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幸せはポケットの中に|短編小説

 毎日同じことの繰り返し。退屈な毎日。
 朝6時に起床して、朝食を用意して、夫と娘を起こす。朝食を用意すると言ったって、もちろん大したものではない。昨日の夕飯の残り物とか、卵焼きとか、食パンとジャムを何種類かテーブルに置いて「お好きにどうぞ。」という感じで。手抜きと言ったら、まあ手抜きかもしれない。いや、手抜きなんだけれども。でも私が子供の頃の朝食は、菓子パンひとつだったのに比べたら良い方じゃない。そう思って毎日なんとか溜まった疲れが取れていない状態の自分を奮い立たせて、朝食を用意している。主婦は誰からも褒めてもらえないし、応援もしてもらえない。だから自分で褒めて、励まして、応援するしかない。そうやって14年間、主婦をやってきている。仕事へ行く夫と学校へ行く子供を送り出した後は、朝起きてすぐ回した洗濯物を干して、朝食の後片付け、夕飯の仕込み。部屋の掃除もささっと終わらせて。水回りの掃除は1日一箇所やれば良いことにしている。じゃないと大変で続かないから。そしてあっという間に時刻は10時を回る。なぜもうこんな時間なのか。やっぱり私の効率の悪さが原因なのか、それとものんびりしている性格のせいなのか。それでも今日も頑張ったと自分を褒めて今日の午前中の任務が終わる。その後は、急いで出掛ける準備をして近所のファミリーレストランのパートへ向かう。パートは11時から15時までのちょうどランチタイムの時間だ。ファミリーレストランにはいろんな人が利用するから、働いていて面白い。例えば毎朝開店時間の午前7時に来店し、13時にお店を出るおじいさん。このおじいさんは、お会計の時に必ず何か一言くれる。昨日は
「美味しかったです。ごちそうさま。」
だった。ほとんど毎日同じメニューを頼んでいるのにお食事の感想をくれたのだ。今日なんかは
「良い天気ですね。」
だったが、今日の天気は曇り時々雨だ。こんなモヤモヤする天気はない。ボケてしまっているのだろうか。しかしいつも素敵なお洋服をきっちりと着ていて、来店中は静かに本を読んだり新聞を読んだりしている。お会計の時の一言以外に様子がおかしいことはない。少し変わったおじいさんだ。後は、平日の12時頃から15時くらいまでずっと勉強をしている少年。少年が通い始めてからもう3年くらい経つだろうか。
「大学受験の勉強よあれは」
「今2浪くらいかしら?」
「良い大学目指してるのかしら」
「でも親御さんも心配してるわよねきっと」
なんて主婦の人たちが噂をしている。少年が通い始めた当初から見ているからか、少年の成長を見ている母のような気持ちになる。背も少し伸びたような気がするし、服装や髪型、仕草も大人っぽくなってきている。私は少し、この少年の成長を見るのが楽しみでもある。他にも、習い事の帰りなのか大きいリュックサックを持ったおばあちゃま三人組や、昼食で利用するサラリーマン、なぜか一年中半袖の中年男性などがよくご来店される。今日もパートを終えて、パート先のファミリーレストランの横にあるスーパーで明日の夕食の食材を買って帰る。ヘトヘトな体で家に辿り着くのは16時頃だ。そこから干していた洗濯物を取り込んで、畳んで、お風呂を溜めて、夕食の準備。夕食の準備をする前に少しだけおやつタイムを挟む。昼食を食べる時間がないので、ここで小腹を満たすのだ。
 毎日毎日、ほとんどこれの繰り返しだ。夕食を食べた後は片付けをして、お風呂に入って、少しだけテレビを見て就寝。疲れ切って眠りにつくのは23時くらいと昔に比べるとかなり早い就寝だ。あまり自分の時間が取れないこの生活を続けていたからか、趣味ももうすっかり無くなってしまった。それより早く寝たい、じゃないと明日の朝起きるのが辛い。少しでも寝坊すると朝食が間に合わないし、寝起きの悪い夫と娘を起こすのにも結構時間が取られるものだ。明日の段取りを考えながら眠りにつく毎日。それがゲームみたいな感覚で楽しいと感じる時もあるが、今はそれがすごく嫌。明日になったら、肩の荷を全ておろして、自由になっていたりしないかなぁなんて思いながらも、明日の段取りをしっかり考えてしまう自分も本当に嫌。
 
小腹が満たされた頃、思い立ってずっとごちゃごちゃに放置されていた書類用引き出しの整理を始めた。思い立って何かを始めてしまうのは昔からの悪い癖だ。これのせいで、その後の段取りの時間がずれて後悔するのは自分である。でもやめられないのだ。早く片付けてしまおう。
 これは必要な書類、これはいらない書類、これはシュレッダー…素早く判断し振り分けていく。すると、一枚の写真が出てきた。髪の毛はボサボサで顔はノーメイクでやつれていて人には見せられないような酷い姿にも関わらず幸せそうに笑っている私と、泣いた後なのだろうか目を真っ赤にして上手く笑えていない夫と、まるで宇宙人のような小さな小さな可愛らしい娘。
 
 娘を産んだ直後の家族写真だった。私はその時、忘れかけていた記憶が鮮明に甦ってきた。夫と出会ったこと。夫と出会えたことが奇跡だと毎日神様に感謝しながら眠った日々のこと。初めて夫と喧嘩したこと。二人で泣きながら仲直りをしたこと。一緒に住み始めて喧嘩が増えたこと。増えていく二人のルールに嫌けがさしたこと。それでも上手くやっていこうと二人で歩み寄る努力をしたこと。二人で同じ小さな布団で眠りにつくことが幸せで幸せでたまらなくて、明日が来なければ良いのにと願ったり、誕生日のデートでとっておきのデートプランを用意してくれた前日の夜なんかは早く明日が来れば良いのにと願ったりした幸せな夜のこと。朝方まで本音で話し合った時のこと。「結婚しよう」と夫らしいシンプルなプロポーズを受けたこと。その時の夫の照れた顔。婚姻届を書くときの緊張感。婚姻届を出した後の幸福感。そして娘を妊娠したことが分かった時のこと。夫に報告した時の夫の表情。妊娠中に救われた夫の行動や言葉。出産の時の痛み。そして出産後の言葉に表せないほどの感情、娘の産声、顔、そして「ありがとう」と言いながら泣いていた夫のこと。その時私は、夫と娘の笑顔を守る家庭を作ろうと心に決めたこと。全てが一気に一瞬にして甦ってきた。はっとした頃には、もうすでになぜか涙がこぼれ落ちていたことに驚きを隠せなかった。涙を流したのなんて何年振りかしら。
 早起きだって、洗濯だって、掃除だって、ご飯作りだって、大切な家族を、大切な家族の笑顔を守るためにしてきた行動なのに。全てが作業になってしまっていたことに気づいた。全てが計画通りに、何事もなく一日が終われるように考えて行動して繰り返して。

 時刻は夕方の18時。私はエプロンのポケットに写真をそっと大切に入れて出掛ける準備をした。玄関の方から
「ただいまー!」
と部活帰りの娘が帰ってきた声がする。
「ちょっと買い出し行ってくる!夕飯少し遅くなるからおやつ少し食べて待ってて!あ、先お風呂入っちゃいなよ!」
と娘に声をかけて玄関を飛び出した。雨はすっかり止んでいた。夏の夕暮れ時。まだ少し蒸し暑い、汗ばむ手でハンドルをしっかりと握って、自転車を急加速させる。いつもはブレーキをかける下り坂も、今日はブレーキをかけずに勢い良く降っていく。とても気持ちが良い。こんな気分はいつ振りだろうと思いながらあっという間にスーパーに着いた。買い物を済ませ急いで家に向かう。鼻歌でも歌いながら。
 帰宅後、
「何かいいことでもあったの?」
いつもと様子が違う私を見て娘が笑った。私は返事を鼻歌で返して、早速夕飯作りに取りかかった。朝仕込んだ食材を横目に新たにたくさんの食材を切っていく。部屋に篭もりがちな娘もなぜだか今日はキッチンのそばのリビングでテレビを見ながらくつろいでいる。夕日が沈んでいくと共に、夫が帰ってきた。
「いい匂いがするな」
キッチンを覗いてくる夫。夫がキッチンを覗きに来るなんていつ振りかしら。ふふっと笑いながら、少しだけ味見をさせてみる。娘もそれに気づいて
「パパだけずるい!」
と走ってこちらに来たけれど、娘には味見をさせなかった。
「パパだけ特別よ」
娘はほっぺを膨らませてまたテレビを見にリビングに戻って行った。
 時刻はもう20時を過ぎていた。お腹をペコペコに空かせていた三人の目の前にあったのは娘の好きなマカロニサラダ、夫の好きな唐揚げ、そして私の好きなスモークサーモンの乗ったサラダ、そして三人が大好きな大きなハンバーグ。
「美味しそう!」
「今日は贅沢だなぁ」
夫も娘も目をキラキラと輝かせた。あまりにもお腹が空いていた三人は、豪華な夕飯を30分ほどで完食した。久しぶりの満腹感だ。お腹いっぱいになった夫と娘は、いつものように各自の部屋へ向かった。
 今日はなんだかとても充実した良い一日だった。お皿洗いをしながら考える。こんなに気持ち良く洗い物をする日がまた来るなんて。昨日と今日で何か現状が変わったわけではない。明日もまた、同じことを繰り返す。でも明日もきっと良い日になる。二人の笑顔が浮かぶ。笑い方がそっくりな二人。娘はどんな大人になるだろう。もし結婚をして、子供を授かって、主婦になった時。きっと私みたいに悩む時が来るだろう。そんな時は今日の出来事を聞かせてあげよう。きっと何かの役に立つはず。その頃私と夫は二人でのんびり過ごして、昔話に花を咲かせたり、手を繋いで散歩に行ったり。その前に娘がお嫁に行く時、夫は大丈夫かしら。また目を真っ赤にして上手く笑えないのが浮かぶわ。

 エプロンを脱ぎ、ハンガーにかける。母の日に娘からもらったお気に入りのエプロン。そのエプロンのポケットがキラキラと光っているように見えた。私はそのままにこりと笑い、鼻歌を歌いながらお風呂場へ向かった。

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