哲学(者)を語るには原典を読まなくてはならないか

さて、すごく短い時間がある。さっさと書いてさっさと出そう。そういうふうに思う。すごく厳格なイベントが控えているわけではないからある程度は延長できるのだが、それはそれとして短く端的に書こう。

今日書くのは「哲学(者)を語るには原典を読まなくてはならないか。」ということである。私の答えは端的だ。「哲学研究者なら読まなくてはならない。」という答えだ。「哲学研究者」が「原典」(私はこれを例えばドゥルーズの『差異と反復』で言えば、フランス語のものを意味するものとして基本的には考えている。が、わざわざ「基本的には」と付け加えているのはそれが「哲学研究者なら」という限定の上では成り立つ限定であり、そうではないとすれば翻訳されたものも含むものとして考えられると思っているからである。この曖昧さはすでに私の態度の一つの現れであるが、その詳細は語らない。なにせ時間がないから。)を読まなくてはならないのはそれが「議論の土台」であるからであり、「哲学(者)の足腰」であるからである。それに対して「哲学研究者」ではないものは読まなくてもいい。それが「哲学研究者なら読まなくてはならない。」ということの意味である。

ただ、私は「哲学研究者」以外の人も「哲学」がしたいなら「原典」(上の()でも書いたが、この場合の「原典」というのは日本語訳されたものも含む。)を読むことを勧めたい。その理由は端的に言えば、それを読むことで「哲学(者)の身体」が感じられるからである。もう少し踏み込むなら、「哲学(者)の癖」が感じられるからである。その「癖」とか「身体」とか言うのは例えば、その人が用いるレトリックを指す。いや、それくらいなら解説書や研究書でも言及される。だから、わざわざ「原典」を読むことを勧めるのは私たち自身がどうしても見てしまう「癖」や「身体」というものが「哲学(者)」に現れるように思われるからである。

ここでは一つの転換が起こっている。企てられたわけではないが起こっている。それは「哲学(者)」の「癖」や「身体」があらかじめあるわけではなく、それを読んだり感じたり、それで書いたり考えたり、そういうことをする私たちの「癖」や「身体」が響き合うことでやっと、わざわざ「原典」を読む意味が現れてくるのではないかという転換である。

この転換には二つの含意がある。(他にもあるかもしれないしありそうな予感はするが今日はシャープに。)一つは複数の「哲学(者)」の「癖」や「身体」と響き合う必要があるということ。もう一つは自分の「癖」や「身体」を理解することで解説書や研究書を書いた人の「癖」や「身体」と関係することができるということ。この二つである。簡潔に二つとも確認しよう。そろそろ時間がないが。

前者は簡単に言えば、自分の「癖」や「身体」と「哲学(者)」の「癖」や「身体」の響き合いを聴くためには複数の「哲学(者)」の「癖」や「身体」と関係しなくてはならないということである。例えば、ウィトゲンシュタインだけに関係するとすると、私とウィトゲンシュタインは響き合うには響き合うだろうが、その「響き合いを聴く」ことはできないだろう。なぜなら、混ざり合いすぎてどこまでは私の「癖」や「身体」でどこまでがウィトゲンシュタインの「癖」や「身体」であるかがわからなくなってしまうからである。それがわかる、分かるようになるのは例えばドゥルーズと響き合うことによって私が出している音を見分けることができるようになってからであろう。こういったことが「複数の「哲学(者)」の「癖」や「身体」と響き合う必要がある」に含意されているのである。(いくつも疑問が湧いているが、今日は置いておこう。置いていく!)

後者は簡単に言えば、前者のような過程を経て自分の「癖」や「身体」を知ることで「哲学(者)」を「議論の土台」にしたりその「足腰」を見たりする「哲学研究者」の様子がわかるようになるということである。もちろん、このためにも自分の「癖」や「身体」が無視したり軽視したりしていることを意識している必要がある。そこを強く鳴らす「哲学研究者」に気がつくためには完全に忘れ去ってしまってはいけない。響いていないところを。解説書や研究書は「原典」から引き算したりそこに掛け算をしたりしなかったりして構築されている。自分の「癖」や「身体」というのもそういう引き算や掛け算の一つの実践であることはそのことと向き合うことによってさらに理解が深まっていくだろう。こういったことが「自分の「癖」や「身体」を理解することで解説書や研究書を書いた人の「癖」や「身体」と関係することができる」に含意されている。

さて、話は終わりだ。もう時間がない。最後に置いていったところを少しだけ振り返ろう。まるで朝方のクラブのようだ。(これはC.O.S.Aの一節。)まず、「哲学(者)」という変な表記がここまでとどう関わるのかは重要なテーマである。あれ、いくつかあったはずだが、そこにはなかったことしか思い出せなかった。それは音楽的な比喩をもっと洗練させなければならないということである。今日はこれで許してください。すみません。てんやわんやしてて楽しかったです。アルバイトの忙しい時間帯みたいで。充実感がありました。

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