幸福で殴り倒すような振る舞い

江國香織のエッセイに「フレンチトースト」というエッセイがある。

フレンチトーストを食べると思いだす恋がある。私はその恋に、それはそれは夢中だった。それはそれは日々愉しく、それはそれは羽目を外した。
そのころ、私たちはよく朝食にフレンチトーストを食べた。ただでさえ甘いフレンチトーストを、その男は小さく切って、新たにすこしバターをのせ、蜜でびしょびしょにしてフォークでさして、差しだすのだった。幸福で殴り倒すような振舞い。私はそれを、そう呼んだ。

『とるにたらないものもの』(集英社文庫)118頁

これはその一部分である。私はここで言われる、「幸福で殴り倒すような振る舞い」をした。今日。

私は好きな哲学的エッセイを読んだ。三つも。哲学的快楽で「びしょびしょ」になったほれらを読んだ。

しかも、私はなんとなく、それらを「思いだす恋」のように感じた。懐かしさがあり、そして寂しさもあった。もしかすると私は哲学に戻ることはないのかもしれない。文学からも遠ざかって、ただ生きていたときのように生きる。そんなふうになっていくのかもしれないと思った。

江國のエッセイの最後は次のように終わっている。

フレンチトーストが幸福なのは、それが朝食のための食べ物であり、朝食を共にするほど親しい、大切な人としか食べないものだから、なのだろう。

119頁

私は誰と食べていたのだろうか。いや、私は一緒に食べてはいなかったのかもしれない。ただ一人で食べていたけれど、誰かがそれを「幸福で殴り倒すような振る舞い」と呼んだから、私はシェフとして三人の哲学者を見つけたのかもしれない。

ただ、そうなってしまうとなんだか、私はずっと食べる側であり、それはなんだか悲しい。

しかし、私を熱くさせるものが最近はない。いや、俳句、その鑑賞と改作がそれにあたるのかもしれない。リハビリしていけば哲学もまた愉しくなるのだろうか。それとももはや、それは「フレンチトーストを食べると思いだす恋」になるのだろうか。「私はその恋に、それはそれは夢中だった」と、「それはそれは日々愉しく、それはそれは羽目を外した」と、言われるようなものになるのだろうか。

食べたのは私で「幸福で殴り倒すような振る舞い」と呼んだのも私。私。まだ哲学したそうだ。

ちなみに三つのエッセイとは「見て、書くことの読点について」(福尾匠『ひとごと──クリティカル・エッセイズ』)、「此性を持つ無──メイヤスーから九鬼周造へ」(千葉雅也『意味がない無意味』)、「一回性と反復」(入不二基義『足の裏に影はあるか?ないか? 哲学随想』)である。では。

いいなと思ったら応援しよう!