氷塊に刻む
ツンドラの氷原に短い夏が訪れる。日時計に急かされるように、Kは一面の銀世界をひた進む。
目指すのは、クリスタルに煌めく四角柱のモノリスだ。冷たく透き通る氷塊のなかで、14歳の恋人は凍てつく。
ようよう屹立する氷柱に辿り着く。「元気そうだね」とKは言う。言うが早いか、早速、木槌と鑿を手にすると、さも昨日までの延長のように一年前の続きに取りかかる。眼前にそそり立つ氷の壁を彫り始めるのだ。「元気そうだね」「うん、会いたかったわ、とても」。白い息が吐き出される。カキンカキン、硬い切っ先を掘り込めば、反動で腕がピリピリ悲鳴をあげる。氷の表はストロークのたびに鋭く穿たれ、しかし瞬きひとつできないうちにもう寒風に晒される。彫り込んだ溝にすぐさま風を氷結させるのだ。Kは何度も工具を置いて、ハァーと熱い吐息を吹きかける。
手袋で恋人の顔を拭く。氷のなかの微笑はなにも変わらない、なにひとつ失いたくない。
「ちょっと痩せた?」恋人が訊く。
「また年をとったからね。でも、きみはあの頃のままだ」Kは応える。
「冬のあいだはどうしてたの?」と続けて訊ねる恋人を、Kはおざなりに受け流す。より没頭して氷の壁を削る。束の間、深い切口が文字らしき線を引く。Kはどこかで知っている。短い昼に氷を削ったところで、夜にはまた極寒の闇が舞い戻ることを。次の冬にはすべてが元の木阿弥になり、何も報われはしないことを。恋人は14歳のまま、当時の面影をそっくり宿す。濃紺のブレザーを凍らせ、胸元のリボンを凍らせている。
「あなたには感謝してるの」と彼女は続ける、「私は幸せよね、ずっと、こうして、愛されてるんだもの」。Kはいっそう烈しく鑿を振るう。何十年も繰り返す、その虚しい動作をまだ繋げる。いつしか掛け違えてきたボタンのずれを決して認めまい、と。Kはどこかで知っている。氷の壁を隔て、時の流れは違うのだ。ふたたび鋭く彫りつければ、あっ、と恋人は不意打ちの小声を漏らす。少し置いて、しくしく泣きだす。
「えっ?」Kには分からない。
「ご、ごめんなさい…… 」恋人は恥じ入るように告げる。
彼女の右脚を、一筋の赤い滴が流れ落ちる。
温もった体液が、氷の内側をほんのわずか溶かす。
鑿が刺さったわけではない。赤い滴は、スカートの裾からソックスまで伝わる。果てしなき氷原の白い一点に、鮮やかな血が印されるのだ。Kはとまどう。K以上に、恋人はとまどっている。はじめて見られ、ただ涙で暮れるばかりの彼女を前に、Kは何も見なかったフリしかできない。
冷たい一陣の吹雪を聞く。Kはまた氷を彫り込むのだ。違う違う、それは違うぞ、と心で繰り返し、一心不乱に木槌を打つ。線文字を引く。微かに揺れる韻文の調べと句読点のためらいが、残酷な沈黙を呼ぶ。しばらく黙ったのち、やっと恋人は哀しそうに絞りだす。
「嫌いに、なった?」
「な、なんのこと?」
「だって、違うもの、そこの文字」
「綴りよ。名前のはじめ、私のNはふたつ……」
言われて、Kは呆然とする。途方もない間、ただただ墓碑銘を刻み続けてきたことに、ようやく気が付く。