書棚の前で2 国語便覧の記憶
どのように忙しくても、1日に15分さえ読書の時間を設けられないというのは、怠慢であると心得たい。しかしながら、睡眠時間の確保から逆算すると、今日はもう何もできない。愚かなことだ。この種の愚を、1年間に300回は繰り返しているのではないか。
書棚の前で、捨てるべき本について思う。今年こそは、と。明日は定時で帰って、何とかしたい。一定の進捗をみたら、平日であるが酒を飲んでDVDを観ることを、自分に許したい。
ここで、枡野浩一氏の名前を挙げたら、ご本人の「エゴサーチ」に引っかかるであろうか。歌人として声名のある人で、氏のポッドキャスト(「本と雑談ラジオ」)をしばしば聴いている。特に、片付け物などの作業をするときにラジオの代わりとして。
ポッドキャストを聴かせてもらっていることもあり、枡野氏の短歌を1冊、買って読もうと大型書店で短歌の書棚に足を運んだことがあるが、枡野氏の短歌集はなく、あったのは氏の雑誌に掲載したエッセイ集の単行本だけであった。仕方なくそれを買って帰って読んだが、やはり枡野氏を理解するためには、短歌を読むべきだっただろう。つまらない妥協は、すべきではない。
枡野氏のポッドキャストでの対談相手である古泉智浩氏の漫画も読んでみたいが、入手できていない。漫画を読む習慣はないのだが、長年聴くポッドキャストというのは、縁のあるきっかけと思いたい。
新聞の短歌欄は、ごくまれに一部だけを読むが、やはり歌人の人柄を理解して短歌は鑑賞したい。ばらばらな人の短歌の寄せ集めは、門外漢にとってはかえって難しい気がするのである。
シンボルスカの詩集のように、私が気に入ることのできる歌人の歌集も見つけることができればと思うが、改めて学生時代の「国語便覧」などを紐解いてみようかとも思う。今思い出したのは、藤原俊成。