がんばってゆるく書く

 ゆるく書くこと自体が目標であって、そのためにならどんな手段も厭わない。
 が、考えればすぐにわかるように、「書く」と言っているのだから書くという手段は必要である。
 ところで私は「ゆるく」を目標にしているのか、それとも「書く」を目標にしているのか、どちらか選べと言われればどちらを目標にしているのだろうか。
 私の答えは「ゆるく」のほうである。ただ、「書く」以外に「表現する」仕方を知らないので「ゆるく書く」以外はできない。
 もちろん、「表現する」の容認できる幅を広げて、例えば「ゆるく見る」とか「ゆるく呼吸する」とか、そういうことでいいなら別に「ゆるく書く」以外にもできることはある。ただ、「ゆるく」というのは「ゆるくない」ことがあってはじめて可能なのである。言い換えれば、ここでの「表現する」は「ゆるい-ゆるくない」をスウィングすることができなくてはならないのである。そしてその制限がかかった上で私にできるのは「書く」ことだけなのである。
 ただ、自由なところもある。それはテーマである。「何について書くか」である。ただ、別に書きたいことがないので、私の目の前の風景から書き起こそう。

 バスタオルが揺れている。室内干し。揺れている、クーラーのゆるい風を受けて、揺れている。
 なぜこんなにも、微かにしか揺れていない、このタオルの揺れがわかるのだろうか。思えば不思議である。ゆっくりであることと微かであること、そしてゆるいこと。
 ゆるいというのは大部分「脱力する」であると思われる。ここまでの記述は質実剛健すぎる。私にはそういう感じがする。別に悪くはないが、ここでの目標には達していないように思われる。

 夏の大三角を見た。私は思った。「奥行きあるじゃん。」と。しかし間違えた。「奥行きあるから三角錐やな。」と。別に「奥行き」はない。なぜなら、三点を繋いでいるだけだから、夏の大三角は。しかし、不思議な感じがしたのだ。そして、数学の凄さと非人間性を、強く強く感じた。
 こういう詩になりそうな、句になりそうな、そういうエピソードがある。そのようなエピソードは大して多くはないだろう。誰にとっても。しかし、詩を書くとか句を作るとか、そういうことをしていると生活の側が変形してくる。歪んでいるのか、延ばされているのか、それはわからないが。
 生活を豊かにする、そういう強迫観念とも思われそうな欲望を持つ。しかし、それは仕方のないことだと思うのだ。というのも、私たちはそのようなことがないと別に生きている必要がないからである。もちろんこれは「生きている必要がある生(活)とは何か?」という問いを問われた、そして大抵は自分が勝手に問うた、その問いに答えることであり、そんな問いをそもそも受け付けないことはできる。応えないこともできる。そもそも応えるとか応えないとかもないことにできる。できるのか?

 図らずも重たい話に入った。ように見えるが、別に重たい話ではない。それを重たい話にする、その重力自体を捉えたいのだ。
 そんなことは高性能の機械がないと不可能かもしれない。だからそれを作ろうとしているのだ。私は。
 
 ラーメン屋さんに入る、美味しそうな、退屈そうな、店主がいる、匂いがする。話す、大人たちが話す、家を出る。家に帰る。秒で出るハウス、秒で帰るハウス。

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