断哲二日目(分身と変身)
今日は「断哲」二日目である。さっきお風呂に入っていたときに「分身と変身って何が違うんだろうなあ」みたいなことを思っていた。それはなぜか。簡単に言えば、中島隆博について少し物を書いて、千葉雅也も中島隆博について物を書いていたからである。これだけではよくわからないだろう。千葉はよく「分身」について言及している。いや、「よく」ではないかもしれないが、『意味がない無意味』では確実に言及している。そして、千葉も書評している(し、その書評は『意味が無意味』に収録されている)中島隆博は「変身」について言及している。私は千葉のものを読むように、つまり、出した本をほとんど読むという仕方で中島について知っているわけではないのでどれくらい言及しているかはわからないが、私が読んだ『荘子の哲学』では確実に言及している。そして、千葉が中島のものを書評したときにはこの『荘子の哲学』が書評されている。
言いたいことを簡潔に言おう。『意味がない無意味』さえ読めれば、私の「分身と変身って何が違うんだろうなあ」という問いはもっと洗練されるのだが、しかも『意味がない無意味』は「読めない本」ではなく「読んでもいい本」に入っているから別に読んでもいいのだが、あれよあれよと許していたらわざわざ「断哲」している意味がないのではないか、と思ったり、でもそもそも「断哲」は豊かに生きるためになされているのだから別にいいじゃん、と思ったり、している。
ここまで、まるでみんなが「断哲」について知っているかのように書いてきた。それはなぜか。端的に言えば、わざわざ概要を説明するのが面倒くさいからである。じゃあ記事を貼ればいいじゃないか、と思う人がいるかもしれないが、あれがあると文章のリズムが崩れるのだ。しかし、縛りゲーをしているのに「縛っています」と宣言しないことは意味がわからない。
「分身と変身」というカップリングについて思いつくことを書いて今日は終わろう。一応読まないことにする。今日は。『意味がない無意味』を。「哲学書を読まない」ことよりも「直接引用」をしないということのほうがきついかもしれない。いやもちろん、あの記事で言っているように「直接引用」のためには読まなくてはならないのだが。
「分身と変身」、二つに共通しているのは「身」である。千葉雅也は『意味がない無意味』のはじめに置かれた文章で「身体」について「body」という極めて抽象的な次元で考えることを求めている。たしかそうである。読んでいないから記憶違いがあるかもしれない。その「body」というのは、反復する形、みたいな意味だったと思う。具体例は思い出せないが、原子もそうだったし、あ、「形」じゃなくて「body」って言ってたんだっけ。「身体」じゃなくて「body」じゃなくて。まあいい。とにかく極めて抽象的な「形≒身体」のようなものを「body」と呼んでいたのである。音楽におけるフレーズとか、そんなものもそう呼ばれていた、気がする。とにかく、「反復する形≒繰り返されることが形になる」みたいなことをそこで掴もうとしていたのである。おそらく。
で、「分身」はAという場所、Bという場所、Cという場所、………という感じで異なる場所でも「反復する形≒繰り返されることが形になる」があるみたいなことだと思う。ここでの「場所」というのは具体的な地名のことを指していると考えてもいいし、もっと抽象的な過去とか未来とかを指していると考えてもいい。とにかく、どこかに存在していて、それらが「反復する形≒繰り返されることが形になる」ということでまとまっている。そんなイメージが私にはある。千葉的に重要なのは「オリジナル/コピー」みたいな、さらには「オリジナル」が偉いみたいな感じにしないことだろう。いや、もっとひねっているとは思うが、とりあえずそんな感じで整理しておこう。いや、もっと踏み込もう。千葉が重要視しているのは「オリジナル/コピー」という対比がそもそも可能なのは「反復する形≒繰り返されることが形になる」があるからだということだろう。いや、重要視というか、ここを強調するのが「分身」であるように思われる。どれもが「オリジナル」でありうるものたちとしての「コピー」、どれもが「コピー」でありうるものたちとしての「コピー」。そんなところが重要なのである。
千葉と中島のあいだにドゥルーズの「セルフ・エンジョイメント」という概念があるように思われる。この概念についても私は確認できない。これが書いているのは『動きすぎてはいけない』という「哲学書」だからである。さらにこの本はいま目の前にあるにはあるのだが「読めない本」であるから、そうであることにしたから読めない。だから曖昧な引用しかできない。この概念の少なくとも一部には「自己が他者の集まりであることを喜ぶ」みたいなことがあったように思われる。いや、なんだか少し違う。ただ、「自己」と「他者の集まり」はカップリングされていて、それが「喜び」で繋がれていたことはわかる。ただ、「他者の集まりが自己であることを喜ぶ」ではなんだか違うから………、なんだ?
わからなくなってしまった。ただ、なんとなく、そこを読んだときに「ああ、たしかに自分が他者の集まり、キメラであることを知ることは確かに嬉しいなあ。」みたいなことを思ったから、ああ、なるほど、「知る」が大事なのか。いや、「なる」か?
ああ、わかったぞ。「セルフ・エンジョイメント」ではなくて千葉と中島、「分身」と「変身」が。中島の議論は千葉がこう評していたと思うのだが、生成変化と自己充足のカップリングとしての他者肯定、いや、肯定というよりも無関心による一段深い肯定というか、いまは「深い」という曖昧な表現しかできないが、そういうことに捧げられているように見える。私が知っている範囲での中島の、というか私は『荘子の哲学』しか読んだことがないわ。いや、さっき『人の資本主義』の「はじめに」を読んだわ。無料で。それも文章になっているのだが、それはまあいい。とにかく、中島の議論は「A→B」という生成変化とAがAとして、同じようにBがBとして「自己充足」することとが合わさった議論なのである。それに対して千葉の議論はもちろん大枠としてはそういう議論でもあるのだけれど、AやBがそれであることを「組み換え」みたいな「もののたとえ」(この概念を私は福尾匠に教えてもらったと思っている。思い違いの可能性は全然あるが。)で語っている。中島の議論は「胡蝶の夢」が引かれて「荘周であるときはそれを楽しんで、蝶である時はそれを楽しんで、……」みたいに語られるが、千葉はその「荘周」や「蝶」もある組成によって存在していると考え、かつ、その遍歴についても「荘周」になり、「蝶」になり、……みたいなところを語ろうとしている。これだとなんだか千葉を称揚しているように見えるかもしれないが、別にどちらを称揚しようとかは思っていない。たしかに私は千葉の議論のほうが知っているからこうなってしまっているのだが、とにかく、二人はこういう関係にあるのだ。
「反復する形≒繰り返されることが形になる」という曖昧な表現は「反復する形」で「遍歴」を「歴史」的に語らないことを、「繰り返されることが形になる」で「組成」を「組み換え」的に語ることを目指したものなのである。ここまで来ればそう思える。では、千葉における基本単位はなんなのだろうか。中島におけるそれが「荘周」や「蝶」だったとするならば、個人名や動物名だったとするならば、千葉におけるそれはなんなのだろうか。
それはおそらく「body」なのだが、「body」は「組成」なしに存在しないものである。これがおそらく、千葉の哲学的立場であり、哲学的基盤であるように思われる。「body」はもちろん、例えば音楽のフレーズであれば音階やリズムで構築されているからそれぞれの音やその音の並びが「body」になるかもしれないが、千葉はそうではないと言っているのだ。「構築」から「組み換え」へ、それが「組成」にぎゅっとつづめられている。それが千葉の哲学のポイントなのである。
少し前にnoteで私と同居人の「集まり」についての、「昨日の私と今日の私と明日の私は別の集まりである」という仏教的な言説についてのすれ違いについて短い文章を書いた。あれを思い出した。今日はあれを読んで話を終えよう。結局「分身と変身」の違いについては語っていないように思われる。いま適当に語っておくとすれば、「変身」における「身」よりも「分身」における「身」のほうがホログラミーであると思う。
これを読みます。
ああ、これは時間がかかりそうだ。と思った。なので箇条書きにしようと思う。今日は関わりすぎないようにする。ただ、一旦まとめておこう。読んだ文章の内容を。
「私」と「同居人」は「昨日の私」や「明日の私」は今日の私とは「違う集まり」だという(仏教めいた、と筆者は言っている)言説について異なる受け取り方をしていると言う。筆者によれば、「私」は同じものたちが違う集まり方をしていると考えているが、「同居人」は違うものたちが集まっていると考えているのだと言う。このことを筆者は「私の「違う」にはすでに形式がある」とか「「構成要素」がそもそも別であることと比べれば、世界のすべてが並び方によって変換されるみたいなイメージをより強く持っているのは私である」とか表現している。ただ、筆者は「私」と「同居人」のこの違いについて「すれ違いがあることが判明した。まあ、判明したところで何があるわけでもないと思うが。」とも言っている。
・いま聞こえている音は後に続く音によって違う音になる。限界はあるにしてもこの構造自体はずっと続いていて、現実には来なかったが来る可能性があった音は仮に音楽的に許されているという制限を付けたとしても来てもよかったのに来なかった音、そしてそれに連なる音、そこでも同じことが起こって、可能性は現実的になりつつ、しかしそれは可能性のままである。そんな感覚が千葉にはあるように思われる。
・このような感覚でいま起こっていることを感じてみると、ここに現れている「body」は可能性が干上がったようなものに見えてくるのではないか、さらにこれは特別哲学的なことではなくて私たちはいつもそういう干上がりによって行為しているのではないか、というのが『意味がない無意味』のはじめに置かれた文章で語られていること、その少なくとも一つである。
・この背景にあるのはアラン・バディウに代表されるドゥルーズ批判だと思うが私は詳しくないのでとりあえずそう思うということだけ書いておく。ピラミッド型に対する批判、みたいなイメージが私にはある。ヒエラルキー批判が結局ピラミッド型を批判することに届いていない、みたいなイメージ。
・ただ、だからと言って「分身」がつまらないかと言えばそんなことはもちろんない。ただ、そこを詰めるには千葉と中島の「生成変化」の解釈の違いをそれとして明らかにしなくてはならない。
・ちなみに私は変わっていても変わっていなくても結局「変わった」と言わないとそれはリアリティを持たないし、それを言った時点で「変わった」と言われる変わらないものが必要になる、みたいなことを思う。これは批判というより、そういうふうに感じがちだということである。
・ただ、それだからこそ私の哲学には実践性がないのだとも思っている。し、これは結構新しい発見、私にとっては新しい発見だが、別に「変わった」と言わなくても変化のリアリティは存在するように思われる。だから、なぜわざわざ「変わった」と言わなくてはならないのか、という問題があるように思われた。これは新しい問題であるような気がする。が、そうではないような気もする。「そうではない」場合は「生きていくには欲望が必要で、欲望には語ることが必要だ。」みたいな話だと思う。が、こんな語り方をしたのは初めてなのでやっぱり新しい問題に行き着いているのかもしれない。
同居人が寝るらしいので今日はこれくらいにしよう。私も眠いので推敲は明日にする。では。
推敲しました。いま眠たいからかもしれませんが、確実に昨日の自分のほうが千葉の哲学の根幹を掴んでいました。また掴めるといいなと思いつつ、ぼーっとしたいと思います。