといちゃった。

署名とかの話をしても良かったな。ただ、そうなるとシステムとかの問題じゃ済まなくなっちゃう。面倒くさい。いや「面倒くさい」というよりも「やるぞ!」となったのにできない可能性がある。

たしかに、深みまでいけば、わからなさすぎて、「わからない」から「ここまではわかる」の「ひょい」がそれしかなさすぎて、逆に「わかる」か。

ただそうか、「署名」(デリダ)とかの話をしちゃうと「書く」に着目するのが難しいか。

「書く」というのは「書くということ=書くという生活」みたいなことであって、私はその次元について「書く」以外のそれを知らないことを言いたかったのである。ただ、そうなると「作品」に付された「署名」の次元にしかいけないような気もする。「付された」次元にしか。まあ、その次元しかないと言われればそうかもしれないが……

この問題はデリダ解釈的にもそうだし、そもそも「どうにもならないことをそうならないようにする」ことの一つの実例であることもそうだし、どう扱えばいいのか難しい問題である。

というか、「書くということ=書くという生活」についてもいろいろな形態があり、その奥にはいろいろな力能がある。その次元も無視してはならない。最近の私はやたらとこの「力能/形態」について考えている。『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)の影響で。

時間イメージ的な物語を特徴づける偽なるものの力能に対して、運動イメージ的な物語は「真なるものの形態(forme du vrai)」によって特徴づけられるとされる。偽なるものの力能と、真なるものの形態。このふたつの概念はどちらも、ある種のトートロジーをなしており、英語で言えば“of the”に対応する前置詞«du≫は、「偽なるもの/真なるもの"という"力能/形態」と同格として取れるとも考えられる。なぜならこれから見ていくように、形態とはつねに真なるものとして振る舞う「真理のモデル」であり、力能はつねに真偽を決定不可能に追い込むものであるからだ。とはいえ、真なるものの形態において偽なるものが一切存在しないのでも、偽なるものの力能において真なるものが存在しないのでもない。前者において偽なるものは、真理のモデルのたんなる影として力能をもたず、後者において真なるものはモデルとして前提されるのではなく、創造されるべきものになる。このことを、形態が優位になるか力能が優位になるかによって真なるものと偽なるものの関係は変化すると言い換えることができるだろう。力点を置くべきは形態と力能の対立であり、これによってふたつの体制に安易に真/偽を割り振ることを避けることができる。
『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)284-285頁

このようなことを「真に受ける」(山本浩貴)とすれば、「書く」というのは「形態」の次元に下ろす仕方が色々あって一般に「書く」として認められていることとあまり認められていないこと、言うなれば「書く的な行為」に一旦は均されうるのかもしれない。事実、私たちは大抵「書く/読む」をコミュニケーションと同じようなことだと思っている、言うなれば「書く/読む=話す/聞く」みたいに思っているが、それは「書く的な行為」として「話す」を考え、また逆に「話す的な行為」として「書く」を考えているからそうなるのである。ただ、こう言っているからといって「書く/書く的な行為」を分離したいわけではないのだが。一旦そうすることは楽しいことかもしれない。

接合されていたら分離する。分離されていたら接合する。それがまっとうな天邪鬼である。しかし、大抵の天邪鬼はそこまでの気概がなくどちらかだけしてしまう。ただ、その気概のなさも結局気概あるものによって肯定されるのだ。

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