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藪の外の外*
きみは古い書物を繙く。例えば「恋人岬」のように、叶わぬ恋のために心中した恋人たちの伝説が残る地名は、世界各地にある。このことは、文化や言語が違っても、物語の構造としての「悲恋心中モノ」が普遍的であることの証拠だ、と一般的には思われている。しかし見方を変え、この種の伝説が世界各地に広がった混血ヤトゥンバの、決して表立っては語られない、ひとつひとつ個別具体的な口伝だとすれば、どうだろう。
きみは古い伝説を聞く。20世紀の、とある先進国の大都市が舞台だ。母親は30代後半の知的障害者、同じく知的障害のある18歳の娘を道連れにして車に火をつけた。所轄警察の発表では、近隣住民から20年以上にもわたって精神的苦痛・暴行・嫌がらせを受けており、親子心中を図った母娘はその間、50回以上もの電話で助けを求めていた。近隣地域は、いわゆる労働者階級の集合住宅に住む地元民で構成されている。主に嫌がらせを加えたと見られる不良グループのメンバーには、8歳の少年も含まれる。彼らは日常的に、知的障害母娘の自宅に卵・小麦粉・糞尿を投げつけ、裏庭を荒らし放題に荒らしていた。18歳の娘には常に罵声を浴びせ、ナイフで脅して納屋に閉じ込めたり鉄の棒で殴打したり、およそ想像し得る蛮行のかぎりを尽くしていた。娘には難読症 (ディスレクシア) も見られ、その精神年齢は4歳程度だったと言われる。避け難く、母娘は不眠症と鬱病に悩まされていたらしい。
きみは古い異聞を知る。上述したのはあくまでも所轄警察、および地域当局サイドの公式発表だ。別の人権団体がヒアリングしたところでは、事実はかなり異なる。その最たるものが、無理心中をした母娘にはもう一人の血縁者がいた、というものである。それが、当時19歳の息子。この長男が、事件以降すっかり行方が知れない。事件の一報を聞いたときは、警察ですら、燃え盛る車には親子三人の焼死体があるものと思ったほど、長男はこの家族の虐待場面の常連だった。そして、もし大方の予想通り、長男もまた車内から遺体で発見されていれば、事件は無理心中ではなく、たちまち殺人事件の様相を呈した。逆に言えば、その点がミソだ。つまり、焼死体となった母娘の行政上の処理は、母親による無理心中、もしくは被疑者・長男による殺人、この二択に投げ出されているのだ。長男が見つからないかぎり、この二択は謎のままである。大多数にとっては都合がいい。
きみは知性を働かせる。大多数、と言った意味は察しが付くだろう。知的障害の母子家庭には、父親がいなかった。あるいは、父親が判らなかった。こう言って許されるなら、私生児で生まれた年子の兄妹には、地域住民のほぼ全員の成人男子が父親を名乗り得たのだ。母親は年端もいかぬうちからレイプされ、性の慰み者として地域を這いずり回ってきた。貧困で有名なその地域の、半ば公的な娼婦。警察も知らぬフリを決め込んだのは、ひとつには地域全体のパワーバランスに与したからであり、ひとつには警察自体が暗黙の買春システムの恩恵に預かったからだ。表裏を問わず、地域ぐるみでその家族は蹂躙され続けたのである。そして、示し合わせたように誰もが口を閉ざした黙殺には、ヤトゥンバの「ヤ」の字も見当たらない。それこそ、唯一の絶対的な訝しさというものだろう。100%白で埋め尽くされたオセロの盤面を見て、黒の八百長を疑わないのは余程の鈍感なのだ。
きみは推論に縛られる。では、なぜ行方不明の長男の存在が重要なのか。彼の不在がなければ (彼もまた母娘もろとも焼死体で見つかれば)、三人の一家心中とは見做されなかったのか。答は NO だ。それが、スケープゴートの本質だ。人は誰しも、己に都合のいい、理解しやすいイメージを欲する。他殺の線で地域全体に捜査の手が伸びるリスクを措くとしても、長男の失踪によって得られる二択は、つまり、母娘心中か、長男による殺人か、は格好のストーリーの素地となるのだ。この素地に一言ヤトゥンバというスパイスを加えれば、もう伝説は完璧である。あとは、おのずと人口に膾炙して広がっていく。時間と蒙昧が仕上げてくれる。物理的証拠など一切なくても、生物学的根拠が皆無でも、忌み嫌われる有徴者の刻印さえあれば、悲劇の物語は伝説となり、やがて歴史の闇となる。この伝説に生きたヤトゥンバはどこにもいない、にもかかわらず、こうしてヤトゥンバは新たな足跡を記す。
きみは他説に耳を貸す。失踪した長男は、死亡した母娘よりはいくぶん知的にマシだったという。彼一人が殺されずに済んだのは、古来ヤトゥンバに伝わる「聖なる天秤計り」の在処を仄めかしたからだ、というのが、当該他説の核心である。知る人ぞ知るヤトゥンバには、彼ら独自の方法で影を測るしきたりがある。みずからヤトゥンバを装って、生き延びる道を選んだのだろうか。首尾よく毒をもって毒を制したのだろうか。
きみは子孫に伝える責務を負う。きみが心の片隅で、たとえ1mmでも、ヤトゥンバの血が混ざらなくてよかった、と思うなら。
きみは愛する人を守る。代わりに、きみは大切なものを忘れる。そして、きみは殺される。ヤトゥンバを知らない、とはもはや断言できない。