毒草と生きる*
その秘儀が口伝によって受け継がれることは、生粋のヤトゥンバには自明である。赤ん坊の額に聖水が振りかけられ、表向きの洗礼が終わると、さっさと女たちは教会をあとにする。赤ん坊の家へ急ぐのだ。その間、親戚中の男衆は誰ともなく姿を消している。今日の主役・女の乳呑児と血を分ける親族の、洗礼式の本番に臨むのは、女ばかり。太鼓腹を揺すり、扇風機に股ぐらを開く伯母がいる。勝手に冷蔵庫を開け、缶ビールを口にして「チッ、冷えてないね」と愚痴る従姉妹がいる。若いツバメとの情愛を一週間の回数で誇る女もいれば、やっと下りた保険金の額をひけらかす女もいる。
ひととおり再会を喜び合うと、ヤトゥンバの女たちは寝息を立てる赤ん坊の周囲に集まる。用意しておいたニガヨモギの葉を、少しずつベビーベッドに散らす。あっという間に葉っぱの布団ができる。口々に秘儀の内実を明かすのは、部族の誇りではなく、先輩風を吹かせるためだ。「早い話、ニガヨモギは毒草さ」「大丈夫、死にゃしないよ、大昔はさておき、今じゃただのおまじない」。「この子が寝返りを打つまでは、こうやってヨモギを敷布団にして寝かせな」「三ヶ月もすればよちよち這い出すから、そうしたらミルクに混ぜてやんな、いっぺんに量を増やしちゃダメだよ」。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、毒草の量を増やしていく。離乳食が始まったらスプーン一杯分。そのあたりで「嫁さんよ、しっかり覚えな、誰も紙には書いてくれないよ」と怒声が入る。「こうやって、女はみんな耐性を作っておくんだからね」。その台詞を合図に、話はたちまち歴史の裏街道を歩みだす。ヤトゥンバの女だけに伝わる、被強姦の由縁。「その昔、インドじゃビーシュの葉っぱを使ってね」と誰かが言えば、「あら、あたしゃエジプトだって聞かされたよ、古代エジプトのファラオはんが」と別の誰か。次に引きとる老婆は、フォラオが毒草そのものと化した娘たちを貢物として敵将に贈った昔話を、面白おかしく語る。接吻ひとつで敵将を弱らせ、膣からの体液で必ずや死に至らしめる。時間をかけて毒殺していくその様を、ドキュメンタリーさながらに聞かせるのだ。驚いて圧倒されるばかりの、外から嫁いだ赤ん坊の母親。つまりは新米ヤトゥンバだ。「なにを鉄砲玉くらったような顔してんだい!」。「これも智慧だよ、部族の智慧。タダの姦られ損じゃ割に合わないだろうが!」。
哄笑が渦巻くなか、新参ママは、愛くるしく眠る我子を悲喜こもごもに見つめる。言うまでもなく、この場にいるのは後家やもめばかりである。